welcome to underground⑦
俺の眼前には、パーティーらしい広い空間が広がっていた。
部屋の雰囲気はしっとりと落ち着いていて、灯りも沈み、ムードがある。まるでナイトクラブに来たかのような印象を俺は受けた。眼前では聞いていた通りにちゃんとパーティーが行われていた。噂はやはり本当だった。
そして、そのパーティー会場で行われている実態も、豪介と話していた通りのものであった。俺の眼前で繰り広げられているのは、誰もが考えるような子供も喜ぶようなパーティーではなく、男女が酷く荒い吐息で互いを貪り合い苛烈な匂いが空間を支配する、そうまさに乱交が目の前では行われていた。
だからだろうか、まるで鼻が拒絶反応を起こしているかのように、辺り一帯に漂う精液と血液のようなものが混じった強い刺激的な匂いが鼻を貫いてきた。確かに乱交のことも、豪介はちゃんと言っていた。だが実際にこうして目にしてみると、陽光に当たっている己の心の善良な部分が死んでいく感覚を覚えた。ここに長居してはいけない、そのような直感が強く俺を支配した。
足下の少し柔らかくなっている赤と黒色のチェック柄の絨毯は、まるで映画館のそれと似ている。俺の左手側ではソファーが沢山置かれていていくつものボックス席が見受けられた。そして右手側では、BARカウンターが存在していて、背後で男女が互いに身体を貪り合うその様相というのを音だけでいとも容易く想像できるような近い距離で、老人一人と中年の男二人が普通に酒を嗜んでいた。
こんな悪臭とも言えるような匂いが漂う場所で飲むだなんて、どんだけ美味いものでも不味くなるだろ。
俺は左手側のソファーで行われているセックスをできるだけ視界に入れないようにしながら、とりあえずBARカウンターの方へ行ってみることにした。
あまり席数がなく、俺は老人の男の隣りの端の席に座った。背後でセックスがけたたましく行われている音が聞こえる。でも音を聞く限り、この場にいる全員がセックスに興じているかと言われればそうではない。ボックス席で普通に会話をしたり異性を侍らせている人間の方が多いように思えた。
「見ない顔ですね、ここは初めてですか?」
BARのマスターらしき男が話しかけてきた。
「まぁそんな感じです。列車内よりも楽しいかな、と」
「皆さんそう言ってここに来ますよ。そして、実際にここは鬱屈とした列車内なんかよりも遙かに楽しいです。それではこれをどうぞ、初めてこのパーティーに参加する子羊には、こちらを提供しております」
俺の目の前に一杯のカクテルのようなものが出された。
俺はそのカクテルを見た瞬間、妙な寒気を覚えた。それが勘違いであってほしいという気持ちもあった。だが、確実に俺の感性は目の前のカクテルを警戒している。飲んではいけない、そんな気がした。
俺は出されたカクテルとマスターのニヤケた表情を何回か繰り返し交互に見た。これを飲まなくちゃ疑われるか……。
「飲まないのです?」
「いや、飲みますよ」
俺はそれを全て飲み込んだ。
瞬間だった。まるで別の生物の意識体が身体の中で蠢いているかのような強烈な違和感を俺は覚えた。俺はこの時刹那に理解した。如何なる理由があろうともこれを飲むべきではなかったと。妙な震えが身体を襲いはじめた。意識が朦朧としはじめた。自分の身体がまるで自分のものじゃないみたいに思えてきた。
…………。
……そしてそれから一分ほど俺は我慢を続けていると、突然、それまで覚えていた身体の異常は完全に消え去った。それが逆に怖くもあったが、とりあえず消え去ってからは、まるで何事もなかったかのように身体も感覚も大丈夫になった。
俺は気持ちを落ち着かせた。自己暗示のように、内心、大丈夫、大丈夫と唱え続けた。
しばらくすると、再度男が女を蹂躙するかのような鋭く重いセックスの音が聞こえてきた。
それに何故だか安堵感を覚えた……。俺はもう、この空間に飲み込まれているのかもしれない。そうしてしばらくの間セックスの音に耳を傾けていると、老人を隔てて自分の隣りの隣りに座っている中年の男二人組の会話がやけに耳に入り込んできた。まるで、話し言葉が目に見えない液体となり、俺の耳を目標に入り込んできたかのように。
その内容自体は別に俺からしたら何も新しくない内容だった。
