陽光③
俺は目を開けると、煌々とした、煌びやかではないものの実際よりも遙かに明るく見える長方形の物体を目の前に視認した。
しん、とした、一瞬暗室に来てしまったのではないかと思ってしまうほど暗い世界の中で輝いているそれを見つめて、俺はここが別にベラトリックスの過去なんかじゃないことを理解した。目の前のそれが、そのことを刹那に確信させた。ここは、アイリック・カンザスエイト精神医療センター、アズサが通院していた病院だ。
――何故ここに辿り着いてしまったんだろうな……。
煌びやかに輝いている長方形の物体であるそれは、別にSF映画に出てくるような不思議な物体やモノリスなんかではなく、俺にとっては良い思い出などひとつもない、ただの病院の建物だ。
良い思い出などひとつもないことを思い出してしまい、それをどうにか忘れようと、誤魔化そうと、都合の悪いことを思い出す前の自分に戻ろうと色々と内心画策してみたが、どうにもならないことに俺は深い溜息をして、せっかく来たのだからと、恐らくアレがあるだろう病院内へと足を踏み入れることにした。
病院内はやけに静かだった。いやそれもそうか、俺しかいないんだもんな。外は、自分が現世にいた頃の記憶と比べたら驚くほど暗く感じられ、時間帯としても深夜帯であることは間違いない。そりゃあ、現実味も消失するか。こんな時間に、ここに来ることなんてなかったものな。
俺は、病院内を奥へ奥へと進んでいった。
現実を遠いものに感じさせる静寂の中に響き渡る、白いタイルを踏み潰す自分自身の足音。人によっては生命の最終地点でもある病院なのに、今この病院に存在する生命は己のみだ。そう思ってみると、何故だか自分自身が病院と一体化していっている感覚に襲われた。病院と自分自身がイコールとなった今、探しているお目当てのアレがどこにあるかだなんて自分の身体をまさぐるようなものだから簡単だった。
俺はスタッフルームに入り、様々な資料が管理保管されてある場所に着いた。膨大な資料のうち、お目当てのアレは奥の奥にあった。アレがある部屋に入る為には認証カードが必要なようだった。厳重に保管されているようだ。
俺にとっては、そんな扉なんて無意味なものだ。俺は硬く厳重に閉ざされている扉をすり抜け部屋へと入った。部屋の中にも資料が膨大に山のように存在していたが、その中から俺は見つけ出した。
「これか……」
思わず声が漏れた。一度くらいはこれを読んでみたかった。
俺は、手にしたアズサのカルテを見つめると、自然と笑みが溢れてきて、そして自分でも無意識的にそのカルテをぎゅっと抱きしめていた。
俺は、アズサのカルテを開いた。
……これまで、アズサが精神的な病を抱えていて、とても深い谷底に落ちて苦しんでいる、ということだけは分かっていた。逆に言うと、それだけしか分かっていなかった。精神的な病、恐らく鬱だろう、と。俺の人生で一番の過ちとも言える、アズサから薬を奪ったことによって、アズサは薬の服用を辞めてしまった。
アズサが死んでしまって自らが犯した過ちの大きさに気づいた今だからこそ、改めて俺は色々なことが知りたかった。いつから病院に通うようになったのか、いつから薬を服用するようになったのか。いつから……ベラトリックスと関係を持つようになったのか……。
アズサのカルテを開いたものの、俺は読むことを躊躇った。怖い、見たくない、知らないでいいこともあるかも……。内心湧き出てくる言葉は、ネガティブなものばかりだった。
それでも俺は読んだ。ゆっくりと、ゆっくりと、ひとつひとつの文脈を掴み取り吟味するようにゆっくりと。
俺はまずひとつのことに驚いた。アズサのカルテには、俺が思っていたよりも遙かに事細かく圧倒的な量の情報が載っていたからだ。ここまで事細かい情報であればもうこれはただのカルテではない。
あの時の、アズサそのものだ。
そしてもうひとつ、俺はとあることに驚いた。
事細かな情報の中に、『大切にしている人』の欄があったからだ。そして、そこにはちゃんと自分の名前が入っていた。『井境喜比斗(男)(恋人)』と。恋人……そうか、俺は恋人だったんだ。……いや、なに可笑しくなってんだ俺は……そりゃそうだろ……俺以上に、アズサを愛した男なんて……いないはず…………だ。
