陽光⑦
今まで感じた事がないような身体が発火するような痛みが全身を走った。
心が一度分解され、そして再構築される奇妙で絶妙な感覚を覚えた。眩い光りに包まれながら水鉢の中の世界に取り込まれた。ふわふわとした怖いくらいの虚脱感を眩い光りの中で感じながら、じきに現実に足が着き身体性を得るようになると、虚脱感から解放されて俺は水鉢の中の世界へ完全に没入ができたようだった。
まず思ったことがひとつある。それは、ここが全く見当もつかない全く新しい場所だということだった。
まず俺の目に飛び込んできたのは、俺を取り囲むように存在している真っ白い空間のことだった。まるで手術室のような趣のある真っ白い空間を俺は見渡すと、部屋は長方形の形をしていて、窓一つない閉鎖空間なのにもかかわず、壁の白さによってか全く閉塞感を感じない。
実際の部屋の大きさ以上に、どこを見渡してもどこまでも続いていそうな感覚を覚え、白そのものが発光しているような、むしろ白すぎて透明にも見えてしまうような床や天井や壁面は、平衡感覚と距離感を著しく喪失させた。それでも吐き気や気分の悪さを感じないことが、逆に気持ち悪く感じられた。
こんな特殊な部屋だから、白色以外の物質はよく映える。俺の目の前には大きく重厚なデスクが存在していた。そして二十メートルほど背後には、この部屋と外界とを繋ぐ扉が存在していた。俺の目の前の大きく重厚なデスクには、一人の壮年の女性が座っていた。距離にして三メートルほど、どうやらこちらには気がついていないようだった。
どうやら、ここは映像の中の世界ではなく、俺は世界そのものに没入をしているようだった。
俺がよく、基本的にノートパソコンを用いて入る映像の中の世界。だがその世界には二つの異なる性質が存在する。一つは、アズサとの記憶や現世にいた頃の記憶を取り戻した時に何度も入り込んだ世界の性質である〝映像型〟の世界。そして二つ目は、エリナー・ヴァンテージの取調室での取り調べや、ケージでの事件を見た時のような〝世界そのもの〟に没入をするという形――
何が違うのかというと、前者はまるで走馬灯のような映像を追体験するという形で、自分自身がその映像そのものに何かしら関与することができない。そして後者は、世界そのものに没入をする為、自分自身が好きなようにその世界の空間を動けたり自由な行動が可能である。前者の映像型の世界と違って、様々な角度からの検証や洞察が可能である。
今回は、後者の方だ。まぁ干渉できるとはいっても、この目の前の壮年の女性が俺に気がついていないように、俺の存在するレイヤーはこの壮年の女性と同じレイヤーではないから、身体に触れたり喋ったりすることはできないが。
目の前の壮年の女は恐らくこの部屋から見るに、この建物に入っている組織のトップなのだろう。膨大な書類と、デスクトップパソコンを凝視することに忙殺されていた。
ここは……一体なんの建物なのだろうか。なんとなくだが、なにかしらの研究所のような雰囲気がこの部屋からは伝わってくる。
そのときだった。
部屋に誰かが入ってくる音が背後からした。すぐさま背後を振り返ると、そこにいたのは間違いなくベラトリックスだった。もう今更驚きもしない、何が目の前で繰り広げられようとも。
俺の目の前で展開されているのは、詳しい日時までは分かりやしないが実際に過去に起こった出来事。だからか、ベラトリックスも今とはとても違って見えた。素直に言うなら、目の前のベラトリックスには好感のようなものをはっきりと覚えたのだ。盲目で善良で、そして平凡な何も知らない一般市民からすれば、明らかに好青年と呼べそうな男が目の前に立っていた。
ベラトリックスは壮年の女性の目の前までやってきて、途中俺はそんなベラトリックスとぶつかりそうになったから横に避けた。ベラトリックスの表情は硬く、何かシビアで脆い心情を抱えているようだった。そして憎悪や殺意の感じられない、好青年時代のベラトリックスは口を開いたのだ。
