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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯 〜(由美視点)偽りの福音に狂わされた、ある女の断末魔〜「やり直せる」……けれど役所から届いたのは、彼が「他人の夫」になったという残酷な通告。裏切りの絶望は、一瞬でどす黒い殺意へと反転する。

「……ゆーくん、やり直してもいいって言ってくれたよ!」


届いたメールは、私にとって世界を塗り替える福音だった。

彼をあの「泥棒猫」から救い出すため、私は一気に勝負に出る。

手元にある婚姻届。これさえ出せば、彼は永遠に私のもの。


けれど、役所の窓口で告げられたのは、予想だにしない絶望の事実だった。

「——お相手の方は、現在、他の方と婚姻中です」


優しさがついた「嘘」が、私の血管を焼き切るような殺意へと変わる。

階段を駆け上がる足音は、復讐の太鼓。

ドアの向こうで震えている女を引きずり出し、私の場所を取り戻すために――。

 その瞬間、世界に色が戻った気がした。

 震える手の中で光る携帯の画面。そこに並んでいたのは、夢にまで見たゆーくんからの言葉だった。


『由美の気持ちはわかった。やり直してもいいと思っている』


 心臓がドクンと大きく跳ね上がり、視界が熱くなる。

「……やっぱり。やっぱりそうなんだ……っ!」

 あの日、私の家で「完済証明書」なんて冷たい紙切れを突きつけて、お母さんの前であんなに決死の表情で「もう会わない」なんて言ったのは、全部本心じゃなかったんだ。優しすぎるゆーくんが、自分を無理やり納得させるためについた、精一杯の「強がり」だったんだ。

 私は喜びに指先を震わせながら、すぐに居間にいるお母さんのもとへ駆け寄った。


「お母さん! ゆーくん、やり直してもいいって言ってくれたよ! ほら!」

 画面を突き出す私に、お母さんは喜びを共有するどころか、不快そうに眉をひそめて疑いの声を漏らした。

「……本当なの? あれだけきっぱり言っていたのに、彼がそんなにすぐ手のひらを返すなんて、おかしいわよ」

「お母さんは何もわかってない!」

 私は声を荒らげた。本当のゆーくんを知っているのは、私だけなの。彼は私がいなきゃダメな人なの。あの泥棒猫みたいな女に惑わされていただけで、心はいつも私の方を向いているはずなんだから。


 期待に胸を焦がしながら、私はすぐに返信を打った。

『じゃあ来週の水曜日、少しだけでも会えない? 』


 けれど、返ってきたのは心許ない拒絶だった。

『ごめん。来週は会長の外せないお客様がどうしても予約したいと言って、急遽営業することになったんだ。』

 以前にも、一度そんなことがあった。職人気質の会長に頼られれば、ゆーくんは断れない。

「そっかぁ……。お仕事なら、仕方ないよね」

 自分に言い聞かせた。けれど、その後も同じような「仕事」を理由にした言い訳が二度続く。

『声が聞きたいな。電話していい?』


『今から寝るところだから、ごめん』


 電話もしてくれない。


 胸の奥でどす黒い不安がヘドロのようにじわじわと広がり始めた。



(ゆーくん、本当は……まだあの女に捕まっているんじゃないの……?)

(私の知らないところで、あの女がゆーくんを縛り付けて、無理やりこのメールを打たせているのかも……)


 一度芽生えた疑念は、猛烈な勢いで私を蝕んでいった。ゆーくんを救い出さなきゃ。あの女の魔の手から、私の大切な人を奪い返さなきゃ。その不安を打ち消し、一気に勝負を決めるために、私は一つの「完璧な答え」に辿り着いた。


「……先に、婚姻届を出してしまおう」


 籍さえ入れてしまえば、ゆーくんはもう法的に私のもの。どこへも行けなくなる。私の「夫」にさえしてしまえば、あの泥棒猫だって手出しはできないはず。

「待ちきれなくて、勝手に出しちゃった。ごめんね?」

 そう言って、いつものように困ったように笑う彼に抱きつけば、すべては元通りになる。この胸のザワザワも消えて、幸せな日常が戻ってくるんだ。

 私は祈るような気持ちで、私が勝手に「預かっている」ことにした——署名済みの婚姻届を握りしめ、役所の窓口へ向かった。これで、すべてが救われるはずだった。


 なのに——。


 翌日、私の携帯に届いたコールは、幸せの鐘の音ではなく、地獄の底からの呼び声だった。


『——お相手の方の戸籍を確認したところ、現在、他の方と婚姻中であるため、この婚姻届を受理することはできません』


 その言葉を聞いた瞬間、心臓が冷たい氷を飲み込んだように凍りついた。

「……え?」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。婚姻中? 誰と?……決まってる。あの泥棒猫だ。


 嘘。嘘嘘嘘嘘。


「そんな……だって、ゆーくんは私とやり直すって……メールで……」

 やり直そうと言ったのは、全部嘘だったの? 私を安心させて、その隙に、あの女と……?


「……あの女……っ! 許さない、許さない許さない許さない!!」


 裏切られた絶望は、一瞬にして血管を焼き切るような殺意へと沸騰した。

 ゆーくんが自分の意思で結婚するはずがない。ゆーくんを脅して、無理やり役所へ連れて行ったに違いない!

 そうに決まってる。ゆーくんは、今もあの部屋で、助けを待っているんだ。


「ゆーくんを奪ったあの泥棒猫が……今、私の、私たちの場所に居座っている……っ!」


 私は震える手で携帯の画面を睨みつけた。

 今日は火曜日。ゆーくんはまだ料亭で仕事をしている時間だ。あの部屋には今、あの女が一人で、勝利を確信したような醜い顔で笑っているのかもしれない。


「……今から、行くね」


 私は狂ったように車を走らせ、見慣れたアパートへと向かった。階段を駆け上がる足音が、復讐の太鼓のように頭に響く。

 私の場所。私たちの思い出。そこを汚している不潔な女が、このドアの向こう側にいる。


 玄関の前に立つ。中から微かに、テレビの音か、あるいは動く気配がした。

 ……やっぱり、いる。


 私は迷わず、剥き出しの殺意を込めてインターホンのボタンを押し込んだ。


 ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!!


 一度や二度じゃない。指の関節が白くなり、痛みが走るほど、狂ったように連打し続けた。

 けれど、中からの応答はない。

「開けなさいよ……。そこにいるんでしょ!?」

 返事がないことが、かえって私の怒りを煽る。居留守を使っているのだ。私の居場所を奪った泥棒猫が、このドア一枚隔てた向こう側で、蜘蛛の子のように震えながら隠れている。


 私はドアノブを掴み、壊れんばかりにガチャガチャと激しく揺さぶった。

「 出てきなさいよ! 泥棒猫!!」


 私はドアノブを掴み、壊れんばかりにガチャガチャと激しく揺さぶった。

 鉄の擦れる音が、静かな廊下に響き渡る。

 私は確信していた。このドアをこじ開けた瞬間、私はようやく「私のもの」を取り戻せるのだと。

今回もご愛読ありがとうございました!

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