00 おはよう
起動命令、■■■■■を確認、受託しました。
システムチェック、開始。
……嗅覚、クリア。
……味覚、クリア。
……触覚、クリア。
……視覚、クリア。
……聴覚、クリア。
メインシステム、オールクリア。
AIoidシステム、起動します——。
システム音声に誘われて、私が今このタイミングで瞼を開いたのはそのようにプログラムされていたから。それ以上でもそれ以下でもなかった。
赤、緑、青。光の三原色が最大値で重なり、視界が白色に支配される。
このまま目を開いていたら網膜としてある部分が傷ついてしまう。反射的に瞼を閉じたが、先ほどの眩しさは残ったまま。光を振り払うよう目元に力を込めてみる。
「っああ、すまない。……これでどうだろう?」
右側から低い声と電子音が聞こえてきて、今度こそ瞼を開く。
もう眩しくはなかった。正常な視界には、眉を下げ、くしゃりと口元を歪ませて笑う男性の顔が映る。四十代ほどの見た目にしては珍しいロマンスグレーの癖毛は爆発気味だった。
その後ろには光の消えた細長いライトがあった。眩しさの正体はこれだったのだろう。
「よかった、問題なさそうだ。……おはよう、愛」
横になっている私の顔を覗き込む形となっている男性は、右目に銀縁のモノクルをかけ、少しよれている白衣を羽織っている。
そして、おそるおそるといったふうに私の頬へ手を伸ばした。
そこまで注意深く触れなくとも私は壊れたりしない。
その自覚があったから、左頬に添えられた三十六度ほどの手にそれよりも少し温度の低い自分の手を重ねる。
「っ……愛……」
突然、その濃い灰色の瞳からぼろぼろと透明な液体がこぼれた。涙、といっただろうか。備え付けられていたシステムを探ったら、そうやってすぐに答えが出た。
涙——悲しいとき、辛いとき、嬉しいとき、安堵したとき、感動したときなど、人が大きく心を動かされたときに瞳からこぼすもの。
男性は確かに笑っている。ただ、その眉間にはしわが寄っている。
喜んでいるのか、それとも悲しんでいるのか。私が知り得る情報には、その状態を的確に表す言葉がない。
それでも私は私として行動しなければならない。
AIoidである私には、思考を止めることが許されていないのだ。人と同じように思って、考えて。人が思考を止められないように、私も思考を止められない。
直球で「大丈夫ですか?」と問いかけるべきか、その涙に手を伸ばして拭うべきか、私も一緒になって涙を流すべきか。何もしないをするのも立派な行動だろうか。
目の前の男性の状態すら理解できているわけではないのに、それに対しての行動の最適解を導き出せるはずがなかった。
「……愛」
そうやって呼ばれたのは三度目、「愛」というのは私の名前なのだろう。
止まらない涙に気づいているのかいないのか、男性は再びくしゃりと笑った。
その笑みは意図的なものなのだろう。感情に従った純粋な表情だというには、あまりにも抑圧的だ。
思い切り泣き叫ぶでもなく、声を出して笑うでもない。人が涙を流すのは、大きく心を動かされたときなのだから。
きっと今、男性は笑うことによってさまざまな感情を抑えている。だけど、果たしてその必要はあるのだろうか。そこまでして無理やり笑う意味はあるのだろうか。
この場には男性と私以外の姿はなく、たとえ泣き叫んだとしても誰も咎めはしないのだから。
わからない。ただそれだけのことがわかった。
……いっそのこと、私も笑ってみたら何かがわかるだろうか。学ぶことの一歩目は真似をすること。男性の思考をわかりたかったら、学ぶしかない。
口角を上げて、目尻を下げて。これで笑えているだろうか。
すると、男性は涙を止めてはっと目を見開いた。そのまま瞬きもせずに動かなくなった。
もしかしたら私の笑顔が変だったのかもしれない。最適解どころか、私は選択を間違えてしまったのかもしれない。