「直接お会いいただけるとは思いもしませんでした。まずはそれに対してお礼を言わせてください、ありがとうございます」
ベラトリックスは深々と頭を下げた。
俺はその姿に、衝撃を隠せずにいた。
「お前の頼みだ、そのくらいは聞いてやる。だが問題は内容だ。けれど何か期待のようなものを抱くんじゃないぞ。お前に対しての方針は昔から変わらん――私達に害を成す存在に変貌を遂げたら即時的に廃棄処分する。忘れたとは言わせないぞ」
「ええ、その文言を忘れたことは一秒たりともありませんよ。それに、頻繁な人体実験で俺の身体とメンタルはもうボロボロです。だから歯向かう気力も体力も俺には無い」
「だろうな。だがそれに関しては私達も深く感謝をしている。憎悪や殺意を、現実を耐え凌ぐエネルギーへと変換するお前は優秀なモルモットだ」
ベラトリックスは薄く口角を上げていて、それが一瞬たりとも揺らぐことはない。だが彼のニマっとした表情の奥底に、特に目に、僅かながらも押し殺しているのであろう憎悪や殺意や反逆の精神が見てとれた。
「それで話ってなんだ?」
壮年の女が、書類とベラトリックスとを交互に目線を配りながら言った。
「はい、そのことなんですが。……アズサを、舟木梓を人体実験の候補者から外していただきたくここにやってきました」
心臓が一瞬潰れる音がした。
だがそんな俺をよそに会話は進む。
「……何故だ? 何故舟木梓をピンポイントで指名する? ……まさか恋でもしているのか? いや……お前に限ってそんなことはないはずだ」
俺はそうして確信した。ここは、アズサが通院していたアイリック・カンザスエイト精神医療センターであり、目の前の壮年の女はここの所長なのだと。もうこの時点では、ベラトリックスはアズサのことを相当想っていたのだな……。
「……条件による、な」
「条件ですか? その内容は?」
「まず私達が何故あの子を候補者に選んだのかだが、端的に言うと、舟木梓という人間は精神世界の広がりの速度が速くその領域も実に広いからだ。つまり、独自の精神世界を持ち、その膨張し広がっていくスピードが速い、だからこの人間の精神世界を具現化するという人体実験にはもってこいであるということだ。お前がもし本当に舟木梓を人体実験の候補者から外したいというのであれば、我々からお前に提示できる選択肢はただ一つだけ。お前自身がより長い人体実験に耐えること――それが、我々からお前に提示できる唯一のチャンスだ」
全く事情を知らない俺でも薄々分かる。それをしてしまってはベラトリックス本人の命が危険に曝されてしまうことを。
だが、目の前のベラトリックスの目には迷いなど一切感じられなかった。逆に、唯一とはいえまだチャンスがあったのだと希望を抱いているようにも思えるくらいだ。
部屋から立ち去る際、ベラトリックスは扉のドアノブに手を掛けながら背中越しに呟いた。
「約束、ですよ」
「あぁ、約束は必ず守る。我々としてもお前により深く強い負担をかけた実験をしたいと思っていたところだ。お互いにとってWin-Winなことだ、裏切りはしない」
「ありがとうございます」
そうしてベラトリックスは部屋から立ち去った。
そのときだった。
映像は急激な勢いで収縮しはじめた。
それはまるで宇宙が大収縮をするビッグクランチが起きているのではないのかと思ってしまうほど眩い光りと衝撃、そして幻想的で断片的な走馬灯のようなものが俺を包み込んだ。
まるで、記憶のプラネタリウムでも体感しているみたいだ……。いや、今の俺は本当に断片的なものではあるが記憶のプラネタリウムに包まれていた。俺を包み込む記憶の濃度の度合いは時間とともに強まっていき、それとともにその断片的な走馬灯のような記憶が自分のものではなくベラトリックスのものであることに気がついた。
