表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブエノスアイレスの下降線  作者: 柊蓮
第十一章
PR
76/77

ライ麦畑のその先で②

 意識を失ってから、どれだけ時間が経ったのか分からないが、朧気に意識が戻ってきた。


 さっきの足音の主はどうしただろうか、まだ近くにいるのだろうか。それを確認する気力も身体のコントロール権もない。けれど、まだこうして辛うじて意識があるということは、殺されてはいないということだ。


 聴こえてくるのは、広大なライ麦畑全体が微風によって揺らぎめく音と、不明確なリズムを刻む心臓の鼓動だけだ。うつ伏せの状態で感じるのは、そのくらいだ。


「おい、起きろよ」


 誰だ……? 誰の声だ? 自分の耳が耳鳴りに侵されているのと、風の音に声が紛れたのが相まって、言葉は聞き取れたがその声というのはぼんやりとしか聴こえない。


 俺はどうすることもしなかった。というかできなかった。ただ、血反吐を吐き出した地面に顔を擦りつけることしか。


「ほら、起きなきゃ本当に殺すぞ」


 俺は背中に感触を感じた。それは……銃口だった。


 このとき、意識を取り戻してから初めて、それまでそうすることのできなかった身体に力が入った。加速する心臓の鼓動、妙に気持ちの悪い焦燥感。俺は、こうするしかなかった。


 俺はその場に最後の気力を振り絞って立ち上がった。身体からバキバキッという聴こえちゃいけない音が聴こえたが、そんなことに構っている余裕はなかった。


 ――死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。


 俺は近くのあぜ道に出て、そのあぜ道を道なりに進んだ。速度としては牛歩の歩み、足音の主からすれば、こんな手負いの人間すぐに追いつくことができるだろう……。


 背後から、溜息が聴こえた。


 その溜息の意味など気にせず、俺はあぜ道を道なりに最大限の速度で進んだ。


 二、三回ほど急激なカーブを曲がると、あぜ道の先に広場のような場所が見えた。俺はそのままあぜ道を道なりに進んで、見えた広場のような場所の中心に存在する巨木に背をもたれかかって地面に座った。


 はぁ……はぁ……はぁ……。


 もう限界だ。こうして腰を降ろしてしまった以上、もう立ち上がるエネルギーなど今の俺にはない。視界が眩んできた。現実感がより一層薄れていくのが分かる。現実にヒビが入り、ノイズが走るのが分かる。視界は砂嵐を経て暗転しそうな勢いだ。もう……何もかもが限界だ。


 俺の通ってきたあぜ道から、ゆっくりとした足音が聴こえてきた。俺はその足音の主の一歩一歩の歩みに、死へのカウントダウンを感じた。一歩近づく度に、俺の残りの寿命は確実に減っていった。それに対して、まるで命を踏みにじられているような感覚になった。


 こんな手負いの人間の牛歩の歩みでもそう時間は掛からない短いあぜ道だ、足音の主はすぐに俺の目の前に現れた。疑いようがない、この男こそ、俺の背中に銃口を当てここまで俺を痛めつけた張本人だ。俺はノイズが走り霞ゆく視界の隙間から、足音の主の顔を見た。 

 

 足音の主は、ベラトリックスだった。


 まぁ、そうだろうな……。そこに、特段の驚きや喜びはない。


「俺を殺そうとしたくせに、自分が殺されそうになるとそうやって逃げるんだな」


 俺の真ん前まで接近したきたベラトリックスは、そう吐き捨ててきた。


 俺は明確に恐怖を感じた。死そのものが目の前にいるのだと感じた。ベラトリックスを目の前にしてどうしようもない虚脱感に襲われた俺は、失禁しそうになっていた。


「お前……ここがどこか分かるか?」


 俺は周囲を見渡した。あまり明瞭に見えるわけじゃない。それでも、ここはライ麦畑に囲まれた広場で、少し遠くの丘の上には大きな建物がひとつあって、だからここはただの農村にしか思えない。それ以外に分かることなどなくて、その質問に返す言葉などなくって、俺は虚ろに首を横に振った。


