僕が料理人を辞めた理由――。貫通した右手と、愛する妻へついた「最後の嘘」。狂気の刃から彼女を守り抜いた、血塗られたドア一枚の攻防。
「優流……助けて……。あの人が、家の前にいるの……っ」
修行先の静寂を切り裂いたのは、最愛の妻からの悲鳴だった。
アクセルを全開にし、死に物狂いで駆けつけたマンションの廊下。
そこには、光を失った瞳で立ち尽くす由美の姿があった。
暴かれる嘘。響き渡る獣のような咆哮。
振り下ろされた刃から亜耶を守るため、僕は迷わず右手を差し出した。
手の甲から突き出した切っ先。どくどくと溢れ出す、料理人としての未来。
激痛に意識が遠のく中で、僕はドアの向こう側にいる妻へ、精一杯の「日常」を演じ続ける――。
板場に、女将さんの鋭く、そしてどこか狼狽した声が響き渡った。
「柳さん。柳?亜耶って子から電話よ。」
心臓が嫌な跳ね方をした。修行の身である僕の職場に、しかも店に直接電話をかけてくるなんて、平時であるはずがない。包丁を置き、濡れた手を拭う暇もなく受話器を受取った。
「……優流……助けて……。あの人が、家の前にいるの……っ」
受話器越しに聞こえる、震える悲鳴と嗚咽。僕は一瞬で総毛立った。あの「嘘のメール」が決壊したのだ。
「すぐに帰る! ……亜耶、絶対に外に出るなよ! 」
電話を切った僕に、女将さんが怪訝そうな、そして困惑した顔を向ける。
「すぐに帰るって、どういうこと? まだ仕事中なのよ」
「すいません……! 妻の命が、危ないかもしれないんです。帰らせてください!」
僕は深く、畳に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。なりふり構っていられなかった。すると、厨房の奥から、すべてを察したような会長の重みのある声が届いた。
「……話は聞こえてたわ。行ってやれ」
「ありがとうございます……!」
僕は割烹着の上からジャケットを乱暴に羽織り、ショルダーバッグを掴むと裏口へと走った。バイクに跨り、エンジンを悲鳴のように吹かせてアクセルを全開にする。一刻も早く、一秒でも早く。
脳裏には、部屋で震える亜耶の姿と、何をしでかすかわからない由美の狂気が交互に浮かび、焦燥感で頭が狂いそうだった。
マンションに到着し、一段飛ばしで階段を駆け上がる。
そこに、彼女はいた。由美が、まるでこの世の者ではない幽鬼のような、無機質な表情でドアの前に立ち尽くしていた。
「……ゆーくん」
僕の姿を認めると、由美は口元だけを歪めた、不気味な笑みを浮かべた。
「ねぇ、家の中に誰かいるよ? それに……ゆーくんが結婚してるって、役所の人が言ってた。どういうこと? 私たち、やり直すんじゃなかったの?」
逃げ道はない。僕は震える拳を握りしめ、由美の虚ろな目を真っ直ぐに見据えた。
「君はここを知っているから……君がここに来ないように、嘘をついていたんだ。僕の大事な妻に、危害を加えられるかもしれないと思ったから」
由美の瞳が、僅かに、けれど激しく揺れた。
「……嘘だよね? 」
「いいや、本当のことだ。僕は、彼女と結婚した」
僕は言い放つと同時に、ドアと由美の間に身体を割り込ませた。背中越しに、扉の向こうで息を殺し、震えている亜耶の確かな気配を感じる。
絶対に、この扉は開けてはいけない。
その瞬間、由美の顔から、わずかに残っていた人間らしい表情が完全に消えた。
「本当……? 本当に……あんな、あんな女を選んだの……?」
喉の奥から絞り出すような地を這う声が、次の瞬間、空気を切り裂く凄まじい絶叫へと変わった。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ーっ!!」
由美が、もはや言葉にならない獣のような咆哮を上げながら、僕の首に両手をかけた。
細い指が、狂気的な力で喉に食い込む。けれど、少し鍛えてきた僕の身体は、容易くその腕を振りほどくことができた。その時、背中にドン、という衝撃が走る。異変を察した亜耶が、中から助けようとドアを開けようとしたのだ。
「出てくるな!」
