背後の憂いを完全に切って
俺は、突然の衝撃と物音によって目を醒ました。
何もかもが明らかに違う異様な雰囲気を感じ取って、すぐさまベッドに起き上がった。もうこの列車内での生活も相当なものだ、だから今、自分自身と列車内が置かれている状況というのをハッキリと把握できた。
列車は確実に、止まっていた。
ただ異変はそれだけではない。今さっきの凄まじい衝撃によってか、部屋の灯りは全て消え失せ、荷物が部屋中に散乱していた。
人間の生活の匂いとその密度が濃い列車内において、普段からよく感じられる埃っぽさというのも、今の列車内は普段と比べて異様なほど感じられた。この荷物の散乱具合、凄まじいほどの異音と衝撃、列車は確実に、脱線している。
こんな部屋の状況になっては、どれが胡乃葉の私物でどれが自分の私物か一切検討がつかない。部屋だけじゃなく廊下も、そしてその他の場所も灯りが消えてしまっているだろう中で、散乱した物や荷物の隙間から微かに見える外の状況は、ただ真っ暗だった。
何もかもが最悪な状況の中、俺は胡乃葉を探した。
多分部屋にいるはずだ、多分下敷きになっているはずだ。埃と私物、そして上から落ちてきた天板と瓦礫を、俺はかき分けながら、何故こんな事が起こったのだろうと考えた。思考は俺が思うよりも遙かに空回って、そして骨組みが歪んだ二段ベッドの下敷きになっている胡乃葉を見つけたところで完全に停止した。
胡乃葉を押し潰している骨組みの歪んだ二段ベッドをどけるのに、俺は手こずった。なんせ俺も、目醒めたときには怪我をしていた。肩がピキピキと鳴るし、ヒビが入っているのか手に力が全然入らない。だが、こんなにも重い二段ベッドの下敷きになっている胡乃葉の生存率が、時間の経過とともに落ちていくのが肌感覚としてありありわかり、俺はなんとしてでも胡乃葉をいち早く助けたかった。
頭がズキズキと痛み割れるような極度の興奮が俺を襲った。
――こんなにも二段ベットの骨組みって歪むんだな……。確かに列車の事故は場合によっては強い衝撃を生むが、こんなにも物が散らかり身動きも取れなくなるような衝撃って……これは絶対にただの列車事故じゃない……っ!
歪んだ二段ベットをドアとは反対側の窓側に押しのけた。もうこのときになると、俺は手に力が入らなくなっていた。寒さでかじかんだり麻酔で感覚が無くなったりするのとは明らかに違う、手だけではなく全身が、まるで自分が自分じゃないみたいな感覚に侵されていた。
俺はそうしてやっと、胡乃葉を瓦礫の下から助け出した。
目を瞑りピクリとも動かない胡乃葉を、俺はゆっくりと壊れぬように、じんわりと体温で温めるように抱きしめた。
胡乃葉の身体は驚くことに見える範囲には一切アザや傷らしきものが見受けられず、パッと一目見ただけでは歪んだ二段ベッドの下敷きになっていたとは思えないほど綺麗な状態だった。この感じだったら、恐らくどこも傷ついてはいないだろう。不思議なくらい、どこも傷ついてはいない……。
だが……。
……俺は、胡乃葉を抱きしめてすぐにはそれに気がつかなかった。けれど、胡乃葉を抱きしめて体温で胡乃葉を護るような感触を味わえば味わうほど、感じはじめた。……目の前の胡乃葉に、生きている人間を相手にしている生の感覚が喪失していくのを、俺は感じ始めたのだ。
そんなはずはない。そんなことあり得ない。……言葉が何回も心の中で繰り返される。だけどそういう言葉の反芻が起これば起こるほどに、その言葉達はチープさを増していった。
妄想や願望や言葉が、現実の前では無力であるように、俺の願いや祈りや逃避の感情も、現実の前では何もかも無意味だと切り捨てられた。
無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ、無意味だ――お前の願いや祈りや逃避の感情は、全くもって現実の前では無意味だ。
………………俺は、現実を受け止めた。
頑張って体温で温めているのに、胡乃葉の身体が冷たくなっていくのが分かる。凍てつくような冷たさに近づけば近づくほど俺はより自分の体温で胡乃葉を温めようと、護ろうと試みる。それでも、胡乃葉の身体がもはや人間のものじゃないと感じられるほどに冷たさを帯びるようになると、俺は完全に現実を受け入れた。
……胡乃葉はもう……死んでいるっ……………………。
俺は胡乃葉を床にそっと置いた。
人が死ぬのって、こんなにも辛いことだっけ…………。
心が成長することは、よいことだと思う。心だけでなく成長そのものを遂げていかなければ、人間はただ堕ちていくのみの生を歩むことになる。そこには何の意味も無い。だから人間は成長し続けていく必要がある。だけど…………こんなにも人の死を辛いものだと感じられるくらいだったら……もう、いっそ何も感じられない方がいいっ……!
…………………………。
意識が一回落ちた。そして、なんとか意識を取り戻した俺は、大粒の涙を溢すまいと服の袖で拭っていると、ふと、床に置いた胡乃葉の身体の近くに何か見慣れないものが落ちている事に気がついた。
それを拾い上げ、茫然とした頭で見ていると、それが一枚の封筒であることが分かった。俺はそれを開けてみることにした。震える手をなんとか制御しながら開けると、中には一枚の便箋が入っており、俺は一度それに躊躇いを覚えたけど、荒みかけている気持ちを落ち着かせる為と理由を付けて、その便箋を読んでみることにした。
『私の人生は間違いばかりだった。
何が正しいのかも分からず虚無を抱き続け、辿り着いたのは快楽だった。
それでも虚無は消えなくて、痛くて痛くて痛い心の叫びまで感じることができなくなった。
寒い寒い寒い、震えるような峠を越えると、そこにあったのは安堵だった。
胡乃葉、傷つけてごめんなさい。――私より』
………………。
俺は一瞬、これが遺書なのではないかと思ったが、胡乃葉は別に、自殺をしたわけじゃない、列車事故の衝撃によって歪んだ二段ベッドの下敷きになったせいで死んだのだ。だからこそ……この便箋の言葉の全てが信じられなくて仕方ない気持ちでいっぱいになった。
それでも俺は前に進まなくちゃならないと、ある種冷酷に思えてしまうほど冷静な感情を抱いていた。俺は改めて胡乃葉を抱き寄せて、抱きしめて、額にキスをした。
そして俺は胡乃葉をそっと床に眠らせてから、その場に立ち上がった。そして、短くない時間を共にした空間と人間に、別れを告げた。
――さぁ、行こう。




