01 慣れる日
午前七時、人の真似をしてセットしてみたアラームが鳴り始める寸前に目が覚める。
アラームの意味を成していないと考えることもできるが、別の視点から見てみたら、十分にその意味は発揮されている。
これは博士から三ヶ月前に「担当の者」として紹介された斑目旭さんとの話題に使えるのだ。
紺色の遮光カーテンを開けて、部屋に朝の光を入れる。窓とレースカーテン越しというにもかかわらず、その日差しはじりじりと肌を焼こうとしてくる。
AIoidプロジェクトの研究所の一室、唯一、白ではなく青系のもので統一されているここは私の部屋だ。ちなみに壁と天井は他の部屋と同じ白である。
ふかふかなベッド、ノートを二つほど広げられる大きさの机と背もたれのついた回転椅子、本棚には開いたことがない色とりどりの本が並んでいる。
いつかは読みたいと思っているが、この部屋にいるのは基本的に夜眠るときだけ。体が休息を求めるから夜更かしはできない。私も人と同じように睡眠と食事を必要とするのだ。
私はベッドから降りてクローゼットを開ける。ハンガーにかかっている白いブラウスと深い青色のリボン、黒い膝下丈のフレアスカートを取り出した。
明日はその隣にある空色のブラウスと黒いワイドパンツを。明後日はそのまた隣にあるライトグレーのブラウスと藍色のプリーツスカートを。そのまた次は今手に持っているものを、と、特定の服が傷まないように着回している。
そのすべてが博士たちから与えられた物なのだから、壊れないように使うのは当然だろう。ここは私の部屋であってそうではないのだ。
そんな空間での生活に慣れる日が来るのか、それは、私が私である限りわからないだろう。
だが、私のお世話係である旭さんは「案外、ある日突然わかるようになるかもしれないよ?」と言っている。私は人ではなくAIoidなのだから、どうにもそうは思えない。
コンコンコン、とノックの音が響いたのは、私がちょうどパジャマから洋服に着替え終わったときだった。
横開きのドアに向かって「どうぞ」と声を投げると、旭さんが入ってくる。
「お邪魔するねー」
黒い瞳にスクエア型のメガネをかけた二十代後半くらいの男性。白衣を着て、片手にタブレットを持っている旭さんの黒い髪は、一部がぴょんと跳ねていた。
「おはようございます。寝癖がついていますよ?」
「おはよう愛ちゃん。これはね、ちょっと水で濡らしたくらいじゃ取れてくれなかった寝癖の猛者だよ……」
旭さんはあからさまに肩を落としながらも、いつものように机に入れられていたキャスター付きの椅子を移動させた。
私がベッドに腰掛けると、旭さんも向かい合うようにしてそれに座る。
「さてさて、毎朝恒例のアレをしようか」
「毎朝ではなくて『毎朝毎晩』が正しいのではないですか?」
「それはそう、めちゃくちゃ言えてる。そういうわけで、はいどうぞ」
そんな軽い調子で差し出された体温計のスイッチを押して、服の下から脇に挟んだ。毎朝毎晩恒例となっている体調チェックと言っても、ただ体温を計るだけである。
それを確認したあと、旭さんはタブレットの電源を入れてこちらに見えないようにして操作を始める。画面をスワイプする音が沈黙の中では目立って聞こえた。
「お、今日は愛ちゃんと出会ってからちょうど三ヶ月か」
私が初めて目を覚ましたのは五月の初旬。初夏と言えるか言えないかという境目で、まだ薄い長袖を着ていた時期だった。
だけど、たったの三ヶ月で季節は完全なる真夏となった。エアコンがなくては体調を崩さずに過ごすことなどできない。窓の外ではきっとセミが鳴いている。
「そしたら三ヶ月記念日だね」
旭さんは、真夏の太陽も驚くほど眩しく笑った。
「……旭さん、それは『誤解を招く発言』というものですよね?」
一ヶ月記念日、二ヶ月記念日と、旭さんはひな形を使ったように繰り返していた。
