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深夜の婚姻届─僕が料理人を辞めた理由—守り抜いたはずの僕は実は略奪されていた  作者: 一斗


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運命の悪戯 〜深夜の婚姻届・【優流視点】「勝手に婚姻届出しちゃうね?」。由美の狂気が暴いた、僕の致命的な隙。深夜の街を駆ける二人と、足りない証人。受理までのタイムリミット、背負うべき一生の責任。

「……じゃあ、勝手に婚姻届出しちゃうね?」


終わったはずの過去から届いた、甘く、冷酷な処刑宣告。

偽造してでも僕を奪おうとする由美の執念に、平穏は音を立てて崩れ去った。


「私と籍を入れて。そのほうが、安心できる」

震える亜耶が提案したのは、不受理申出ではなく、共倒れすら辞さない「永遠の契約」だった。

深夜の市役所、足りない証人、親友への必死の電話。

一分一秒を争う狂気の中、僕たちは「夫婦」という名の最も重い壁を築き上げる――。

 それからの日々は、嵐の後の凪のように静かで、甘い時間が流れていた。亜耶との生活は、彼女が「未来(大学)」という身代金を支払って手に入れた、何物にも代えがたい「平穏」そのものだった。


 けれど、その静寂はあまりに唐突に、そして理不尽に破られた。


 亜耶と穏やかな夜を過ごしていた時のことだ。テーブルの上で、携帯が何度も、何度も、のたうち回るように震えている。

 画面に浮かぶのは、見たくもない「由美」の二文字。

 一度切っても、数秒後にはまた震え出す。その執拗な振動は、僕たちの心臓を直接揺さぶるようだった。

 亜耶が僕の腕を強く掴む。けれど、その振動が止まった直後、静寂を切り裂くようにメールが届く。

【ゆーくん、久しぶり。あのね、やっぱり私はゆーくんのこと諦められないよ。だから考え直してくれないかな?】

 心臓が嫌な跳ね方をした。

 あの日、由美の家で「完済証明書」という冷たい絶縁状を交わし、すべてを終わらせたはずだった。これ以上ないほど明確な拒絶を突きつけたはずだ。サインまでしたはずの彼女が、なぜ今さら、何事もなかったかのようにこんな「意味不明」な言葉を吐けるのか。


 僕が固まっていると、背後から亜耶が不思議そうに画面を覗き込んできた。

「……なんで?」

 絶句する亜耶。その瞳が、僕を詰問するように揺れる。

「どうして……拒否してないの? 連絡、取れるようになってるの?」


 僕は彼女への未練など微塵もないことを、必死に説明した。それは、恐怖ゆえの自衛だった。

 彼女は僕の家を知っている。いつこの扉を叩くかわからない。もし連絡を完全に遮断すれば、逆上した彼女が暴走し、亜耶を傷つけるかもしれない。それだけは何としても避けたかった。


 僕の「紳士」としての、あるいは「守護者」としての歪んだ配慮が、皮肉にも彼女との窓口を、致命的な「隙」として残してしまっていた。


 僕は努めて冷静に、けれど断固とした拒絶を打ち返した。

「考え直すことはない」

 しかし、返ってきた言葉は、僕の理解を遥かに超えた狂気を孕んでいた。


【じゃあ、勝手に婚姻届出しちゃうね?】

 指先から血の気が引いていくのがわかった。「出す」ではなく「出しちゃうね?」という、どこか甘えたような、それでいて逃げ場を完全に塞ぐ処刑宣告。


 婚姻届は、相手の署名を偽造してしまえば、役所は形式上の不備がない限り受理してしまう。今の理性を失った彼女ならやりかねない。いや、本気だ。


 その画面を目にした亜耶は「こんなのあんまりだよ。酷い。酷すぎるよ……っ!」と泣き叫び、僕の腕に縋り付いた。

「勝手に出されても、受理されないよね……? 偽造なんだから、ダメだよね……?」

 僕が静かに首を横に振ると、亜耶の顔からみるみる生気が失われていった。


 二人で積み上げてきた平穏が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。僕たちは今、真っ暗な奈落の底へと突き落とされたのだ。

