最終話:白銀の断罪。医師の宣告と、料理人としての死。左手で抱き寄せた、「唯一の居場所」。
「右手指、手掌の貫通刺創! 緊急オペ入ります!」
ドラマのような喧騒の中、僕の意識は深い闇へと落ちていった。
翌朝、目が覚めた僕を待っていたのは、白く無機質な病室の天井と、残酷な現実。
「プロの精度に戻ることは、極めて困難です」
医師の言葉に泣き崩れる亜耶。けれど、僕の心は驚くほど静かだった。
包丁を握る右手よりも、彼女の肩を抱く左手の体温の方が、ずっと確かで重い。
才能という浮き草のような人生を、彼女はその執念で、唯一無二の「居場所」へと縫い付けてくれたのだから――。
遠くから近づいてきたサイレンの音が、アパートのすぐ下で唐突に止まった。
重く複数の足音と共に救急隊員たちが到着し、静まり返っていた廊下は異様な騒々しさに包み込まれた。
視界の端で、わなわなと震えたまま座り込んでいる由美の姿が見える。隊員の一人が彼女に声をかけているが、彼女の瞳にはもう、僕の姿すら映っていないようだった。
「包丁は抜かないで。そのまま固定しますからね。……いいですか、動かさないで」
救急隊員の、恐ろしいほど冷静な指示。その声とは裏腹に、僕が背けていたドアが、先ほどまでより激しく叩かれた。
「包丁!? 包丁ってどういうこと!? 優流、お願い、開けてよ!!」
亜耶の、悲鳴にも似た叫び。隊員がドア越しに、遮るように告げた。
「彼は今、少しでも動かすと危ない状態です。こちらで固定してからドアを開けますから、少し待っていてください」
地面に預けていた僕の右手を、隊員が慎重に持ち上げる。その瞬間、骨を抉るような、あるいは焼けた鉄芯を掌に直接押し当てられたような、凄まじい熱と激痛が走り、ようやく僕は短い悲鳴を漏らした。
視界の隅では警察官たちが到着し、由美の周囲を固めていくのが見える。
僕の右手は、何重もの厚いガーゼで包丁の根元を覆われ、強力なテープで腕ごとぐるぐる巻きに、無機質な塊へと固定されていった。
「ゆっくり立ち上がれますか? ストレッチャーに腰を下ろして。……そう、ゆっくり」
肩を貸され、這いずるようにして銀色の台車へと体を預ける。
そして、ようやく、僕が命懸けで守り抜いたドアが開かれた。
中から飛び出してきた亜耶は、僕の手に刺さったまま固定された「それ」を見て、喉の奥から空気が漏れるような声を上げた。
「あ……ああ……ああぁ……」
胸の前で合わせた両手を激しく震わせ、彼女は崩れ落ちるように僕に縋り付いた。
「優流……っ、ごめんなさい、私のせいで……私のせいで、こんな……っ!!」
「亜耶……。君が無事で、本当によかった。……僕は満足だよ」
激痛に耐えながら、僕はそれだけを告げた。嘘じゃない。右手の感覚が遠のいていく恐怖よりも、今こうして彼女の涙に触れられる安堵の方が、何倍も大きかった。
隊員が亜耶に問いかける。
「ご家族の方ですか?」
「はい……妻です……。彼の、妻です……」
亜耶が涙声で、けれど毅然と答えたその時だった。
「あの女が……あの女が私のゆーくんを奪ったのよ! 返してよ!!」
警察に囲まれていた由美が、獣のような叫び声を上げて警察官を掻き分けようとした。けれど、すぐに警察官達によって力ずくで取り押さえられた。
それが、僕が見た最後の、由美の姿だった。
遠ざかる彼女の罵声を背に、僕と亜耶を乗せた救急車は、夜の闇を切り裂いて走り出した。
救急車の中の記憶は、ひどく曖昧だ。
ただ、亜耶が震える手で僕の左手をずっと握りしめていたこと。涙で潤んだ瞳が、僕の顔を縋るように、消えてしまうものを繋ぎ止めようとするように見つめていたことだけを覚えている。僕は残った力で、彼女に安心させるような微笑みを返し続けた。
病院に到着すると、目まぐるしく専門用語が飛び交う。