僕は思わず叫び、全体重をかけて背中でドアを押し戻した。今ここで彼女が出てくれば、事態はさらに最悪の結末を迎える。
「そんなに……そんなにその女が大事なの!?」
狂気に満ちた、血を吐くような由美の問いに、僕は迷わず、腹の底から声を絞り出した。
「ああ。僕の命より大事だ」
「なんで。なんで……酷いよ、ゆーくん……っ。私のこと、今まで散々利用してきたの!?」
「いいや。あの嘘のメールのやり取り以外は、全部本物だった。恩も、感謝も、全部」
僕は由美を真っ直ぐに見た。
「けれど、ごめん。僕はもう、君の手は取れない。ドアの後ろにいる彼女を、どんなことをしてでも守りたいんだ」
由美はその場に崩れ落ち、子供のように激しく泣きじゃくった。僕は立ったまま、その様子をただ見守っていた。これで、彼女が諦めて帰ってくれることを、心の底から願って。
しかし、突然由美の目の色が変わった。
床に落ちていた彼女のバッグを漁り、その手に握られたのは、鈍く、冷たく光る「包丁」だった。
彼女はそれを自分の細い首筋に突きつけ、狂ったように笑う。
「ゆーくんがいない人生なんて、生きてる意味がないの! ここで私が死ねば、私はずっとゆーくんの記憶の中に、残れるよね!」
振りかぶられる刃。彼女が本当に自分を刺そうとしたその瞬間、身体が勝手に動いた。
咄嗟に、自分の右手を、由美の首と刃の間に滑り込ませる。
――ズブッ。
生々しい、肉を裂く感触。
包丁が僕の手のひらに深く沈み込み、骨を掠め、貫通する鈍い衝撃が脳を揺らした。
次の瞬間、自分の手の甲から、包丁の切っ先が「突き出している」のが見えた。
由美が、自分でも何をしたかわからないといった様子で、絶叫を上げる。
彼女の力が抜けた瞬間、僕は貫通したままの右手を、彼女から引き剥がすように引き寄せた。
そのままドアに背を預けて座り込み、刺さった包丁がこれ以上動いて傷を広げないよう、右手を冷たいコンクリートの地面に、そっと横たえた。
「何があったの!? 優流、開けて!! お願い!!」
背中越しに、亜耶が半狂乱になってドアを叩く。
その瞬間、僕の脳内を支配したのは、激痛でも後悔でもなかった。
(……ダメだ。絶対に、悟らせちゃいけない)
いま、僕が悲鳴を上げれば、亜耶はパニックになり、ドアを開けて外に出てきてしまう。そうなれば、何をしでかすか分からない由美と鉢合わせることになる。それだけは、何があっても阻止しなければならない。
僕は、喉元までせり上がる激痛と吐き気を、鉄の意志で飲み込んだ。
そして、料亭でお客様に料理の説明をするように、あるいは亜耶とリビングで芋けんぴを突き合って笑い合っている時のように、努めて穏やかで、いつも通りのトーンを絞り出した。
「……だいじょうぶだよ。亜耶。なんでもないから、開けるな。……絶対に、開けるなよ」
震えそうになる声の端々を必死に整え、一文字ずつ丁寧に置いていく。
外の惨状を、僕の背中を真っ赤に染め上げているはずの血を、彼女に一滴も、一瞬も想像させないために。
この「嘘」は、僕がどんな犠牲を払ってでも亜耶を守り抜くという、揺るぎない僕の意志そのものだった。
足元のコンクリートが、僕の手首から流れる血で、刻一刻と赤く染まっていく。
視界が少しずつ白んでいく中で、僕は自分の右手をじっと見つめていた。
(……やっちゃったな。しばらく包丁は握れそうにないな)
この時、僕はまだ諦めていなかった。
これまで磨いてきた包丁の技術も、会長に叩き込まれた会席の腕も、この傷を乗り越えれば取り戻せると信じていた。
包丁を握れなくなる未来なんて、微塵も想像したくなかったのだ。
目の前で、ガタガタと震えながら呆然としている由美を視界の端に追いやりながら、僕は震える左手だけで携帯を操作した。
遠くで、街の静寂を切り裂くサイレンの音が聞こえ始める。
その音が近づくまで、僕はただ、愛する妻を背中で守りながら、感覚を失い冷たくなっていく右手を、まるでもう一人の自分をいたわるように、静かに見つめていた。
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