愛とシトラス②
ふとした思考の余白ができると、俺はいつもベラトリックスのことやTwilight in the Roomのことを考えたりするが、それでも日常的に過激な状況に置かれているわけではないし、いつも通りの何気ない生活をしていると、ふとした瞬間に自分が何故ここにいるのか何を目標に生きているのか分からなくなるときがある。
アズサとの最後の約束であるベラトリックスにペンダントを返しにいくこと――それまでもが、日常のいつの日かのコピーのコピーのコピーのコピーみたいな生温い生活をしていると、揺らいでしまう。
でも、クソつまらない日常の方がまだ良かったかもしれないと思ってしまう瞬間も、何気ない日常の中には、まるで普段は息を潜んで全く見えないようになっている魔物のように存在している。ついさっきの出来事も、俺にとってはまさにそのような魔物に出会った瞬間だった。
――二時間前。
朝食を食べた俺は、部屋に戻り売店で買ってきた小説でも読もうと思った。部屋に戻ると胡乃葉の姿はなかった。胡乃葉も本を読むことは多かった為、俺はふと物置になっている胡乃葉の二段ベッドの上段に目をやった。すると、そこには一冊の本があった。俺は何気なくその本を手に取った。
手に取ると、すぐにそれが売店に売っている類いの本ではなく文庫本のサイズのメモ帳であることに気がついた。胡乃葉は部屋にいない、このときの俺は何を思ったのか、普段ならばすぐに元の位置に戻してしまうだろう胡乃葉のメモ帳に興味を抱いてしまった。
自分のベッドに腰をかけると、俺はすぐさまメモ帳を開いて目を通した。
俺は一瞬息が止まった。そのメモ帳は日記であり、毎日事細かにその日起こった出来事や感じた事を書き記しているようだった。問題はその内容だった。具体的な内容は今となっては衝撃のあまり憶えていないが、精神的な重圧や苦しみがなければ絶対に出てこないような言葉達がずらっと書き殴られてあった。俺はこの瞬間、今まで胡乃葉へ抱いていたイメージが全て崩れ落ちた。
俺は一瞬、ベラトリックスの『無菌室』を読んでいるのかと錯覚を抱いてしまうほど、目の前の書き殴られた言葉が胡乃葉から出たものだとは思えなかった。普段何気なく接している胡乃葉にも、こんな想いがあっただなんて全く知らなかった。
想像以上の暴言の嵐。読んでいる人間までも闇に引きずり込むかのような生々しい感情。そしてなによりも俺にとってその身を震わせたのは、他らなぬ俺自身へ対する文章だった。
要約すると、それはこのようなものだった。
『あれほどまでに可愛らしい男はいないし、接しやすい男もまたいない。こんなにも長く共に同じ部屋で暮らしているのにもかかわらず、私に軽く手を出すことも全くしないし、それでも私が少し無防備な姿を見せた時には若い男の子らしく、私にバレないようにちらちらと見てくるのが凄く愛らしい。もう出会ってから数ヶ月が経ってなおかつ良好な関係が築けているのだから、いつの日か手を出してくれることを密かに楽しみにしている。いっそ、私の方から手を出してみてもいいかもしれないその時はお酒の力を借りるけど』
俺は頭を抱えた。
なにかを起こしたわけでもないのに、反射的に俺は内心アズサにとりあえずの謝罪をした。俺はアズサ一筋だ、俺にはアズサしかいない、俺はアズサ以外の女を抱かないと決めたんだ――内心何度もそう呟いたが、もしその時がきたら、理性も何もかも全てがぶっ飛ぶんだって知ってるんだ。アズサに対する愛は本物のはずなのに、その文章を目にした瞬間の俺は、身体になんとも言えないこそばゆさを感じていた。
読まなかったことにしよう、今まで以上にあまり胡乃葉を気にしなければ済む話だ。耐えよう、アズサの為にも。
……まぁそれはそれとしても、俺はこの時初めて胡乃葉の真の姿を、感情を、そして生きる事にどれだけ息苦しさを感じているのかを知った。今までの俺は偽りの胡乃葉を見ていたのだ。騙されていたような感覚すら覚えるが、あっちが本当に巧妙に上手く隠していたのだから、それは仕方がないだろうとも思う。
――それからというもの、俺はいつも以上に胡乃葉のことを気にするようになってしまった。