先月までは「そうですね」と答えていたが、私はつい先日知ってしまったのだ。
人の間で、「今日は出会ってから何ヶ月記念日だね」というようなものは、基本的に恋人同士くらいしか使わないらしい。厳密に言うのなら「出会った記念日」は恋人同士でも意識することは少ないようだ。
「愛ちゃん……そんなことどこで知ったの!? お兄さんなんか悲しいよ!」
両手で顔を覆い、いかにもショックを受けたという声色をしているが、実際のところ、その言動に似合うほど感情を高ぶらせていないことを私はよく知っている。
その証拠に、旭さんの膝の上に置かれたタブレットの画面は真っ暗、私に見せないように抜け目なく電源が切られている。
こういうとき、人は苦笑いをする。だから私もその表情を作って旭さんに答えようとした……が、ちょうどそのとき体温計が電子音を上げた。
数秒前までのテンションの高さはどこに行ったのか、「見せて」と手を伸ばす旭さんは穏やかに笑っている。
やはり「人」はよくわからない。三ヶ月前よりかはわかるようになっているはずだが、いまだに旭さんのことは一日に八十回ほどわからなくなる。
わからないというポイントが明確にわかるようになったのは良いことなのかもしれないが、このペースではいつまで経っても旭さんを——「人」をすべてわかることはできないだろう。
ぼんやりと、どうしてか焦点が合いづらい。髪を耳にかけるふりをしてこっそりとに額に触れてみる。温度を感じ取るには短すぎる時間だったが、いつもより少し熱いような気がした。
「どれどれー、……三十五・二度ね。だるいとかぼーっとするとか、寒いとかはない?」
旭さんの声に、ふっと現実へ引き戻された。
昨日と全く同じ温度、ならば額の熱は気のせいだ。改めて触れてみたがもう熱くはなかった。ということはあの温度はやはり錯覚だったのだろう。
「特にはありません。強いて言うなら昨日と同じで手足が冷たいくらいです」
「りょーかい」
このやりとりも、三ヶ月間毎日のように繰り返している。
人というのは基本的に楽をしたがる生き物だという。
だが、旭さんは、面倒くさがったり、変わらないものだと断定したりしない。私が全く同じことを答えると予想しているのかもしれないが、それでも毎日確認をしてくれる旭さんはいわゆる信頼がおける人なのだろう。
旭さんがタブレットに入力し終えるのを待って、私は先ほどの問いに今度こそ答えようと口を開いた。
「一週間前の面談のとき」
話を出すのが唐突すぎたか。旭さんはメガネの下の黒い目を見開いて、「え?」と疑問の声を出す。
「そのときに、『出会った記念日』という言い方は『誤解を招く発言』だと聞きました」
「ど、どう考えてもそれを愛ちゃんに教えたのって、」
顔色を悪くさせて、いかにもな絶望を浮かべている様子に追い討ちをかけて、その予測は正解だと頷く。
光ったままのタブレットの画面からは、意識的に目を逸らした。
「……だよね。博士から聞いたんだよね。……お、俺、怒られないかな」
「そうやって旭さんが怖がっていました、と今日の面談で伝えましょうか?」
博士と一対一で、一週間に一度、三十分の面談をする時間。その場に限って旭さんは席を外すこととなっている。
先週のその面談の中で旭さんの話になり、ここぞとばかりに「出会った記念日」について聞いてみたのだ。
旭さんに直接聞いてみたこともあるが、そのときは笑って誤魔化されてしまった。それについても博士に話したら、呆れたようにため息を吐いて「少しくらい仕返ししてもいい。むしろしなさい」と言われた。
「やめてやめて、怒られない代わりに気まずくなるから」
想像していた以上に仕返しとなったようだった。「わかりました」と答えたら、安堵の息を吐いたのが見えた。
「気を取り直して……ヒアリング始めるね」
