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welcome to underground⑨

 夕陽が列車の車体を照らす中、俺は遮光カーテンをあまり力の入らない手で降ろした。そうするとすぐさま睡魔がやってきて俺を現実から奪い去った。

 

 目醒めると時刻は深夜の二時頃だった。


 俺は睡魔に誘われる前に降ろした遮光カーテンの隙間から車窓を眺めた。一体この列車はどこに向かっているのだろうか、そのような疑問は最近より強くなった。ベラトリックスに確かに刺されたはずの背中は、起きた今もやはり全くなんともなく、擦り傷一つ確認できない綺麗な状態だった。


 ――あれは本当になんだったんだ?


 あの時の俺はやっぱり幻夢の中に居るような状態だったってことか? 何度反芻しても、あの視覚的聴覚的感触がいざ幻だったと言われるのは腑に落ちない。だったらいっそあれはベラトリックスが唱えた幻夢魔法によって引き起こされたものだ! とでも言われた方がまだ分かる。魔法、ねぇ……。あんな事ができる特異性が本当にあるのか? ……まぁ俺の特異性だって非現実的なものだが。


 俺は、すやすやと寝息を立てて眠っている胡乃葉の寝顔を見つめながら、何度もパーティー会場での出来事を反芻したが、胡乃葉の寝顔が可愛らしいと思ったこと以外に何も浮かばなかった。


 なんだか気持ちが落ち着かない。


 自分の身体が自分のものじゃないみたいだし、呼吸も少し苦しくなってきた。何故か焦っている。頭の中はベラトリックスのことでいっぱいだ。俺はベッドに身を投げた。すると、背中とベッドの隙間に何かが挟まったような感触を得た。俺は一瞬静止した後、面倒臭いけど背中とベッドに挟まれた物を取った。俺はその物を目にして、ハッと思い出した。


 『読めば分かるだろう――』


 俺はまるで軽い感電をしたかのように、パーティー会場で出会った老人の男が言っていた言葉が身体中を駆け巡った。


 この『無菌室』というタイトルの本、パーティー会場で老人の男にポケットを指さされた時、そもそも持ってきていたことを忘れていた。だからポケットの中を指摘されたときは何かと思ったし、だがあの老人のおかげで、今の俺は『無菌室』に純粋な興味を持っていた。 


 俺は胡乃葉を起こさぬよう別の明るい場所へ移動することにした。


 『無菌室』を持ってラウンジに行き、ラウンジの端っこにあるソファーに座ると、俺は改めてまじまじとその本を眺めた。


 ――この本は胡乃葉がくれたものだったよな……何でくれたのか訊いた憶えもあるけど、なんとなくって言われたんだっけか。多少ザラザラしたグレーの文庫本の表紙は、タイトルと著者名が記してあるだけで至ってシンプル。この本に、本当に老人の男が言っていたような、人が壊されたり魅入られたりするほどの魔力みたいなものがあるのか? ……まぁそれも、読んで見れば分かる、か……。


「……なんでだ?」


 俺は虚を突かれた。


――いやいやいやいや、そんなことあり得るのか? いやでも……現に俺の目にはそう映ってるし、でも……これまでにも本の表紙を見たことは何回かある。それなのに、どうして……。


 『無菌室』……この本の著者名は『ベラトリックス・バグファイア』そう記されてあった。


 俺が今から読むこの本は、ベラトリックスの心の中そのものだろうという直感を感じた。


 俺は唾を一度飲み込んでから、ゆっくりと一ページ目を迎えた。

 ……。

 …………。

 ………………なるほど。


 端的に言うと、この本の内容は最低限のストーリーテリングがされているだけの実質的にはエッセイだった。


 長くはない全編の三分の二ほどに達したとき、俺はベラトリックスの内情が如何にドロドロしていて、救いようがないながらも同情してしまいそうになるところがあるかということに、胸を突かれたような気持ちになった。露悪的で暴力的で衝動的ながらも、凄く魅力的。そんな存在に、俺は出会ったことがない。少なくとも、これまでは。


