背後の憂いを完全に切って②
廊下に出てもその惨状というのは変わらなかった。
どこを見渡しても一面、普段の列車内の面影などどこにもない瓦礫の山ばかりで、雨が降ったあとなのか湿っぽい夜の鼓動がやけに心臓に突き刺さる。
俺はふと思った。どこもこんな様子だろうか、BARはどうなっているのだろうと。ノイジーは、まだ生きているのだろうか、と。
廊下に出て左手側は瓦礫で立ち塞がれていた為、俺は右手側の食堂車の方へ行くことにした。食堂車の扉に近づいた段階で、なにか物音が扉の奥から聞こえてきた。更に扉へ近づくと、それは激しく鋭い言葉の応酬であり、誰かが誰かと言い争っているようだった。
その言葉の応酬の苛烈さと、真っ暗闇でちゃんと意識して保っていないと今にも可笑しくなってしまいそうな心情の状況も相まって、俺は食堂車に入ることを躊躇った。だから、扉に背中を合わせ、扉越しに様子を窺うことにした。
言葉の応酬はより激しさを増し、どうかここに俺がいることがバレませんようにと思いながら、言い争いに耳を傾けた。ここまで大声で怒鳴り合っていると、扉越しでも内容がちゃんと聞こえた。
「まさかお前が本当にここに戻ってくるとはな……罪に罪を重ねるのは辛かろう。早く楽になりなさい、ベラトリックス。私を殺しても何も変わりやしないさ」
「誰だって自分の命は惜しいはずだが……まだそんな口答えするのか。BARのマスターをすることしか能が無いのにもかかわらず、相変わらず無駄なことばかり言いやがる。あとどれだけ痛めつければいいんだろうな」
ベラトリックスとノイジーが喋っているのか……っ! 二人は恐らく俺には気づいてない。できる事なら、今はベラトリックスの相手をしたくない。今の俺には、ベラトリックスに対抗しうる手段がない。
淡々と、事務的に話すベラトリックスに対して、ノイジーの口調はどこか覚悟が決まったのか、これまでの積年の恨みを晴らすかのようなベラトリックスを煽るようなそんな口調に聞こえた。
「そうやってまた私を脅すのか。この列車内で暮らしていた頃もそうやって常日頃私を脅していたな。今となっては、その頃がとても懐かしいよ……。君みたいなクソガキに脅されるのは反吐が出るね」
「殺されてぇのか?」
「そうそう、そういう言葉も昔からだ。だから忠告しておくよ、君みたいな人間は必ず早世すると、ね。あまり良い死に方はできないんじゃないかな。……なぁ、いつまでこんなことを続けるつもりなんだ? ここは私達のような特異性を持った人間の為の世界なんだぞ? 特異性を持たない人間は皆モブ、魂などないNPCに過ぎない。魂があり自由意志のある我々のための世界を、我々が壊したり混乱をもたらしたりしてどうする。じきにこの世界も終わる。恐らく、キビトの影響だろう。あの者の力は凄い。憎悪と殺意に塗れている君なんかよりも明確に意志がある」
そのときだった。
「ぐわっ――」
ノイジーの悶え苦しむ声が聞こえてきた。
聞いているこっちまで息が苦しくなるような悶え声に俺は頭を抱えた。
どうしよう、どうしよう……。そんな言葉が頭を駆け回ったが、今の俺にはベラトリックスに対抗しうる手段などなにもなかった。だから……どうすることもできなかった。扉一枚挟んだ向こう側で、今まさに人が死のうとしているのだ。
俺は、俺の無力さに喘いだ。無力な自分が、嫌になった。
無力で何もできない、人ひとり救えない俺は、ベラトリックスと比べて明確な弱者だ。こんなんで……俺は……ベラトリックスにペンダントを返せるのだろうか? 返せたとしても、すぐに殺されるのがオチだ。でも、アズサとの約束……絶対に守らなきゃ。たとえそれで、自分が死ぬことになろうとも。
ノイジーの悶え苦しむ声に、俺は耳鳴りを感じはじめ、呼吸が苦しくなりはじめた。
「はぁ…………」
ベラトリックスの深い溜息が聞こえた。
深く深く闇深い、暗い人間の重い溜息。
「さて、戻るとするか。……どうせ追いかけてくるだろう、せっかく俺から逃げられたのにもかかわらず。それほどまでに、今もアズサのことを想っているということか……。馬鹿だね、本当に」
ベラトリックスが向こう側の扉を開け、隣りの車両に移動する気配を感じ取ってから、少しだけ時間が経ったあと、食堂車から生命反応がひとつとして消え失せたのが分かった。
………………。
俺は、扉の向こう側で人間が一人死んだことに、絶望的な無力感を感じた。