「ここはケージと呼ばれるパブのあるシュタイン・アンセント村、見ての通りただの農村だ。場所はイギリス。俺達が目を醒ましたアメリカとは全くの別世界だ」


 俺は何もかも飲み込めなかった。ただ、茫然とした感覚に襲われた。


「俺は嘘なんてついてない。……その表情を見る限り、何も憶えてないんだな? さっきので記憶飛んだのか。思ったよりも精神薄弱なんだな、お前」


 ここはイギリス……? 記憶が飛んだ……? その言葉の意味を理解することができなかった。まぁ、記憶が飛んだからここまでのことを何も憶えていないということなんだろうが。憶えているのは……列車内(アイリッシュ)から現実へ帰るために最後尾の眩い光りの中に入ったところまでだ。それ以降の記憶は一切ない。


 俺は声を奪われたかのように何も発することができなかった。ただ、口の中が乾いていく感覚と汗が額を流れる感覚だけがありありと感じられる。


「つまらん、お前の相手をするのは死ぬほどつまらねぇ。だから教えてやるよ。列車内(アイリッシュ)から出てきたお前は、俺が過去に燃やしたアイリック・カンザスエイト精神医療センターの新しい病棟のベッドの上で目を醒ました。そこで、列車内(アイリッシュ)の秘密というか真実について教えられた。そして、一足早く先にこの世界に戻った俺を追いかけて、お前は遠路はるばるこのイギリスの片田舎にやってきた」


「なんで……なんでそんな事を知ってるんだ……っ?」


 やっと声が出た。だが声はこんな状況であっても恥ずかしさを覚えるほど震えていた。


「今さっきお前の心の中を覗いたからな」


 列車内(アイリッシュ)の秘密とやらがなんなのか気になったが、今の俺は死にかけていて、それどころではなかった。


「……そして、俺にペンダントを返したものの、俺を殺す事に決めたお前は、俺の開心術に苦しみ、記憶も飛んでいる、と……。どうだ? 俺に教えてくれよ、死に際に追い込まれた人間の気持ちをよ」


 ペンダント……返せたのか……それはよかった、本当に良かった……。


 俺は、ベラトリックスのその言葉に何も返さなかった。


「おい……死に際の気持ちがどうかって訊いてんだろうが。答えろよ!」


「アズサのことしか考えてねぇよっ!」


 死にかけであろうと、俺の人生の中に振り返ったり述懐することがあるとすれば、それはアズサのこと以外にあろうはずがない。アズサという聖母の存在が、俺の人生そのものなんだ。


 ベラトリックスの顔に明確な怒りが見えた。瞬間的に沸点の越えた殺意に、俺は圧倒された。だが……ベラトリックスは何か具体的に俺に危害を加える気はなさそうにも何故か思えた。俺の記憶から飛んでいるだけで、俺のことはもう十分痛めつけただろうしな。あるとしたら、本当に最後殺されるだけだ。


「なんで……なんでお前なんかを……アズサは愛したんだろうな」


 初めて、ベラトリックスから殺意以外の感情的な仕草を感じ取れた。今にも、泣きそうな、壊れそうな、崩れそうな、そんな脆弱で弱々しい声。


「さぁ……なんでかな」


 俺は独り言のように小さく呟いた。


 ベラトリックスの舌打ちが辺り一帯に響き渡った。


 そんなに嫌悪しているなら、早く俺のこと殺せばいいのに。


「お前は……本当にアズサを愛していたとは思えないような所業をしたんだな……」


「俺の過去を見たのか? アンタのその開心術っていう能力で」


 ベラトリックスからの返答はなかった。


 ベラトリックスに言われることは心外も心外だが、アズサに対して、俺はとんでもなく酷いことをしてしまった。それは訂正しようもない事実だ。アズサに対する直接的な行為に関して言えば、俺はベラトリックスには勝てないかもしれない。いや、ベラトリックス以下だろう。


「俺もアズサを抱きたかったよ……お前みたいに乱暴にではなく、優しく包み込むように。俺だったら……絶対にアズサを傷つけることなんてしなかった!」


 どうしてお前はそんなに感情的になってるんだ? 


