運命の悪戯 〜偽りの福音〜「やり直すつもりだ」。愛する人を守るため、僕はかつての恋人に致命的な「嘘」を吐いた。受理された婚姻届、師匠からの力強い言葉。執念の牙はより深く研ぎ澄まされていく。
役所からの電話は鳴らなかった。
形式上の「受領」が「受理」へと変わった火曜日、僕たちは法という名の強固な檻の中で、ようやく一息つく。
由美を繋ぎ止めるための偽りの愛の言葉。
慣れることのない嘘に魂を削られながら、僕は冷徹な機械となって時間を稼ぐ。
幸せを掴み取ったと信じて疑わなかった一ヶ月の猶予。
しかし、僕が良かれと思って放った「嘘の希望」が、最悪の結末を招く引き金になるとは、この時の僕はまだ知る由もなかった。
婚姻届を夜間窓口に預け、受領印をもらったとはいえ、心の底から安堵することはできなかった。
由美は僕の今の住まいを正確に把握している。もし彼女が婚姻届を偽造して提出し、それが「二重婚」として弾かれたと知れば、彼女がどんな凶行に及ぶか想像もつかない。
僕は隣で震える亜耶の肩を抱き寄せ、一刻も早くこの街を離れるべきだと提案した。
「引越しが終わるまでは、僕が由美のメールの相手をして時間を引き延ばすよ。逆上させないために、あえて『やり直すつもりがある』と嘘をつく」
亜耶はひどく不満そうな、そして縋るような複雑な表情を浮かべたが、僕の手を白くなるほど強く握りしめて頷いた。
「……わかった。その代わり、メールは全部私に見せて。それから、電話は絶対にしないでね」
不安を拭いきれない様子の彼女を安心させるため、僕は頷いた。
「わかった。約束する。苦しい思いをさせて、本当にごめん」
この状況で、僕が由美のもとへ戻るはずなんて万に一つもない。心の中でそう断言しながらも、僕は彼女の抱える底知れない不安を汲み取り、ただ謝ることしかできなかった。
それからは、なりふり構わぬ「嘘の福音」を綴る日々が始まった。
『由美の気持ちはわかった。やり直してもいいと思っている。婚姻届は、いつか二人で一緒に出しに行こう』
送信ボタンを押すたびに、自分の魂が削れていくような、耐え難い痛みに胸を焼く。僕はその嘘に慣れることなど到底できず、自分を必死に抑え込み、痛みをこらえながら冷徹な機械のように「時間」を稼ぎ続けた。
すべては、隣で見守る亜耶の身を守るためだ。この子の為なら僕は、何だってしてやる。そう強く誓ったんだ。
僕がメールを送れば、由美からはかつての返信を上回る執念で、歓喜の返信が返ってくる。その画面を亜耶に見せるたび、彼女の指先が微かに震える。僕はその震えを止めるように、彼女の手を握り直した。
そして、運命の火曜日が訪れた。
役所からの確認電話——書類の不備を告げる死刑宣告のようなコールは、ついに鳴らなかった。
夕方、僕は許可をもらい、着信がないことを何度も確認してから、亜耶のバイト先へダイヤルした。
「……電話、鳴らなかったよ。受理されたんだ」
『よかった……っ。……じゃあ、これで私たち、本当に、夫婦なの?』
受話器越しに伝わる、涙を含んだ亜耶の声。
「うん。これからも、よろしくね、奥さん」
『……っ。私こそ、よろしくお願いします。……じゃあ、お仕事頑張ってね。電話、ありがと。大好きだよ』
その日の晩、帰宅した亜耶は玄関でいつになく力強く、折れそうなほど抱きしめてくれた。
並んで座ったソファー。亜耶は僕の肩に頭を預け、部屋の蛍光灯を反射して白く光る左手の指輪を、愛おしそうに、あるいは執着するようにじっと見つめていた。
「ねぇ、優流。いろいろ落ち着いて、余裕ができたら……いつか、私たちの名前を刻んだ刻印付きのリング、買ってね」
「うん。亜耶のこと、何があってもこれからずっと、一生かけて守っていく。約束するよ」
潤んだ瞳で僕を見上げる彼女の唇を奪い、深く、熱いキスを交わした。
法的な絆という名の鎧を手に入れて、ようやく少しだけ表情を緩めた彼女。僕は思う。この子をいつも泣かせてばかりだ。せめてこれからは、この笑顔だけは死んでも守り抜こうと。
翌日の水曜日。僕たちは、電車で数時間離れた隣県まで足を伸ばし、新居を探した。由美の執念が、物理的に届かない場所。
職場には退職願を提出し、一ヶ月後の引越しを強行することに決めた。亜耶もバイト先へ辞める旨を伝えた。「本当によかったね」と店長から祝福されたと、彼女は久しぶりに少女のような笑顔で話してくれた。
そして僕は、オーナーである会長にすべてを打ち明けた。
女性関係の縺れでこの街にいるのは身の危険があること。これまで親同然に良くしてもらったのに、こんな勝手な理由で去る無礼を、畳に額を擦り付ける思いで詫びた。
思えば、調理師学校の体験学習で「お前は天性のものを持っている」と、まだ何者でもなかった僕を見出し、指名してくれたのが会長だった。一人で厨房を切り盛りしてきた凄腕の彼が、後継者としてマンツーマンで僕を仕込んでくれた恩は、海よりも深い。
会長は、僕の予想に反して、意外なほど力強く、そして温かい言葉をかけてくれた。
「向こうに着いたら連絡しろ。よさそうな店があれば儂が紹介してやる。儂がマンツーマンで仕込んだんじゃ。最近は儂がおらん日はお前一人で会席を回しとるじゃろ。同年代でお前を超える奴は、そうはおらんからな。自信を持て」
その言葉に、堪えていたものが溢れ、目頭が熱くなった。
あと一ヶ月。このまま「嘘」で時間を稼ぎ、この街を脱出すれば、すべてを捨てて新しい人生を始められる。そう信じていた。
けれど、僕のこの「紳士的」で「場当たり的」な行動——。
由美に淡い期待を持たせ、執着を無理やり繋ぎ止めてしまったこの「嘘」は、一ヶ月の猶予を稼ぐどころか、彼女の狂気に、逃げ場のないガソリンを注ぐ結果となってしまったのだ。
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