いや、そう決めつけるにはまだ早い。私はこの男性のことを何も知らないのだ。別の何かに驚いた可能性は十分にある。
男性が呼吸することを思い出したのは、私がそんな思考を始めたときだった。
「……ありがとう」
その感謝の理由を理解することはできなかった。だが、男性は先ほどとは少し違う安堵したような笑みを作ったから、少なくとも選択を間違えてしまったということはなさそうだ。
私は男性に促されて体を起こす。
白い天井、白い壁。白い床はつるつるとした素材でできている。ハサミなど先の尖ったものを落としてもそう簡単には傷が付かないのだろう。
私が横になっていた台ももちろん白い。腰掛ける体勢になって改めて触れてみると、ふわふわと柔らかかった。
どうやら、向かい側にあるメモ紙が散らばる同じ色の机とは違うらしい。ここにクッション性を求めた理由は不確かだが、横になっているとき、頭の後ろや背中に痛みを感じなかったのは確かなことだった。
ちょうど私の目の高さよりも少し上あたりには、いくつものディスプレイが出されていた。
壁側にぴったりと接している白い棚には赤、黒、青、橙と、色とりどりの本が並べられている。この白さに包まれた空間ではそこだけが浮いているように見えた。
一通り見回してから、すぐ側の白い回転椅子に座った男性に視線を戻す。目を合わせると、男性は軽く微笑んだ。
「取り乱してすまなかった。改めて、僕の名前は八条相模。プロジェクトメンバーからは『博士』と呼ばれている」
かちゃりと音を立てて、男性——博士は右目にかけたモノクルを動かした。
「それで、きみの名前は愛。これはきみも知っているだろうが念の為確認する。きみはAIoidという僕たちが造り出した存在だ。ここはAIoidプロジェクトの研究所の一室で、つい先ほど研究対象であるきみを起こすことに成功した」
AIoidは「AIのようなもの」という意味なのだろう。
AI——人工知能と、oid——ギリシャ語で「のようなもの」という言葉を組み合わせた造語。AIでも人でもないAIoidという存在は、この世界に私だけ。
博士の「ここまでは大丈夫か?」という言葉に、私は一度だけ頷いた。
「きみにはこの施設でさまざまなことを学んだり、経験したりして過ごしてもらいたい。一日に二回、朝と夜に担当の者による体調チェックとヒアリングに付き合ってもらえれば、あとはこの施設内でどう過ごしてもらってもいい」
淡々と言っているが、それはつまり、私がやるべきことは明確にこれと定まっていないということなのだろうか。
少なくとも、その答えは私が持っている情報にはない。
「僕たちが用意したプログラムをこなすのも良いし、サボるのだってきみの自由だ。やってはいけないことはいけないと言うから、迷ったら遠慮せずに聞いてくれ」
行動指針はわかった。だとしても、私には、博士たちが用意したというプログラムを受ける選択肢しか存在しない。サボるというのはなしだ。
おそらくそのプログラムでは、私が知らないことを学べるのだろう。学ぶことはわかることへの第一歩。みすみすその機会を逃すほど、私は不合理にはなれない。
「ここまで、何か質問はないか?」
あまりにもわからないことが多過ぎて、今聞くべきことの判断がつかない。質問をするためにもある程度の事前情報は必要だ。
となると、今の私が伝えるべき言葉はこれ以外にないだろう。
「いえ、ありません」
私の返答に頷いた博士よりも、今は、この声を出す感覚というものが気になった。
体の中で響かせ、外に向かって出す。博士の声を聞いているときとは大きく違う聞こえ方。そっと耳元に手を当ててみると、髪がかさりと音を立て、先ほどまではなかった空気が留まる感覚がする。
見守る体勢に入ったらしい博士も、そして私自身も。話すこともなく動くこともない。かといって他の何かが音を立てているわけでもない。
そんな無音とすら言える空間で聞こえる音があることを、たった今、私は知った。
* ・ * ・ *