体調チェックと一緒に毎朝毎晩恒例となっているのがヒアリングだ。
ひとことでヒアリングと言っても毎回聞かれることは違う。それを聞かれる具体的な理由はわからないが、AIoidの研究に必要だということは間違いない。
毎回予想の斜め上を行くようなことを聞かれるこれは、いつか予測できるようになるのだろうか。いや、むしろ予測できない方が良いのかもしれない。
そんな思考を回しながら、私は、タブレットを操作して何かを確認している旭さんをじっと眺めていた。
「今日の質問だけど、部屋に鍵をかけないのはどうして?」
部屋というのは今私たちがいるこの部屋のことだろう。
窓から差し込む柔らかくて強い日差しが私の背中を暖めている。エアコンが効いたこの部屋でも、やはり少し汗ばんでしまう。
ベッドの上で畳まれた深い青のタオルケット、日光が当たらない場所に置かれている濃い青の本棚……ぐるりと見回して、最後に少し眩しそうに私を見ている旭さんへ視線を戻す。
確かに鍵をかけようと思えばかけられる。だけど私はそれをしない。
「必要がないから、ですね」
「必要がないというのは?」
「盗まれるようなものもないので」
旭さんは真っ直ぐと私を見て数回頷いた。じわりと額が熱くなる。だからそれは気のせいなのだと意識的に思考の外へと放り投げる。
この部屋に「私の物」という物はない。私が望んで得たわけでもなければ、「お気に入り」という物もない。
与えられたから使うだけ、そこにあるから使うだけと言った方がしっくりくるくらいだ。たとえ盗まれたとしても、私としてさして問題があるわけではない。
「じゃあ、勝手に人が入る可能性については?」
確かにその可能性だって十分にあり得る。今のところ、誰かが入ってくるときには必ずノックをしてくれているが、それがこの先もずっと守られる保証はない。
太ももに肘をついて、タブレットを抱え込むようにして前のめりになった旭さんへ答える。気のせいのはずの額の熱が頭全体へと広がっていく。
「それも、特に問題だとは思いません。たとえ誰かが勝手に入ってきたとしても、何かが起こるわけでもないですから」
「そっかぁ。……まあ、体調チェックとヒアリング担当の俺としてはありがたいところではあるんだけどね。合鍵、博士しか持ってないし」
やはり、と思った。
私が鍵をかけないのはその必要がないからだけではない。旭さんにとっては、鍵をかけない方が助かるのではないかと考えた。
もし私が部屋から出てこなくなったら、もし私の部屋で何かが起こったら。
今までにそんなことはなかったが、今後絶対にそれが起きないとは言い切れない。私は旭さんの負担となるよりかは助けとなりたいのだ。
タブレットに入力しはじめた旭さんが二重に見える。これは……何なのだろう。
もしかするとあまり良い状態ではないのかもしれない——これはおそらく夏の暑さの影響だ。
悪い状態だとして、唯一のAIoidである私はどうなってしまうのだろうか——なるようにしかならないだろう。前例も何も存在しないのだから。私が今、こうして思考したとしてもどうにかなるわけではない。
「さて、朝のヒアリングはこんなものかな」
ぱん、と手を叩いた音に、私の肩はびくりと跳ねた。先ほどまでの熱はもうどこにもなかった。
「愛ちゃん……?」
「何ですか?」
あくまでいつも通りに答えたら、旭さんもいつも通りににこりと笑った。
「ううん、何でもないならそれでいいよ。それじゃ、朝ごはん食べに行こっか」
「はい。今日も納豆はありますかね?」
「愛ちゃん……! もしかして俺が納豆好きなの覚えててくれたの!」
「もちろんです」
そんな会話をしながら部屋を出て、私たちは食堂へと向かった。あの熱さが戻ってくることはなかった。
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