だが、それから読み進めて一分も経たないうちに、俺は読み始めたことを後悔した。
カルテの奥のページには、アズサ自身のものと思われる日記が記されていたのだけれど、それがもうなんとも生々しく痛々しかった。日が進むにつれ弱っていくアズサの心、生々しいくらいにありありと記されているアズサの気持ち――その気持ちを記した文章の中には俺についての記述もあった。
目を逸らさずしっかりとカルテに記された全ての文字に目を通して、俺は目の前のアズサ本人と向き合った。なのに……ちゃんと読んだところまでの全ての文字に目を通しているはずなのに……俺は、反芻ができなかった。胸に残ったのは、言葉ではなく、痛みだけだった。
ただ痛みだけをアズサから受け取って、俺はその場に座るしかなかった。心の許容量を遙かに超えたこの痛みが、別にアズサが感じた全ての痛みや苦しみだとは思わないけど、心が潰されたような胸の痛みに、俺は頭が混乱して、気持ち悪い興奮に襲われて、何が何だか分からなくなって、今にも意識を失いそうになった。
…………。
…………。
時間が経った。何分ほどこの場に座っていたかは分からないが、俺は立ち上がって、改めてアズサのカルテを読み進めることにした。もう既に、心はボロボロだけど。
時間が経ち、さっきよりかは冷静さを取り戻したからか、カルテを改めて読み始めると、ひとつのことに気がついた。それはアズサが、俺の為に入院まではしなかったという事実だ。
なんとか薬の服用だけでアズサは自分を保っていて、本来ならば入院が必要なレベルだろう状態に一時的になっても、俺の為に、俺に己の心の病のことがバレないように、入院だけはしなかった。そしてあの時の俺は、こんなにも俺の為に自分を取り繕うことに精一杯なアズサから、なんとか最低限自分自身を保つための拠り所であった薬までもを奪ってしまった。
俺は、天を仰いだ。
……そもそも、アズサは何故、入院が必要なレベルだろうと思える状態でありながら、俺の為という理由はありながらも、入院をせずとも自分を保っていられたのだろうか? その疑問の答えも、読み進めたら記してあった。
『あの人と私だけの世界であるGardenは、私の気持ちを何故か軽くさせた。普段ならばベッドに磔られているのかと思うほどの重い身体も、キビト君のことを考えるとすっと軽くなって大丈夫になる――』
俺は涙を流しそうになった。今まで見てきたアズサの姿は、やっぱり無理をさせていた偽りの姿だったんだ…………。
だがそのときだった。俺はふと目にしたその言葉の続きに、カルテをその場に落としてしまった。
顎が外れそうなほど口を大きく開いた。愕然とした。心が衝撃で脆く崩れそうになった。
『キビト君のことを考えるとすっと軽くなって大丈夫になる――』この続きがこのように書いてあったのだから。
『――でも、ベラトリックスとのキスも凄く心を軽くさせてくれた。あんなに味わい深いキスは初めてだった。キビト君が悪いわけじゃないけど、あんなに心をほぐしてくれるようなキスは凄くよかった。昨日くれたペンダントも、凄い綺麗で、心が落ち着いたな』
俺は気がつくと涙を流していた。俺はアズサとの記憶の全てを振り返り、俺の何が悪かったのかを必死に無我夢中に考えた。涙に溺れた俺は、その場に重く倒れ伏した。床を貧弱な力で殴った。手の全体が青く腫れるような痛みを覚えた。
…………。
………………。
……………………。
十五分ほどして、気持ちを落ち着かせて、気持ちを乾かせて、気持ちのカサブタをちゃんと取ったとき、俺はもう何も思わない人間になっていた。
このたったひとつの言葉でアズサのことを嫌いになったかと問われればそれは違うと即答する。こんなことで愛の感情がひっくり返り、嫌悪や憎悪に変わるかと問われてもそれは違うと思う。子供の恋愛じゃあるまいし。
ただ……だが、俺はもう何も想えない。もう何も感じない。俺自身にも非はある。だけど、君もそうだったんだね。
俺は立ち上がった。
――ペンダントを返すという約束は必ず守る。だがそのあと俺がベラトリックスをどうしようとも、それは俺の勝手だろ。