二人の中年の男がしていたのは『列車内にはたった一つの一人部屋がある』という噂についてと『そしてその欠けた一人部屋を作った張本人は列車内とは違う世界で生きている』ということについてだった。
なんだそんなことか、そう思いながらも俺は男達の会話に耳を傾け続けた。
「なぁ知ってるか? このパーティーを主催しているミルキー・ベインっているだろ? 実はそいつは表の主催者で、実際には別の人間が裏には居るっていう噂、お前知ってるか?」
「いや知らねぇなぁ。その裏に居るかもしれない真の主催者って一体誰なんだ?」
「噂話程度だがよ、そいつは列車内に唯一存在する一人部屋を作り出した張本人だっていう噂だぜ。本当かは知らねぇが」
「ほぉん。そうなんだ。でもまぁ確かに、どんな場所にも例外中の例外ってのはいるもんだもんなぁ。別になんらおかしい話じゃねぇな。まぁ噂話なんてどうだっていいや、俺達も女喰いに行こうぜ」
「そうすっか」
男達が背後のボックス席の方へと立ち上がる音を最後に、俺は目の前のBARカウンターに意識を戻した。
しばらくすると、隣の席の老人が話しかけてきた。
「お前、その本どこで手に入れた?」
「本?」
俺は突然のことに若干戸惑いを覚え唖然としていると、老人は俺のパーカーのポケットを指さしてきた。
「そこに入ってる本だよ」
俺は本をカウンターの上に取り出し、老人へと見せた。その本のタイトルは『無菌室』。胡乃葉が俺に渡してきた本だ。
「どこで手に入れた?」
老人の鋭い口調に――なんなんだこの爺さんは……。と思いながらも、たじたじになりながらも正直に答えることにした。
「どこって……同居人の女の子がくれただけ。その女の子がどこで手に入れたのかは部屋に帰って訊いてみなきゃ分からない」
「そう……か……。じゃあついでに訊くが、この本についてお前さんは特に興味もないということだな?」
何を知りたがっている? このジジイ。
「別に興味も関心も俺にはないですよ。というか、人から貰った本にはあまり興味が湧かない性格なんです」
「そうか……なら別にお主にはもう訊かん」
「これって、一体どんな本なんですか?」
「読めば分かるだろう」
「そりゃそうですけど、そんなにこの本に興味があるような素振りを見せられたら、興味のひとつくらい湧きますよ。読めば分かるっていうのも確かに正しいですけど」
老人は少し口元を歪ませた。口元は次第に硬く歪んでいくが、何か判断がついたのか、歪んだ口元を戻した。
「この本によって壊された人間は数多くいる。壊されたというか、魅入られたとでも言うべきか。この本を読むということは、この著者の心を覗くという事でもあり、この著者の心を覗くと同時に、また本を読んでいる自分の心を覗かれているようなそんな不思議な感覚に苛まれる本だ。深淵を覗くとき、また人間も深淵に覗かれている、そのことを思い出させてくれる本でもある。まるで命のやり取りをしている気にもさせてくれる。それを聞いてもなお、壊されない自信があるのであれば、この本を読むといい」
老人はそれだけを言うと、どこかへと歩き出して行ってしまった。
――一体なんだったんだあのジジイ……。
俺は『無菌室』を再度パーカーのポケットに納めると、このパーティーから無事にちゃんと部屋へと帰れたら、この本を読むことに決めた。
俺はこれからどうしようかと考えた。
心が死んでいく感覚を覚える環境に己の身を置いておくことに危機感を感じていた。精液と血液だけじゃない、何と何と何が混ざり合ったのかも見当もつかないような悪臭具合に――俺はふと、意識を失いかけた。いや……これはただの匂いの問題じゃない。意識が朦朧と……。なんだろう……思いつくのはさっきのカクテルくらいか……。
俺の意識は希薄化しはじめた。ただでさえ何が起きるか分からない、俺にとっては敵地とも言えるようなこのパーティー会場で意識を失うなど、自殺行為同然だ。
それでも意識の希薄化は止まらなかった。意識はただの朦朧とした混濁から、カクテルを飲んだときにも感じた何か流体の意識体のようなものに乗っ取られるような感覚に変わっていった。そして遂には意識の手綱を手放した。
最後に感じたのは、コントロールを失った自分の身体が、BARカウンターに鈍い音を立てながら倒れ込んだ痛みだけだった。




