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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯 〜深夜の婚姻届け·【亜耶視点】「私と籍を入れて」。由美さんの狂気を利用した、完璧な支配のシナリオ。大学も未来も、彼を独占する快感に比べれば塵あくた。深夜の役所、勝利の鐘が鳴り響く。

「……謝らないで、優流。謝る必要なんて、どこにもないの」


彼が「未来を奪った」と絶望するその裏で、私は勝利の鼓動を感じていた。

大学の卒業証書も、親との縁も、彼を閉じ込める「檻」の代金だと思えば安すぎる。


由美さんからの宣戦布告。それは、私にとって彼を法的に縛り付けるための最高の招待状。

恐怖に震えるフリをしながら、私は彼の「責任感」という急所を貫いた。

「不受理申出」なんていらない。私が欲しいのは、あなたの一生。

深夜、誰もいない役所の窓口で、私は静かに、けれど深く、彼に牙を立てる――。

 重い扉が、ゆっくりと開く。

 帰ってきた優流の顔は、ひどく疲れ果て、それでいて憑き物が落ちたような、どこか奇妙な静けさを湛えていた。


「お待たせ、亜耶。……サイン、もらってきたよ」

「……けど、亜耶。君の未来を奪ってしまった。本当に、ごめん」


 沈痛な面持ちで深々と謝る彼を見て、私は胸の奥で小さく、けれど確かな勝利の鼓動を感じていた。

(謝らないで、優流。謝る必要なんて、どこにもないの)

 これで、あなたを縛っていたあの人の「恩義」という名の鎖は、私という「未来を捨てた女」への負債にすり替わっただけ。あなたは一生、私への罪悪感という鎖からは逃げられない。


 私は慈愛に満ちた聖女のような、この世で最も優しい微笑みを浮かべて、彼を包み込むように抱きしめた。


「ううん。これは、優流との未来のためだから。私は後悔なんてしてないよ」


 腰に回した腕に、ぎゅっと力を込める。

 嘘じゃない。私の人生なんて、彼がいなければ灰色の砂漠と同じ。彼を完全に手に入れられるなら、大学の卒業証書なんてただの紙切れにすぎない。親との縁? キャリア? そんなもの、優流を独占できる快感に比べれば、塵あくたのようなもの。


 けれど、私たちの「平穏」は、突然何度も鳴り出した着信音によって無残に、そして私にとってはこれ以上ないほど「都合よく」切り裂かれた。

 テーブルの上で、携帯が何度も、何度も、のたうち回るように震えている。


 画面に浮かぶのは、見たくもない「由美」の二文字。


 一度切っても、数秒後にはまた震え出す。その執拗な振動は、私たちの心臓を直接揺さぶるようだった。


 私は優流の腕を強く掴む。けれど、その振動が止まった直後、静寂を切り裂くようにメールが届く。


 震える優流の手。画面に映る、由美さんからの身勝手な言葉。

 後ろから覗き込んだその画面には、【ゆーくん、久しぶり。あのね、やっぱり私はゆーくんのこと諦められないよ。だから考え直してくれないかな?】という、反吐が出るほど厚顔無恥な文字が並んでいた。


「……なんで?」

 私の人生を差し出して、やっと終わらせたのに。なぜまだこの人は、私の獲物に手を出そうとするの?


 私は、そのどす黒い怒りの矛先を、優流へと向けてしまう。

「どうして……拒否してないの? 連絡、取れるようになってるの?」

 彼は「逆上した彼女がここへ来て、亜耶に危害を加えるのを防がなきゃ」と、必死に自分に言い聞かせているようだった。紳士を気取って窓口を残していた彼らしい、愚かで愛おしい「配慮」の結果。