「婚姻届を勝手に出す」という由美の宣告。

 パニックに飲み込まれそうになりながら、僕は必死に「婚姻届不受理申出」という言葉に辿り着いた。


「これだ……。これを出せば、本人以外が婚姻届を持ってきても受理されなくなる。それから、すぐにでもここを引っ越そう」

 僕が絞り出すように言うと、亜耶が不安げな瞳で聞き返してきた。

「……それって、どういうこと? 受理されないようにする手続き?」

「そう。本人確認ができない限り、役所が受け付けないようにするんだ。とにかくこれさえしておけば、由美が勝手に出しても受理されない」


 説明した僕に、亜耶は少しの間を置いて、震える声でこう言った。

「……ねぇ、受理されないようにするなら。私と籍を入れていても、他の人は受理されないし……大丈夫なんじゃないかな?」

 頭が真っ白になった。

「そりゃ、そうだけど……」

「私、そっちのほうがいいな……。不受理申出をするより、私と籍を入れてくれるほうが、嬉しい。安心できる」

 亜耶の言葉に、僕は自分の心に問いかけた。彼女の未来を奪った責任を一生取ると、あの日決めたはずだ。彼女が僕との未来を、こんな極限の状態でも望んでくれるなら、迷う理由なんてどこにもない。

「……亜耶。君がそう望んでくれるなら、僕もそうしたい。先に亜耶に言われちゃったけど……僕と結婚してほしい。でも、付き合った期間も短いし、こんな形でいいの?」

「私は貴方と一生傍にいたい。だからいいよ」

 一片の迷いもなく言い切る亜耶を、僕は力一杯抱きしめた。

「ありがとう。何があっても、亜耶のこと、離さないよ」

「嬉しい……っ!」


 亜耶は涙を流して喜んだけれど、すぐに表情を引き締めた。

「けど、早くしないと。あの人が先に役所に行っちゃうかもしれない……!」

 そうだ。由美がいつ「出しちゃう」のかは分からない。一分一秒を争うレースなのだ。

 もし僕たちが役所に着いたとき、すでに由美の名前で受理されていたら?

「勝手に出されていて、もう受理できません」と言われる恐怖。それを打ち消すには、今すぐ動くしかなかった。

「行こう、亜耶」

 僕たちは夜の静まり返った街へと飛び出した。

 役所へ向かう道中、僕は祈るような気持ちでハンドルを握っていた。

 しかし、夜間窓口に駆け込んだ僕たちは、そこで大きな壁にぶつかった。

 婚姻届には「成人二名の証人」が必要だったのだ。パニックでそこまで頭が回っていなかった。


「どうしよう、優流……」

 顔を見合わせる僕たち。こんな時間に突然「結婚するから証人になってくれ」と言って応じてくれる相手なんて——。

 僕は迷わず、親友の貴明に電話をかけた。亜耶には、僕のクラスメイトだった、亜耶のバイトの先輩でもある谷口彩乃に連絡を入れてもらった。

「……こんな時間に、本当にごめん! 助けてくれ!」

 事情を説明し、僕たちはその足で彼らの家へと向かった。

 夜の非常事態。なりふり構わず頭を下げて署名をもらう。僕たちの異常なまでの必死さが伝わったのか、貴明は事情を察してニヤニヤしながら、谷口さんは相手が僕なことに驚愕しながらも、力を貸してくれた。


 再び役所へ戻り、不備がないことを確認して書類を提出する。

「……はい。それでは、一旦『受領』という形でお預かりします」

 宿直の職員が、深夜の静寂の中で淡々と告げる。明後日は祝日の月曜日。審査が始まるのは、さらにその翌日の火曜日からだという。

「もし不備があれば、後日お電話します。なければ、このまま受理されますので」

 これで、きっと由美より早く提出できたはずだ。

 僕たちは法的に夫婦になれる。

 由美という脅威から、一番強固な、そして一番重い壁で守られたはずだった。


 深夜の役所の自動ドアが、背後で重々しく閉まった。


 外の空気は、肺が痛くなるほど冷え切っていた。

 僕は、提出したばかりの書類の控えを、まるで命綱のように握りしめていた。


「……これで、大丈夫だよね?」

 亜耶が、僕のコートの袖をぎゅっと掴んで見上げてくる。


 街灯の下で見る彼女の顔は、幽霊のように青白く、けれどその瞳だけは、勝利を確信したような異様な光を宿していた。


「不備を告げる電話が鳴らないことを、祈るしかない」


 愛を誓うための結婚ではない。

 過去を遮断し、狂気から逃げ延びるための、緊急避難としての入籍に申し訳なく思う。


僕たちの指に光るスワロフスキーの輪は、今、目に見えない巨大な鉄柵へと姿を変え、僕たちを世界から切り離した。


今回もご愛読ありがとうございました!

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