 どうして俺は…………こんなに冷静になれているんだ?


「抱けばよかっただろ、そんなに想っていたのなら」


 俺は何を言ってるんだろう。


「想っているからこそそんなことできねぇだろうが! お前、やっぱり頭可笑しいんじゃねぇのか? 何から何まで心外なんだよ! …………だから、お前みたいな奴に愛されちまったから……アズサは死んじまったんじゃねぇのかよ……」


 …………。


 ベラトリックスは今にも涙を溢しそうな表情と声を出していた。


 それに対して、俺はなんなんだろう。ベラトリックスが感情的になればなるほど、俺自身の感情はとても鎮静化していって気持ち悪いくらい冷静になっていた。もう何も失うものがないからか、それとも死ぬ覚悟が完全に決まったからか、それとも……アズサに対する罪悪感に壊れてしまったからか。ああ、俺の感情のメーターはもう壊れちまったのかもしれないな。


 それから、永遠に感じられるほどの時間、ベラトリックスは、俺のことを、アズサを殺した殺人犯であると、強烈に罵ってきた。


 俺は、どうも、思わなかった。そう言うお前も殺人犯であるということには変わらねぇだろ、と素直に思った。


 もう罵倒は飽き飽きだ。もう俺の傷をほじくるような真似はやめてくれ。

 もういいよ、そういうのは。


 俺はその場に立ち上がった。


 感情的になっているベラトリックスの目の前に立つということは怖いことだ。頭ではそれが分かっているのに、感情のメーターはやはり壊れているのか心では何も感じない。


 俺は、右手に握りしめていた拳銃でベラトリックスを撃った。


 残念ながら鉛玉はベラトリックスには当たらなかった。


 俺は、一発撃った途端に身体が急激により重く感じられ始めた。そして、目の前のベラトリックスの殺意に塗れた表情を見て確信した。――俺は本当に死ぬのだ、と。


 ベラトリックスは殺意と憎悪に塗れた鬼の形相をしながら俺の方へゆっくりと、まずは精神から殺そうとしているみたいにじんわりとした足取りで近づいてきた。


 もういいよ、早く殺してくれ。…………いや、やっぱり駄目だ、怖い。殺さないでくれっ! なんでこんなにも怖いのだろう。絶望が目の前に広がっていくのは、こんなにも辛いことなのか……。


 俺は掠れゆく意識の中、近づいてくるベラトリックスの足音を最後に本物に死ぬ覚悟を決めた。怖い怖い怖い、死ぬのも怖いし、生半可に生き残ってしまうのも怖いっ。俺はもう、どう転んでも駄目だ……。ベラトリックスが拳銃を俺に向けているのが視界の端っこで分かる。もう、何も直視できない。直視できる現実など、俺にはない。俺が存在してもいい現実など、どこにもないっ。


 銃口の冷ややかな目つきは、心を空虚にさせた。生命力がどんどん枯渇していっているのが分かる。この世界からサヨウナラしそうになっているのが、分かる。


「怖い……怖い……怖い……殺さないでください」


「最後の最後まで追い込まれた時に出てくる言葉が命乞いかよ、ダセェよ人間としても、男としても、自分の人生の主人公としても」


 俺は目を瞑った。やけに静寂な世界で、一番うるさい心臓の鼓動が今、無音になろうとしていた。


 今までの人生を振り返れば、いつもそこにあるのはアズサの記憶だけだ。ちゃんと、悲しみの湖畔で祈ったから大丈夫、ちゃんとアズサの元へ行けるはず。陽光に照らされたあの瞬間、全てが赦されて俺は天国への扉を開いたんだ。サヨウナラ、腐っていて救いようのない狂った世界。サヨウナラ、キビト。


「……あぁいいよ、殺さないでやる」


 …………。

 ……………………。

 …………………………………………え?


