陽光⑥
俺は、この列車内から抜け出す為の何かしらのヒントみたいなものを探し求めて暗室に行った。
暗室に辿り着いた途端、全く何も気配などなかった背後から何者かによって視界を奪われてしまった。
全く気配のない背後からの急襲に、俺は声を上げることすらできなかった。それがベラトリックスではないことは分かっていた。ベラトリックスには最低限憎悪や殺意というか、生命力の類いを感じ取ることができるが、背後の、ベラトリックスではない第三の見知らぬ存在からは、全く生命力のようなものを感じられなかった。
そんな存在の両手が俺の両目を隠していたが、その両手に温もりなどは感じることはできなく、あるのはただ抽象的な奇妙なまでの心地よさだけだった。
暗室のソファーに座らさせながら、両方の視界を隠されている。こんな状況、まったく予想などしていなかった。俺はどうしようかと思案が止まらなかったが、不思議と焦る気持ちはなかった。
「俺はお前のことをよく知っている。お前に訊きたいことがあるんだ、答えてくれるか?」
正体不明の存在の言葉に、俺の身体は一瞬ブルブルッと震えた。
その声は聞き覚えのあるものだった。男のものの声だった。俺はふと頭の中に不可思議な発想が浮かんだ。まさか……そんなことがありえるのか?
俺はなにも答えないでいた。だが、背後の正体不明の男は、俺からの一定時間のなにかしらの反応がなかった為か、次のプロセスへと移行した。俺は背後の正体不明の男に対して、まるでコンピューターと対話しているかのように思い居所の悪いムズ痒さを覚えた。
「空腹を感じたことは?」
正体不明の男は、急に質問を投げかけてきた。
素直に戸惑った。
「質問にはすぐに返さなきゃ。じゃなきゃ自然な潜在的な君が出ない」
男は背後から、耳元でそう囁いてきた。なんだこの状況……。
「じゃあもう一回訊くよ。空腹を感じたことは?」
「…………沢山だ」
「社会に対して憤りを感じたことは?」
「……沢山だ」
「人生に絶望を感じたことは?」
「沢山だ」
「快楽に溺れたことは?」
「沢山だ」
「愛に渇望を感じたことは?」
「沢山だ」
「欲動に駆られて人を殺しそうになったことは?」
「沢山だ」
「女を物扱いしたことは?」
「それはない」
「大人達に対して絶望と呆れを抱いたことは?」
「沢山だ」
「頭の悪い大人達に虐げられたことは?」
「沢山だ」
「死にたいと思ったことは?」
「沢山だ」
「こんな人生に抱く感想は?」
「もう沢山だ」
その瞬間、頭の中に荒いノイズのような痛みが走った。
……。
…………。
………………。
気がつくと、いつの間にか俺の視界を奪うものはなにひとつなくなっていた。これは、いったいなんだったのだろうか……。不思議な安堵感に包まれながらもそう思った。
正体不明ながらも、どこか懐かしさのような感情すら感じる男に対して、不思議と悪い気は起こらない。自然な潜在的な俺、か……。あの質問の答えが、自然で潜在的な俺……。
まぁなんにせよ、何もなく解放されてよかった。俺はソファーから立ち上がり、この暗室とTwilight in the Roomとを繋ぐ壁の前へと移動した。壁に手を触れると、すぐに壁は液状化しはじめた。もうこの能力にもずいぶん慣れたものだな。
そして、壁の中を通って壁の向こう側へと移動した。
分厚い壁の中を通り抜けながら、俺は内心呟いた――あの正体不明の男は、やっぱりそうなんだろうな。聞き覚えのある声、どこか懐かしさのような感情すら感じさせ、不思議な安堵感を与えてくれる存在なんてこの世にたった一人しかいない。……あれは……本当の自分もとい、もう一人の自分、なのだろうな。
俺はTwilight in the Roomに辿り着くと、気持ちを入れ直した。
もうここに来るのも慣れたものだ。いつもと変わらぬ探索、探索と言っても大抵の部屋は何もないというかあまり意味のない部屋だと思うし、自分にとって価値があるのはあの小瓶が大量に存在する部屋だけだ。こう何回も来たからもうあまり恐怖感みたいなものは薄れてるけど、いつなんどきどうなるかなんて分かりやしない。
慣れたと言っても、自分の心臓の音にすらストレスを感じてしまうほどの静寂と、今にも幻覚を抱きそうになる廊下の閉鎖空間、そして時折フラッシュバックしてくるあのバケモノに追いかけられた記憶は、俺の呼吸を浅くさせ、心臓をそのまま握り締められているかのような胸の苦しみを感じさせる。
俺は用がある小瓶が沢山存在する部屋の前に辿り着くと、特異性を使ってすぐさま入った。特に……変わった点は見受けられなかった。何度もこの部屋に来ているのにもかかわらず、変わっている点なんて本当に何一つ見当たらない。それが逆に、不気味でもある。果たして本当にベラトリックスにバレていないのだろうか? いや……そんなことは帰ってから考えよう……。
「ん? 前来た時にこんなものあったか?」
思わず大きな声が言葉として漏れ出てしまった。
俺はそれに近づいた。それは部屋の片隅にぽつんと、その自身の大きさに比べたら存在感をだいぶ消して存在していた。それをくまなく観察すると、やはりぱっと見の通りそれが水鉢であることが分かった。
その水鉢の中に並々注がれている水は、まるで鏡のように天井を写していて、全く濁り気のないその姿は心が引き込まれるような魅力があった。水面はまるでプロジェクターのようにも思えた。俺はそんな水鉢の中を覗き込んでいると、水面の模様が変わった。いや、模様ではなく……これはなんだ? これは実際に水鉢の中が変わっているのか?
よく見ると本当にそうだった。水鉢の中には先ほどまでは見られなかった何かしらの映像が流れており、その映像の変化は、やはり水面がプロジェクターの機能を持っていることを示していた。つまりこの水鉢は、俺が持っているノートパソコンと機能は同じだ。
でも、映像の中の世界に潜り込むというのは、俺の唯一無二の特異性の能力ありきなはず。壁を通り抜けたりすることができる特異性を持った特異体質者が、他にもいるとは思えないが。小瓶が沢山あるこの部屋にこれがあるということは、ベラトリックスがこれを使って、映像の中の世界に入ることができるのかは分からないが、少なくとも映像を観ていたと考えて間違いないだろうな。
駄目だと分かっていても、身体はその水鉢の水面の中の世界に好奇心を示した。
頭ではそんな感情を拒否しているつもりなのに、身体はどんどん水鉢の水面へと近づいていく。前来た時にはこの水鉢なんてなかったわけだから、もしかしたらベラトリックスがこの水鉢の中の世界にいるかもしれないのに。なのに、俺はその水鉢の映し出している世界に強力な引力を感じてならなかった。それはまさに、持って帰った小瓶に感じる引力と同じだった。
水鉢の水面はとても冷たかった――。
俺は好奇心に耐えきれず水面に手を触れてしまった。
ピチャッと指が触れた瞬間に生まれた水紋の波間に指が、腕が、そして次第に身体全体が引き込まれていった。
そうして、俺は水鉢の映像の中の世界に入り込んでしまった。




