ライ麦畑のその先で
「どうした? もうダウンか?」
突然、声が聞こえてきた。
どこから聞こえてくるんだ? というか、今の俺はどこで何をやっているんだ?
何も見えない。何も聴こえない。何も、肉体的に感じない。まるで魂だけが身体から抜け出して浮遊しているみたいだ。意識も混濁していて、ハッキリしていない。唯一分かる事とすれば、今の俺は明らかにヤバい状況に追い込まれているということだけだ。それだけは分かる。
まるで意識だけが、肉体を離れて漂っているような感覚に、俺はもしかしたら自分が死んでいるのではないかと思った。これが、死か――一瞬、本気でそう思った。
だがしばらくすると、何も見えず何も聴こえず何も肉体的に感じなかった俺の五感が、多少、微弱ではあるが戻ってきた。――ああよかった、死んではいないらしい。
ぼんやりと、耳鳴りを伴って視界が戻った。耳鳴りは感じるものの、それ以外に聴こえるものなどなにもない。視界は、世界が歪んで見えた。いや本当に歪んだ世界に来てしまったのかもしれない。……あぁ、世界が歪んで見えるのは俺が地面に倒れ込んでいるからか……。
取り戻した視界に、歪みというフィルターを通して見えたのは、どこか……どこか現実感の感じられない農村のような景色。俺はその、麦……? ライ麦らしきものの畑のド真ん中で倒れているようだった。どこか見た映画のパロディみたいな世界だ……。
さっきの言葉を最後に、なにひとつ物音など聴こえない。ただ、耳鳴りだけが鼓膜に張り付いている。
何故こんなところに俺はいるんだ? そんな疑問を抱いたが、そんな間に回復した聴力が捉えた物音に俺の意識は向いた。少しづつだが聴こえ始めた物音は、人間の足音のようなものだった。マズい、と俺は素直に思った。こんな状態で人間に出くわしたら、相手次第では命が危ない……!
足音はどんどん倒れ込んでいる俺の方へ近づいてくる。
次の瞬間には、嗅覚も戻った。そうすると、急に地面が臭く感じられた。作物の匂いと……恐らく、俺自身が吐き出した血反吐の匂いが辺り一帯に充満しているんだ。この匂いと身体の重さじゃ大量に吐いたっぽいな。身体は少し重いどころじゃない。全く動かす事が出来ないでいた。
それでも、足音は耳鳴りを伴っている自分の耳でも鮮明に聴こえるほど、近づいてきている。俺は本能的にそれから逃げようとした。逃げなきゃいけない気がした。何も憶えていないのに、ここに辿り着くまでに何があったのかも分からないのに、その足音の主と俺は命のやり取りでもしているみたいに、内心焦っていた。
近づいてくる足音から逃げる為に、俺は身体のコントロールを取り戻そうとしたが、どこにどう力を入れようとも身体はピクリとも動かなかった。俺の身体は俺が思っている以上に傷ついているのか、俺が身体に対して感じる事が出来たのは、進行形で生命力の流出が続いている鉛のように重い肉の塊だけだった。もうこれを、身体と呼ぶのは難しい。
そして、足音がすぐ側まで到達した。俺は、本能的に目を瞑った。死んでいるフリをした。
足音がすぐ側で完全に止まり目を瞑っている今、そよ風に揺れるライ麦の香りと、吐き出した血反吐の生臭い匂いと、微風の中に感じる微かな死の匂いだけが俺の僅かな五感を刺激している。まだ五感が冴えてこないのは、それほど強い衝撃を受けたからか、それとも死にかけで本当に死に向かっているからなのか――いや、どっちも同じことか。
ここに辿り着くまでの記憶もない。ここがどこだかも分からない。疑問は沢山あるがそれを解決する手立てがない。そんなことよりも今の俺は死にそうだ。もう……いっそ君が殺してくれないかな……。すぐ側で止まった足音の主に俺は内心語りかけた。
ふと、俺は気がついた。自分が、右手で何か物を握っていることに気がついた。
それは、拳銃だった。引き金に指を掛けたまま、俺は意識を失ったのか……。
俺はそれに気がつくと――多分もう反抗は充分していて、その結果がこうなんだろうと思い、諦めに似た感情に囚われた。
そうして、俺は意識を失った。
…………。
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