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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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エピローグ:恩師の涙と、新しい夢。右手の傷跡を誇りに、愛する人と歩む「真実の居場所」。

病室に響いた、厳格な師匠の震える声と涙。

料理人としての道は途絶え、僕はかつての夢を病室に置いてきた。


けれど、絶望の淵で亜耶が示してくれたのは、新しい「光」だった。

かつて僕たちを助けてくれた、あのコンビニオーナーのような場所を、今度は二人で作る。

 狂気の終わり

 数日後、病室で警察の事情聴取を受けた。僕は起きた事実をありのままに話した。

 警察によれば、由美は精神鑑定や諸々の手続きを経て、親による「24時間の監視」と「一人での外出禁止」を条件に、実家へと戻されたという。僕たちには二度と近づかないよう、警察からも親からも厳重に念押しされたそうだ。

 法的な決着。物理的な距離と監視という「壁」ができた。

 けれど、心から安堵はできなかった。


 ***


 師匠との別れ

 定休日の水曜日。会長が、僕が店に置いたままにしていた服と包丁を持って見舞いに来てくれた。亜耶が連絡を入れてくれたのだ。

 僕は、もう以前のように包丁を握れないことを正直に伝えた。

「……会長、あんなに熱心に仕込んでくださったのに、申し訳ありません」

 頭を下げる僕を、会長はじっと見つめていた。そして、震える声で吐き捨てるように言った。

「こんなことになりやがって……。この、馬鹿野郎が」

 会長の目には、大粒の涙が浮かんでいた。厳しい師匠が、僕一人のために流してくれた涙。その温かさが、失った夢への未練を、少しだけ溶かしてくれた気がした。


 ***


 新しい街へ

 入院から十日後。引越しの予定日にギリギリ間に合う形で、僕は退院許可を得た。

 週に数回の通院は欠かせない。紹介状を握りしめ、僕は亜耶に付き添われて病院の玄関を出た。外の空気は、あの日から何も変わっていないようで、どこか新しく、そして澄んでいた。

「行こう、亜耶」

「うん!」

 僕の腕に抱きつく彼女と僕はこれからを歩いて行く。


 ***


 新しい街、新しい暮らし。

 あの日の夜の闇が嘘のように、僕たちの前には穏やかな日々が広がっていた。右手の自由は完全には戻らなかったけれど、リハビリを重ねる中で、少し不自由ななりに日常生活は送れるようになった。


「ねぇ、優流。私たちを繋いでくれた、あの原田オーナー達のようなコンビニ……。あんな風に、誰かがほっとできる場所を、今度は私たちが作れたらいいよね」


 ある日の何気ない会話から生まれた新しい夢。

 料理人として「皿」の上で表現することはできなくなった。けれど、二人で「場所」を作ることで人を幸せにすることはできる。僕たちは二人三脚で、一歩ずつその夢を形にしていった。


 そして迎えた、店舗のオープン初日。

 早朝の澄んだ空気の中、磨き上げられた自動ドアの前に立つ。

 隣には、あの日、僕が命を懸けて守り抜いた、最愛の妻。そして、大切な仲間たちが笑顔で並んでいる。


 ドアベルが鳴り、記念すべき第一号のお客様が足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ!」


 僕と亜耶と仲間達の声が重なり、店内に響き渡る。

 右手に残る傷跡は、僕たちが戦い抜き、愛を勝ち取った証。

 かつての僕は、才能ゆえにどこか孤独で、常に浮き上がっていた。

 けれど、亜耶の隣が、僕がずっと探し求めていた、「居場所」なのだ。



 あの狂気と執着に満ちた嵐のような日から、長い月日が流れました。

 現在の優流たちは、二人の子供に恵まれ、かつての喧騒が嘘のように賑やかで穏やかな日々を過ごしています。


 プロの料理人としての道は諦めましたが、家族の笑顔のためにフライパンを振るい、子供たちにオムライスをねだられる時間——それは、何物にも代えがたい優流の「居場所」となりました。


 先日の優流の誕生日、亜耶はこんなことを言い出しました。

「あのサングラスほしい! 優流の誕生日プレゼントにしてもいい?」

 結局、贈ったはずのサングラスを一度優流にかけさせたかと思うと、すぐに奪い取るようにして自分でかけ、「にへらーっ」と笑う亜耶。そんな彼女に今も振り回される毎日は、彼にとっての確かな幸せです。


 けれど……。

 あの時奪ってしまった由美の未来に対する「罪悪感」は、今も消えることなく、優流の胸の奥深くに澱のように残っています。


 数年前、たった一通だけ届いたメール。

 連絡先はすべて変えたつもりでした。しかし、一つだけ解約し忘れていたフリーのアドレス。教えた覚えのないその場所を、彼女は見つけ出したのでしょう。震災から数ヶ月が経った頃、ふと思い出してそのメールボックスを開いた優流は、言葉を失いました。


『あなたは無事ですか? もし、震災に巻き込まれているなら、教えてほしい。何があっても、助けるから』


 その一通きりの言葉に、涙が溢れました。


 由美は「狂気の女」などではなかった。彼女は今も変わらず優流を想い、約束通り関わらないように身を律しながら、それでも彼に万が一のことがあればと、祈るような心地でそのメールを送ったのです。


 僕の今の「幸せ」は、由美の「終わらない痛み」の上に成り立っている。

 彼女が痛みを抱えたまま立ち止まっているのに、自分だけが幸せを享受していていいのか。あの時の選択は、本当に正しかったのか——。


 二人の子供たちの寝顔を見るたび、優流は「守らなければならない」と自らを律します。しかし同時に、由美の痛みを思うと、自分だけが幸せでいることへの耐え難い罪悪感が、心臓を締め付けます。

 この葛藤は、生きている限り消えることはないでしょう。

 けれど、優流は歩みを止めることができない。

 目の前には、守るべき家族がいる。背負うべき責任がある。

 十字架を背負ったまま、それでも彼は、今日も笑顔で「いってきます」を繰り返すのです。


         ──完──

ご愛読ありがとうございました!

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