 最後まで読み進め終わると、俺は虚空を見上げた。


 この見つめている先の天井程度であればいとも簡単に貫いてしまいそうほどの湿っぽく生臭い感情を覚える。俺は俺で彼は彼だが、俺はこの、少なくとも読後の数分間だけは、確実にベラトリックスに同化していた。精神が感応し、彼そのものになっていた。


…………。


「そっか……そうだよな」


 この『無菌室』の中で特に心に重く響いた部分には、こんな言葉がある。


『弱い者が更に弱い者を叩く、これほどまでに愚かなことはない。もしこれを読んでいる君が、貧困は当人の努力不足であるとかそれが運命だと言うのであれば、俺は躊躇無くこれを読んでもなおそう考える君を殺すだろう。そして、弱者の戯言など他人事だと考えているならば、お前自身が弱者であることに気づくべきだと助言を授けよう。弱い者が更に弱い者を叩く世界で、俺は確かにお前よりも弱者かもしれないが、他の人間からしたらお前も底の底にいる弱者なのだ。底辺同士、仲良くすべきだ。幾度となく体験した苦痛は俺を無限の解離へと導いたが、それは自分自身を見つめ直すチャンスだとも俺は感じたから、俺はそうしたし、見つめ直した結果このような答えに俺は辿り着いた。『人間にとって、環境が全てだ』と。どれだけ善良な魂を持っていようとも、優れた能力を持っている人間であるとしても、常に周りを警戒し常に殺意と復讐を抱きながら生きなきゃならない環境で、果たして人間が健全に育つのだろうか……。人間は環境次第で天使にも悪魔にもなれる。どんな人間の心の中にも天使や悪魔は宿っている。重要なのは、そのバランスさ。俺という人間は、心の中の悪魔が肥大化し過ぎてもうどうにもならないんだ……。禍々しい感情に、支配されている。死にたいが死ねない、俺は自死できるくらい強くも、弱くもない。俺が俺を殺せないでいるんだから、他に誰が俺を殺せるって言うんだよ? 善悪ももうよく分からねぇ。ただ分かるのは、善悪なんてものは異なる環境にいる人々が、己の視座からしか見えない現実を全てだと思い込み、理想論を押しつけるだけのポジショントークに過ぎないってことだ。金持ちや先進国の恩恵を受けられている人間を親に持つ子供と、最貧国の殺るか殺られるかの現実で生きている過酷を強いられている子供を、同列に語れるはずがない。さっさと死を待つだけの人生の奴もいるが、俺は自殺なんてしない。何故ならば、俺や俺みたいな人間の境遇が理解できない理想論ばかり押しつけてくる穀潰しの無能共を、この世から一匹残らず殺し尽くすという目標があるからだ。これを読んでいるそこのお前、俺に殺されたくなきゃ、お前自身も弱者なのにもかかわらず、より弱い弱者を叩くのは辞めておけ。叩くなら、もっと良い対象がいるだろ。例えば、不安や嫉妬に塗れて弱者を叩いてしまうお前自身とかな。』


 もしかしたら、俺はベラトリックスと仲良くできるかもしれない。


 この本一冊でベラトリックスの全てを分かった気になるのは愚かだが、確実に俺はベラトリックスのこの言葉には同調したし、ベラトリックスも俺と同じ痛みを感じてきのだと、分かった。


 この本一冊だけに留まらない、ベラトリックスの過去を知っていけば、俺はベラトリックスともしかしたら分かり合えるようになるかもしれない。彼の過去を知る事によって、彼がどこに向かっているのかを知り、人生の目的地のその先を知る事によって、ベラトリックスが俺に協力を提案した真の意味みたいなものも分かるようになるかもしれない。そしたら、俺だって現実へ帰る足がかりが安全に手に入るだろう。


 自分の記憶が全て詰まっていた小瓶を見つけたあのTwilight in the Roomに行けば、もしかしたらベラトリックスの記憶も一つくらいはあるかもしれない。


 だから……もう一度行こう、またあの場所へ――。


 そう考えついたとき、身体はもう既にその場から立ち去っていた。

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