俺は、ベラトリックスのこれまでの人生を、走馬灯を見るかのように断片的に追体験させられた。
親に捨てられ孤児院で育ったこと。他人との距離感を見誤って居場所を失ったこと。他人に裏切られたこと。善意でした行動が誤解され悪者扱いされたこと――それだけに留まらない、ありとあらゆる差別や苦痛や絶望を、ベラトリックスは味わってきたようだった。
『無菌室』を読んだだけじゃ伝わってこなかった遙かに強い苦痛の記憶に包まれていると、自分自身の人生など可愛く思えた。
俺とベラトリックスという似て非なる二人の男は最終的にアズサという一人の女神の元へ辿り着いた。アズサとベラトリックスに関係があったことは、アズサのカルテを読んだ時にハッキリと差し向けられた事実だが、ここまで……ベラトリックスがアズサのことを想っていただなんて俺は知らなかった。自分自身の命を懸けてまで、アズサを人体実験から遠ざけたかったのだ。
人体実験……そもそも、あの病院は、そんなことをしていたのか……。人体実験のより詳細な情報も、アズサが巻き込まれそうになったとなっては凄く気になるところだ。
――断片的なベラトリックスの人生の追体験が終わったとき、世界は真っ暗になっていて、気がついた頃には列車内に俺の意識が戻っているかと思ったが実際にはそうではなかった。
意識は、いつになっても真っ暗な深淵の世界に落ちたままだった。そこから誰かが、何者かが、助けてくれる気配は一切なかった。
ベラトリックスが感じた絶望はこんな感じだったのかな――俺はふと、その真っ暗で光の一切無い深淵の中でそう内心呟いた。
ずっとこのままかもしれない、そう考えると、今にも苦しくなって、今にも消えて死んでしまいたかった。凄く、悲しい、凄く、冷たい、凄く、痛い、次第になんにも感じなくなっていく世界で、俺は一人泣いた。
不意に流れた涙に俺自身が驚いた。流れ出た涙を手で拭っていると、真っ暗な世界に切り込みが入った。切り込みは裂け目となり、次第にこの真っ暗な世界を照らす明かりが流入してきた。……だけどそれは、何か違った。
そのときだった。一つのベラトリックスの断片的な記憶が脳に流れ込んできた。
それは何か火災現場の記憶だった。
建物は全焼し、今もなお燃え上がる炎に消防隊員は手も足も出ないような表情をしていた。そんな火災で焼け落ちていく建物のド真ん中に、一人の男がいた。それはベラトリックスだった。
ベラトリックスは無駄に抵抗を続けるスプリンクラーの水が全身にかかりながら、地面に倒れ込んで今にも死にそうな一人の壮年の女性を見つめていた。壮年の女性は、精神医療センターの所長だった。
「何故……こんなことに……」
火災で建物は焼け落ちていき、一歩間違えたら下敷きになるという中、今にも寿命が尽きそうなのにもかかわらず、所長の女性の声には生命力を越えた憎悪が宿っていた。
ベラトリックスはその言葉に何も言い返さなかった。ただ、ひとつ深呼吸をして、所長の最期を見届けた。そして所長の死に際、ベラトリックスは満を持したかのように、一つ言葉をかけたのだった。
「俺の能力会得の為の人体実験に付き合ってくれてありがとう。おかげで開心術という、人の心に入り込んで操ることができる能力を会得することができたよ。それもこれも、全てあんたのおかげだ。ありがとう。俺はこれからこの能力を使って世界を壊していくことにするよ。この火災は、その序章に過ぎないってことさ。嫌な思い出しかない場所は無くすのが一番だ。……サヨウナラ、お馬鹿さん」
そうして、ベラトリックスはさっそく能力を使って、今にも天井が崩れそうな場所の真下まで所長を移動させ、そこから一歩も動かないように命令した。
そして、天井が焼け落ちて所長がその瓦礫の下敷きになったところを見届けると、ベラトリックスは微笑を浮かべながらその場から立ち去った。