「正直、俺にとって不愉快な事実であることには変わらないが、お前は曲がりなりにもアズサが愛した男。アズサにとっては、お前が本命なんだろ? だったら、俺はお前を殺せない。……お前がTwilight in the Roomに出入りしていたことを、俺はさっきの開心術のときに初めて知った。まぁそのせいでお前の記憶は飛んじまったみたいだが。だから分かるはずだ、俺は昔、アズサを人体実験の候補から逃がした。……俺はただ、その労力を無駄にしたくないだけだ」


 ベラトリックスは全てを諦めたような表情をしていた。いや、全ての重荷を下ろした故の表情かもしれない。ベラトリックスは煙草をおもむろに取り出して、それを吸うことを始めた。


「ありが、とう……」


「いやまだお前は許されてねぇし解放されてねぇよ。お前を殺さないでやるにはひとつ条件がある。もちろん、お前に拒否権なんざないがな」


「あの時と、同じじゃないか……」


「あぁそうだ。でも、あの時と現在で大分状況が違う。今の俺なら確実に、気持ちひとつでお前を殺せる」


 生きている心地なんてとうの昔に失っている。今の俺が本当に生きていると言えるのかどうかすら曖昧だ。それでも、思った。心の中にじんわりと浮かび上がってきた輪郭、だがそれは確かな本心として、心の中にある。


 ――生きたい……とにかく生きたいっ!


 ベラトリックスの言う通り、今の俺に拒否権なんざなかった。だからもう答えは決まっていた。


「……ずっと前から気になっていたんだが……なんでアンタは、あの時、俺を列車内(アイリッシュ)から出ようと誘ったんだ?」


ベラトリックスは煙草の甘い匂いを醸しながら、多少の思案の後、答えてくれた。


「特異性を持っている人間は貴重だ。だから仲間にしておきたかった。それと、お前の特異性を使えば、手っ取り早く列車内(アイリッシュ)から出られると思ったからだ。まぁ、実際にはそんなことなかったが」


 ――そうか、そうだったんだ……。


「……で、条件ってなんだ?」


ベラトリックスは木にもたれかかっている俺の目線にまで腰を下ろしてきて、視線を合わせて言ってきた。


「俺と一緒に世界を壊して回ろう。ずっとずっと、気が済むまで。どうせ、お前もこの世界に戻ってきてやりたいことも生きる意味みたいなものも無いだろ。アズサも誰かさんのせいで死んじまったし。だから、似た者同士一緒に生きねぇか?」


 ふざけてる、と思った。俺なんかより、人を平気で殺すようなお前の方がやっぱり可笑しいだろ。


「俺も可笑しい、お前も可笑しい、世界も可笑しい、登場人物全員狂ってる、それでいいじゃねぇか」


 ベラトリックスはまるで俺の心の中を盗み見たかのような事を言ってきた。


「で、どうすんだ? 本当に。今すぐお前のこと殺しちゃってもいいのか? 嫌だよなぁ? 普通なら」


 もう、覚悟を決めるしかなかった。生きる事にも、覚悟は必要なんだ。


「あぁ……着いて行ってやるよ……壊して回ろうじゃねぇか、世界を!」


 俺はこのとき、初めてベラトリックスの自然な笑みを見た。


 それにしても、俺の身体は満身創痍だった。身体の至る所傷だらけで、骨も数十本折れていても全く可笑しくない。血も吐きすぎたからか意識も朦朧としている。


「ほら早く行くぞ」


 木にもたれかかって立ち上がれずにいた俺を見かねてか、ベラトリックスは手を伸ばしてきた。


 俺はその手を受け取って、身体からとんでもないようなバキボキ音を鳴らしながらその場に立ち上がった。


「さぁ行こう、相棒――」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