welcome to underground⑧
――俺は目を醒ましたとき、何故か裸になっていた。
そして、意識がよりハッキリとしはじめると俺の隣りに裸の女が寝ている事に気がついた。嫌な匂いが鼻を強く刺した。それはパーティー会場を包み込んでいる匂いとは似ているようで違う不思議な匂いだった。なんだろうと思いながら少し鼻に意識を向ける……これ、精子の匂いだ。
俺はこのとき全てを理解した。
この状況とこの匂い……明らかに、俺は隣ですやすや呑気に寝ているこの女と、セックスをした。
しかもそれはどこかの個室などではなく、パーティー会場の数あるボックス席のうちのひとつで。それを認識した途端、急激に気分が悪くなりはじめた。腹の底から押し上がってくるような吐き気に今すぐにでも吐いてしまいたかった。この場所で汚れちまった自分の全てを、今すぐにでも排出してしまいたかった。
俺はふと辺りを見回すと、ここれまでの一部始終を見ていたであろう近くのボックス席の大人達の視線に気がついた。にやにやとした舐め回すような目つきで、大人達の視線は俺に向けられていた。俺は荒くなっている呼吸をなんとか落ち着かせようとした。
俺は軽いショックを受けた。それは大人達の視線に対してではなく、アズサという最愛の女性が俺にはいるのにもかかわらず、見ず知らずの女とセックスしてしまったことに対してである。たとえ酒に酔ってようが薬を盛られていようが――俺がこうなってしまったのは意識を失う直前に飲んだあのカクテルが原因だろう――まるで、アズサに対して冒涜をしてしまったような気持ちになった。
だがそんなことを言っている場合ではなくなった。俺の視線の端に、今一番見たくない存在が映った。
――嘘だろ……? 何故お前がここに居る……?
俺は急いで近くに散らばっていた服をかき集めて着た。
一刻も早くここから逃げ出さなければならない――俺の気持ちはそれでいっぱいだった。
今一番見たくない存在の姿は、まだ俺の視点の端から動かなかった。それがこの場から勝手に消えるのは非現実的に思えた。だから本当ならバレないうちに逃げた方がいいのに、だけど強烈なまでのベラトリックスの姿は、俺をその場に留まらせた。
――ベラトリックスは一体何をしにここへ来たんだ? でもどうしてだろう、いつもと様子が違う気もする……。俺の頭が可笑しくなってるだけか? なんにせよ……いつもと違うように思えるそんなベラトリックスも、凄い不気味だな……。
いつもと違う様子が具体的になんであるかは分からない。風貌などは別に変わりない。ただ、何かが違う気がすることもまた確かだった。
俺の思考は答えを見出せずにいた。この場からいち早く立ち去ることが理想だが、カウンター席に座りマスターと会話をしているベラトリックスを出し抜けるかどうか……。マスターと話しながらも、意識を常に周囲へ向けていることがなんとなく見てとれるから、バレずに立ち去れるかどうか……イチかバチか。俺からすればベラトリックスはまるで背中にも目が付いているみたいに思えた。背中を向けられていようとも、逃げ出す勇気が出ない、躊躇が勝つ。
それでも俺は、タイミングを見計らって、この会場に来たときと同じ壁を通って列車内の地下のあの書斎へ戻ることにした。
二十二分ほど経ったとき、チャンスは突然訪れた。ベラトリックスは俺が目標としている壁とは真反対のパーティー会場のより奥の方へと姿を消したのだ。
俺は抜き足差し足忍び足でゆっくりと、だが急ぎながら会場へ来たとき通った壁へと近づいた。それは進み始めてから五歩ほど進んだときだった。俺は背中に嫌な気配を感じた。
――やばい、完全に見つかった!
俺は全速力で壁まで走った。だが、背中から何かが飛んでくる気配も同時に感じた。それが俺に当たるのが先か俺が逃げ切るのが先か――
俺は壁まで辿り着く事が出来なかった。
壁まであと一歩か二歩というところで、ベラトリックスが投げたであろう投擲物が背中に刺さった。
刺さったのはナイフだろうか、いやなんだろうとなんでもいい、確実に十センチは背中にその投擲物が刺さっているような痛みを感じた。死ぬほど痛い。倒れ込んだ俺は、脂汗をかきながらほふく前進で壁へと少しでも近づこうとした。だがそれよりも、ベラトリックスが俺に近づいてくる足音の方が遙かに早かった。
俺は死を覚悟した。ベラトリックスは、俺がもう逃げられないことを感じたのか、足取りを緩めゆっくりとした足取りで近づいてきた。俺はこれから先の展開を予想して、まるで死刑宣告でも受けたかのような暗くて重くて風穴が空いたような感情を抱いた。
殺されるんだ……背中に刺さっただけでもこんなに痛いのに、殺されるなんてどんな痛みなんだ……っ!