「右手指、手掌の貫通刺創! 緊急オペ入ります!」
ドラマで見た光景が、自分の身に起きている。どこか他人事のような浮遊感の中、僕は手術室へと運ばれた。
ゴム手袋が擦れるキュッという音。規則的に刻まれるモニターの電子音。
「これから麻酔をかけます。ゆっくり、数を数えてください……」
無機質な白銀の世界の中で、僕の意識は深い、深い暗闇へと落ちていった。
翌日。目を覚ますと、僕は見慣れない一般病棟の天井を見つめていた。
右手の指先をほんの少し動かそうとしただけで、手のひらの芯を貫くような、重く、鈍い痛みが走る。
回診に来た医師に、僕は喉の奥から掠れた声を絞り出した。
「先生……右手は、どうなりますか?」
医師はカルテから目を離さないまま、事務的に事実を告げる。
「手術は成功しました。幸い、主要な動脈の損傷は避けられましたし、骨も粉砕はしていません。リハビリ次第で、日常生活に大きな支障は出ないでしょう」
日常生活——。僕が求めているのは、そんな言葉じゃない。
「僕は料理人なんです。……以前のように、包丁を握れますか?」
その時、カーテンを開けて亜耶が入ってきた。
医師は僕と亜耶を真っ直ぐに見据え、言葉を選びながら、けれど残酷な事実を突きつけた。
「……正直に申し上げます。神経と腱が複雑に癒着する可能性が高い。親指と人差し指は動きますが、プロの料理人に求められる小指と薬指の細かな制御が『以前と同じ』レベルまで戻ることは、医学的には極めて困難です」
「そんな……そんな……っ!」
日常生活という言葉を聞いて、半分だけ覚悟をしていた僕とは違い、それを聞いてしまった亜耶のショックは計り知れなかった。彼女はその場に泣き崩れ、子供のような嗚咽を漏らした。
静まり返った病室に、彼女の泣き声だけが虚しく響く。
僕はそんな彼女の肩を見つめながら、どこか冷めた、けれど澄み切った心で、その事実をすんなりと受け入れている自分に気づいていた。
ショックがなかったわけじゃない。けれど、後悔なんて微塵もなかった。
あの廊下で、もし僕が右手を差し出さなければ、由美は死んでいた。そして、背後にいた亜耶の心も、一生消えない傷を負っていたはずだ。
(……これで、よかったんだ。二人の命を救うための代償がこれなら、安いものだ)
かつての僕は、何を与えられても器用にこなした。調理の技術も、勉強も、人より短い時間で「正解」に辿り着けてしまう。けれど、その器用さが僕を孤独にした。自分の居場所をずっと探し求めていたんだ。
料理人の道を絶たれた時、世間的には挫折だったのかもしれない。けれど、僕の心はどこか静かだった。
包丁を握る手よりも、今、亜耶の肩を抱くこの左手のほうが、ずっと確かで重い体温を感じている。
才能のせいで浮き上がっていた僕の人生を、彼女はその執念で地面に縫い付けてくれた。
もう、華やかな厨房に戻る必要なんてない。
亜耶という、逃げ場のないほどに濃密で、残酷なまでに温かいこの場所こそが、僕がずっと探し求めていた唯一の「居場所」なのだから。
「亜耶、泣かないで。僕は亜耶が無事なら、それで満足なんだ。……でも、これからは、違う仕事を見つけないといけないな。苦労をかける。……ごめん」
僕が謝ると、亜耶は顔を上げて、泣きじゃくりながら僕の胸を弱く叩いた。
「なんで優流が謝るの……優流の馬鹿……っ。私も頑張るから、一緒に……」
「優流の馬鹿」という言葉が、僕の胸の奥に、医師の宣告よりも深く、けれど温かく突き刺さった。
僕が守りたかったのは、料理人としての栄光じゃない。僕の胸を叩く、この僕がいつもなかせてばかりいる愛おしい女性との未来だったんだ。
「ありがとう、亜耶。一緒に生きていこう」
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