俺は無力だ、俺は無力だ。…………でも、その己の無力さを覆すためにも、ひとつの形として、俺はベラトリックスを殺さないといけない。ベラトリックスだけは、絶対に殺さなくちゃならないんだ。
俺はしばらくしてから扉を開けた。扉を開けた先にあるのはいつもの食堂車ではなくて、列車事故の影響かそれともベラトリックスが起こしたことなのかまでは分からないが、外壁が剥がれ天井も崩れ落ちた廃墟のような食堂車の姿がそこにあった。
そして、夜月の明かりに照らされている、血反吐を周りに吐き散らして床に倒れ込んでいるノイジーの姿が、そこにあった。
俺はそのノイジーの死体を見たとき、頭が一瞬クラッとした。ああ、やっぱり死んでいる……。
俺の頭にはどこか、少しでもノイジーが生きているのではないかという考えが浮かんだが、でもそれはどうやらただの願望だったようで、ノイジーは扉越しに聞いていた物音の通りに、死んでいた。殺されていた、ベラトリックスの手によって。
それはなんとも陰惨で、ただただ現実だった。
俺は身体から力が抜けていくのを体感しながら、ノイジーの死体に近づいた。屈んで、その姿をより大きく見た。
別に、俺は特別ノイジーに好意のようなものを感じているわけではないけれど、それでも顔見知りであり喋ったこともある人間が、こうやって死んでしまうのはどこか胸に空虚感を感じる。悲しいという感情は、人間を一時的にでも脆くさせるけれど、それを弱さと呼ばれてもいいし感情的と言われてもいいが、その弱さを抱くことができるだけ俺はベラトリックスよりも人間だ。真人間でなくても、俺は人間だ。
ノイジーへ冥福の祈りを捧げた後、俺は静かに食堂車から奥の車両へと移動した。
もしかしたら、ベラトリックスがまだ近くの車両にいるのではないかと思ったが、人間の生命力のようなものは全く感じられず、もはやここは死後の世界なのかもしれない。列車事故の影響で歪んでいる隣りの車両に移るのは少し手間取ったが、俺はゆっくりと、だが確実に、この世界からの脱出口を探して行った。
ベラトリックスはもう、この列車内から抜け出しただろうか。いや、抜け出しただろうな。
人間の生命力は誰一つとして感じられないし、ベラトリックスほどの強い生命力と殺意や憎悪の持った人間の感情は、もうこの列車内には存在しない。正真正銘、生きている人間は俺だけだ。食堂車を出た後は、通りづらい道はあったものの、瓦礫などで塞がれている道などはなかった。俺は気がついたときには、列車の最後尾にまで辿り着いていた。
ここに辿り着くまでに色々なものを俺は見た。
列車から漏れ出しているであろう油の匂いを鼻腔に感じながら、様々な人間の死体を見た。全く話したことはないものの、こんだけ閉鎖的な空間での生活だから、殆どの人間が顔見知りだ。顔見知りの人間が死ぬのは、俺の胸をキュッと締め付けた。
最後尾の、恐らく車掌室だろう場所まで俺は辿り着いたが、車掌室だろう場所を目の前にして俺は目を疑った。車掌室だろうその場所は、眩い光りに包み込まれていたからだ。現実離れしたその眩い光りは、俺にひとつの直感を与えた。
――ここに入れば、現世へ帰れる。
俺はこれまで辿ってきた道筋を振り返った。そして正面に視線を戻した。
いざこうしてみると怖いものだな。だけどもう、振り返ったりはしない。振り返ってもそこにあるのはもう戻れない安寧の記憶と、一度くらいは顔を見たことがある顔見知りの死体だけだ。
俺は思った――何はともあれ、これで現世へ帰れる、と。
そして同時にこうも思った――こんな痛い思いをしてまで、現状の平穏を手放してまで帰らなきゃいけない世界なのだろうか? と。
それに見合うだけの、世界なのだろうか……。
でも、そんなこと言ってられなかった。俺にはアズサと交わした、ベラトリックスにペンダントを返すという約束がある。ベラトリックスはもう現世へ帰っただろう。なら、迷う余地はない。
俺は決心した。
目の前の眩い光りの中に足を踏み入れた。
眩い光りに包まれると、俺は人生で二度と感じることのないだろう身に余る多幸感を感じた。ただの快楽のそれとは違う、もっと根源的で本質的な多幸感を。まさか死んでいっているんじゃないだろうなと思ったが、そんな心配を自覚したときにはもう意識はほぼ無くなっていた。
ありがとう皆、ありがとう胡乃葉、ノイジー、アミリー。ありがとう列車内。
元からそうだったように、背後の憂いを完全に切って、俺の意識は気持ち良く死んでいくかのように列車内から消え失せた。