 彼が「考え直すことはない」と返信した直後、決定的な爆弾が届く。


【じゃあ、勝手に婚姻届出しちゃうね?】


 目の前が真っ白になるほどの怒りが湧く。

 私が差し出した人生すらも、この女はなかったことにしようとしている。

「こんなのあんまりだよ。酷い。酷すぎるよ……っ!」

 私は、壊れそうなほど震える声で泣き叫び、彼の腕に縋り付いた。

「勝手に出されても、受理されないよね……? 偽造なんだから、ダメだよね……?」


 泣きながら、彼の顔を見る。彼は首を横に振った。

 パニックに陥り、打開策を必死に調べる優流。そして、彼が行き着いた答え。

「これを出せば、受理されなくなる。それから、すぐに引っ越そう」


 彼が絞り出したのは「不受理申出」という、あまりにも消極的な防衛策だった。

「……それって、どういうこと? 受理されないようにする手続き?」

「そう。とにかくこれさえしておけば、由美が勝手に出しても受理されない」


 私はそこで、一つの完璧なシナリオを書き上げた。

 恐怖に震えるフリをしながら、彼の「責任感」という名の急所に、最後の一押しをすることに決めた。


「……ねぇ、受理されないようにするなら。私と籍を入れていても……受理されないし、大丈夫なんじゃないかな?」


 心臓が跳ねる。彼が目を見開くのがわかった。

 今の由美さんの狂気は、最高の追い風。この混乱に乗じて、彼に「私を選ぶ以外の道」を物理的にも法律的にも塞いでしまえばいい。


「私、そっちのほうがいいな……。不受理申出をするより、私と籍を入れてくれるほうが、嬉しい。安心できる」


 精一杯、健気な、守ってあげたくなる女の声を出す。

 責任感の塊である優流の心に、真っ直ぐな火がついた。


「……亜耶。君がそう望んでくれるなら、僕もそうしたい。僕と、結婚してほしい。でも、付き合った期間も短いし、こんな形でいいの?」

 この期に及んでまだ、彼は倫理観などという寝ぼけたことを口にしていた。


「私は貴方と一生傍にいたい。だからいいよ」


 期間なんて関係ない。どんな形でも『いい』に決まってるじゃない。

 彼は私を抱きしめて、「ありがとう。何があっても、亜耶のこと離さないよ」と囁いた。


 その瞬間、頭の中で祝福の鐘が鳴り響く。

「嬉しい……っ!」

 流した涙は、本物だった。けれど、それは彼が思うような「安心」の涙ではない。

 やっと、やっと、法という名の最強の檻に、この人を閉じ込められることへの歓喜の涙だ。


 そこからは、まさに戦場だった。

 一分一秒でも早く、由美さんより先に「既定事実」を役所に叩きつけなければならない。

 夜の街を疾走するバイク。背中に密着して感じる彼の体温。

 この温もりも、この鼓動も、もうすぐ法的に私のものになる。


 夜間窓口での「証人」の問題も、私は楽しんでいた。

 下原さんに電話をする優流。私は谷口先輩に電話をかけた。

 先輩の驚く顔を想像して、内心でほくそ笑む。

(ねぇ、聞こえる? 今から私、この人と結婚するの。みんなに教えてあげて。優流は私のものだって)

 深夜にわざわざサインをもらいに回るドタバタ劇すら、私にとっては「所有権」を世間に知らしめるためのパレードのようだった。


 役所の夜間窓口。無機質な職員が、私たちの運命が書かれた紙を受け取る。

「……はい。それでは、一旦『受領』という形でお預かりします」


 不備がなければ、受理される。

 由美さんがいつ出すかはわからない。けれど、「出しちゃうよ」なんて予告を送るうちは、まだ出していないはず。私なら、出した後に「出しちゃった」と送るもの。


「……これで、大丈夫だよね?」

 私は、彼の腕にこれ以上ないほど強く縋り付いた。

「不備を告げる電話が鳴らないことを、祈るしかない」

 不安そうに窓の外を見つめる優流。


 「何があっても、必ず僕が守るから」


 優流の震える声が、耳元で響く。

 私は彼の胸に顔を埋め、いかにも怯えた小鳥のように身体を震わせた。


 でも、私の口元は、抑えきれない歓喜で吊り上がっていた。


 守る? 違うわ、優流。

 あなたは今、自ら私の用意した檻の中に入ってきたのよ。

 窓口に吸い込まれていったあの紙切れ一枚で、あなたはもう、私を置いてどこへも行けなくなる。

 私が大学を辞め、親に捨てられ、ボロボロになればなるほど、あなたは私を愛さなきゃいけない。


 ――だって、あなたは『誠実な紳士』なんだもの。


 月明かりに照らされた彼の横顔を見つめながら、私は心の中で、自分たちを閉じ込めた巨大な鉄柵の鍵を、そっと深く、心の奥底へ飲み込んだ


 由美さん、あなたのおかげで、私は今日、本物の「妻」になれた。

 あなたのその浅はかな「脅し」がなければ、こんなに早く彼を閉じ込めることはできなかった。


 ありがとう、由美さん。


 もう、彼は私のもの。


 一生、私の隣で、大切に「飼って」あげるから。

今回もご愛読ありがとうございました!

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