welcome to underground⑪
俺は今の自分が繰り出せる最高速で背後から急速に迫っている存在から逃げた。
とんでもない爆音を立てながら接近してくるそいつは、明らかに人間が走った時に立てる音とは全然違う異音を鳴らしていて、その接近音は俺の頭にバケモノの様相を想像させる。
明らかに人間ではないバケモノが近づいているのだ。そのバケモノに自我が仮にあるのであれば、追いつかれたとき俺は確実に殺されるだろう。そのバケモノに自我が仮に無いとしたら、それでも追いつかれたとき俺は確実に殺されるだろう。
走りながら酸欠になっている頭でその異音の正体を想像した。まるでその異音は巨体を揺らしたことによりその巨体が壁に擦れて起こっている音みたいだ。何にしろ、人間じゃない事は確か。壁に全身を擦りながら走っているからか、バケモノはその異音の迫力に比べて思ったよりも足は速くない。それでも、俺はこのまま走っていても追いつかれるのは時間の問題であると確信した。
もう今の俺は走れてすらいない、どちらかというと少し早い歩きだ。あと一分もしたら絶対に追いつかれる。俺は壮絶な吐き気を感じながら、近くの部屋に入ることにした。一番近くの部屋のドアノブを捻った。扉は開かなかった。
「クソッ!」
もう走る気力も体力も精神力も失っていた。俺はその場に立ち尽くした。このまま終わりを迎えようかと思った。人生なんて呆気ないものなんだなとこの時初めて気がついた。
でも……まだ死ねない。アズサとの最後の約束を果たすまでは。
俺は再度走り始めた。バケモノが轟かせる爆音の異音はそうすぐそこまで接近していた。一本道とは言っても、このTwilight in the Roomにはクネクネと曲がったりする道が多くある。だから恐らく今くらい接近されていてもギリギリ姿は視認されていないはずだ。
「マズいかもっ」
無理そうだ。視認されるのも時間の問題だ。なんせここから先は百メートルくらい真っ直ぐな道が続いていたからだ。だからあと二十秒もしないうちに姿が視認されるだろう。俺は一番近くの部屋のドアノブを捻った。扉が開くことはなかった。人生は運なのか――そう内心感じながらも諦めずに再度走り始めた。そして俺は、十メートルほど先の扉に全ての運命を託すことにした。その扉のドアノブを俺は捻った。
扉は開いてくれた。
死に物狂いで部屋の中に入ろうとしたそのときだった――
俺はバケモノの視線を背中に感じた。視認された――明らかにそのような感覚を覚えた。
だが部屋に入ることはできた。扉を隔てた廊下側でバケモノが蠢いているのが感じられた。
分厚い扉だからあまりよく聞こえないが、バケモノはやはり人間ではない人外の生物らしい。「フンガッフンガッ」と鼻息荒くしている音が聞こえた。だが幸いなことにバケモノは扉の前で止まったりすることなくそのまま直進を続けてどこかへと過ぎ去ってくれた。
Twilight in the Roomを始点から終点まで歩いたことがないから分からないが、一周ぐるっと回れるようにでもなっているのだろうか? もしそうじゃなくて行き止まりでもあれば、帰る時は逆にそのバケモノの背中を追いかけるようにして帰れるのだけどな。
俺は胸を撫で下ろした。まだ目的地に辿り着けていないが、それでも俺は安堵感に、軽く涙がこぼれた。
――でも、よくよく考えるとここまで焦る必要なかったんじゃね? ……あぁ、俺本当に馬鹿だ……。
特異性使えば鍵が掛かっているとか関係なしにどっかの部屋に逃げれたじゃん……。
冷静さを取り戻した今、本気で怖い思いをして逃げていた自分がアホらしく思えた。
そんな自分に、思わず俺は笑みが溢れた。本当に、馬鹿みたいだなぁ。
扉を開けて軽く顔を出してみた。ちゃんとバケモノはいなくなっていた。俺は廊下へ完全に出ると、ガシャンッ! と重い扉が閉まった。重い汗がズーッと背中を垂れるのが分かった。安全地帯から抜け出した俺は、妙に気持ちが弱っていた。
前回来た時、こんなにも遠くまでTwilight in the Roomを歩いた憶えはない。恐らく行き過ぎたのだろう。そして逃げている最中に微かにではあるが、前回通ったその残滓のように、どこかの道中の壁に〝液状化した後の匂い〟みたいなものを感じ取ることができた。普通であればそんな匂いを感じ取る事はできないが、何故かこのTwilight in the Roomで一つ感じ取った。それが目標としている部屋である確証はないが、俺はそのポイントまで戻る事にした。
そのポイントまでは十分ほど歩いた。
「ここか……」
今の俺には、明らかに目の前の壁が他の壁と違うことがありありと分かっていた。言語化するのは難しいけど……なんかそういうふうに思う。列車内の地下の書斎などの、複数回特異性を用いて入った壁や床からは感じることができない他とは違う匂いが、俺の目の前の壁からは何故か感じられた。
俺は目の前の壁に手を触れた。すると壁は、俺が強く意志を持つ前に勝手に温かみを帯びて溶け始めた。壁には瞬間的に大きな穴が開いて、その穴から俺は部屋の中へと入った。部屋は感覚で捉えていた通り、小瓶が沢山存在する部屋だった。
俺は沢山ある小瓶を前に、前に来た時も選ぶのに苦労したことを思い出した。前に来た時は、ただならぬ引力を感じる小瓶があって、そしてそれは結果的にお目当ての自分の記憶が全て詰まっていた小瓶だった。ただならぬ引力……自分の記憶には引力を感じるのは確かにあるだろうけど、俺が今求めているのはベラトリックスの記憶……他人の記憶に引力を感じるものだろうか。
俺は沢山ある小瓶を前に少し頭を抱えながら、なんとなく惹かれた小瓶を一つ拝借した。
これがベラトリックスの記憶だったらいいけど……そんな都合のいいことがあるわけもないか。
そして俺は、肌が微弱にピリピリし、静寂すぎていつもより心臓の音が遙かに大きく煩わしく聞こえ、気持ちを蝕まれていくような壁や電球の色に気持ちの主導権を確実に奪われてしまう冷たい廊下へと出た。
帰るまでが遠足だ。俺は多少気持ちに余裕を持ちながらも軽く緊張を維持しながら、暗室へと繋がる壁まで歩いた。
暗室への壁を液状化させ、その穴を通って暗室へと入ろうとしたときだった。
「……!?」
俺は背後に視線を感じた。
絶対に振り返らないと内心決めた。
俺はゆっくり、背後の存在に気がついていないふりをしながら穴を通って暗室へと入った。
俺が通り終わると、穴がゆっくりと閉まっていく。そのとき、俺は好奇心に負けて背後を振り返ってしまった。
ゆっくりと閉まっていく小さな穴の隙間から、バケモノが俺の方をニッコリと見ていた。
俺は自分の目を疑い、声にもならない声が出そうになり必死に抑えた。
自分の目に映ったものが、この世の存在とは思えなかったからだ。
いつから背後にいた……? 俺を追いかけてきたあのバケモノと一緒かは分からないが……巨体を壁に擦りながら走っているようなあの爆音の異音を立てるバケモノと、今俺が目にした存在がもし同じだったら……俺はずっと知らないうちに監視されていて、あの逃走も茶番だったっていうことか? ……あのバケモノが背後にいたこと、全く気配も何も感じ取れなかった……。
俺は寒気を感じて、足早に暗室から列車内へと戻った……。