死にたいと思ったことは数え切れないほどあるし、アズサと共に時間を過ごしていたあの時の俺なんて希死念慮以外に感じ取れた情動なんて数少ないのに……なのにっ……こんな時になって、初めて心の底から生きたいと思ったッ。殺さないでくれっ……痛いのはもう嫌だよ……死ぬときまで苦しいなんて聞いてねぇよ……。
ベラトリックスは倒れ込んだ俺の背中に馬乗りしてきた。俺はベラトリックスに頭を押さえつけられ、俺の顔面は床の生臭い匂いと密着した。
「ぐああああう!」
背中の投擲物を一気に引き抜かれた。
口から大量の血反吐を溢した。この時点で既に意識が混濁を極めていた。
次に俺が感じたのは背中を滅多刺しにされる限界的な痛み。
意識がモウ……駄目、ダ……。
…………っっ。
…………っ。
………………………………。
「なぁさっきの変な現れ方したお兄ちゃんよぉ、何してんだ?」
……。
「おーい、何やってるんだ」
…………。
「なぁ、本当に大丈夫かよ? 急にぶっ倒れて酒でも飲み過ぎたか? ほら、起きろって」
………………。
俺はふと、誰かに身体を揺さぶられていることに気がついた。
今の俺は、誰かに抱えられている感覚だけを得ている。なんでだろう、身体はさっきよりも大分軽く感じる。
俺は気がつくと、近くのボックス席に座らされていた。そして、朦朧としていた意識は時間の経過とともに少しずつ晴れやかになっていった。
「血が垂れりゅ……ぅぅ」
「ああ? 意識朦朧としすぎじゃねぇか? やっぱお前酒飲みすぎたんだろ。お前に血なんて一滴たりとも付いてねぇよ」
「……うえぇ?」
「付いてねぇもんは付いてねぇんだよ。……んもう、水もってきてやるからそれでも飲んで目醒ませよな」
血が……付いないぃ?
男はどっかに行っちゃった。でも少しすると戻ってきた。
「ほら、これ飲め」
俺は口に無理矢理水を注ぎ込まれた。溺れかけた、また死にかけた。
「大丈夫か本当に」
俺はそれでもなんとか水を全て飲み込んで少し時間が経つと、朦朧としていた意識はほとんど完全と言っていいほどに回復していた。
「あれ……俺は……どうしたんだ?」
「こっちが聞きてぇよ。突然何もないところで倒れて、本気で痛がるんだからこっちの方が驚くぜ」
「何もないところで……倒れた?」
「ああ、そこでな」
男は俺が倒れ込んだところを指さした。よく見ると、俺に無理矢理水を飲ませたこの男は、俺がこの会場に来たときに初めて接触したスタッフの男だった。そしてよくよく見ると、俺の身体や服には全く血など付着してはいなかった。背中の刺された痛みも、今となってはもう全く感じなくなっているし、服の背中の部分も全く破れてなどいない綺麗なままだ。
――これは……一体なんなんだ? 俺は一体何を感じていたんだ?
不思議な体験だった。
まるで幻夢の中にでもいたみたいだ。俺は何がなんだかわけが分からなかった。ここで体感したベラトリックスにまつわる全ての事象が……幻?
近くのボックス席では女がすやすやと裸で呑気にまだ寝ていた。あの女とセックスしたことは……幻じゃなっぽいな……。だ、だけど、ベラトリックスのことは本当に全てが幻なんだ。そうじゃなきゃ、今俺が無傷でいる理由が見つからない。俺は気持ちを落ち着かせると、男にお礼を言った。
「ありがとう、部屋に戻るとするよ」
「おう、そうしてくれ、なんか怖いわ」
俺はボックス席からその場に立ち上がると、さっきは無限に感じられた壁までを足早に到達し、一度通った壁を逆に通り抜けて書斎へと戻り、そこから自分の部屋へと戻った。
ベッドに身を投げ出すと、どっと疲れが舞い込んできた。……なぁベラトリックス、お前は本当に何者なんだ……?




