welcome to underground②
いつから時の止まっているのか分からないビルの内部は、まるでアズサが死んでしまったことを今一度思い出させるかのように生命力の消え失せたような静寂に満ちていた。
かつてもここは静かだった。けれど、この静寂をかつての俺達は求めていたし、この現実と非現実の狭間とも呼べる世界こそが、俺達にとっては手応えのある生き甲斐のある生きる価値のある現実だった。
だがどうだろう、ここの静寂を、これほどまでに悲しく感じた事はない。このGardenは自分自身と、そしてアズサと一心同体だから、やはりアズサが死んでしまったことによって、自分自身の持つ悲しみだけが反映されたようだ。
窓のカーテンの隙間から入り込む月光すら温かく感じる中、俺は停止しているエスカレーターを一歩一歩上がっていって、目的を果たす為の上階へと歩みを進めた。
このGardenには、かつてアズサとした約束が眠っている。どのような約束をしたかについては、実際のところ憶えてはいない。ただ、アズサと大事な約束をしたということだけを、しっかりと俺は自分の胸の引き出しの中に大切に保管していた。その胸の中の引き出しを開けてみようとも、約束の輪郭だけがまるで残り香のように残っているだけで、その実の部分まではやはり掴むことができない。だから、行ってみてのお楽しみだ。
「懐かしいなぁ」
どこもかしこも、アズサとの思い出でいっぱいだ。
だからこそ、この場所をこんな風に俯きながら歩く時が来るだなんて思いもしなかった。ここは、アズサとの思い出の場所。だからこそ、その思い出まで今のどしようもできない荒んだ気持ちに侵されてはならない。綺麗で額縁に入れて飾りたくなるくらい美しい思い出すら、汚すことになるかもしれないから、俺は俯くのをやめた。
視線は足下から上へ、俺は停止したエスカレーターの上がり切った先を見つめると、エスカレーターを上がりきった。そして、俺は眼を見張った。そこにあるのは現実なのか? 自分一人がいるだけの状況、それはこのGardenの暗く沈んだような初めて体感する雰囲気が物語っている。なおかつ元々不安定で曖昧なこのGardenにおいて、俺は目の前の事象が現実のものなのかそうでないのか全く分からなかった。
「なぁ……本当にアズサなのか?」
アズサが、目の前に佇んでいた。
いつも着ていた白いワンピースを着て、こちらを覗うような凛とした佇まいでこちらを見ていた。膝が折れそうになった。今立てているのが不思議なくらいに膝の力が一気に抜けた。
目の前のアズサが本物だろうと偽物だろうとこの際関係ない! 一度……もう一度だけ、君の温もりを感じたい……。そうしなければ生きている実感すら失いそうだ。それが何年続くかは分からないが、一度、たった一度だけハグをしてくれたら……俺はそれをちょっとづつちょっとづつ大切に、まるでカイロのように感じながら、生けるところまで生きてみるよ……。だからお願い、たった一度のハグを求めちゃ駄目かな……。
目の前のアズサはそんな俺の心情などどうでもよいのだろう。まるで精霊のような、この世のものとは思えないような軽やかな足取りでエスカレーターを上り上階へと上がっていった。俺は必死に縋るような思いでそれを追いかけた。
必死の思いで追いかけている途中で、色々なところをぶつけた。だがなんにも痛くない。痒くもないし痺れもしない、どれだけ青痣ができようとも、最愛の女性を失ったことと自責の念の痛みに比べれば、まるでそよ風。仮に、目の前のアズサが自分の脳が作り出す幻影だとしたら、今の俺はまるで全てが自業自得の自傷行為をやっていることになる。
それがどうした? あの日アズサを失った心の痛みに比べれば……そんなもの、塵に等しい。
「はぁ……はぁ……はぁ、待て……」
――どこまで俺を追いかけさせる気なんだ……アズサは……。
荒廃しているわけではないが、目の前のまるで精霊かのような軽やかな足取りのアズサを追いかけるには、このビル内には障害物と呼べる無機物が沢山あった。
「あいつ、もしかして飛んでんじゃねぇか……?」
精霊のような軽やかな足取りだなとは思ってはいたが、辛くも見失うことはない目の前のアズサの足下は浮いているように見えた。もうこの時点では、俺は目の前のアズサが、アズサではあるのだけれど自分自身が待ち望んでいる形のアズサではないことに薄々気がついていた。
あの足取りといい、アズサにはもう……ハグをして温もりを感じることなんて、できないのだろう。いや、いいんだ。……よくないけど……。全てを壊し、全てを突き放してきた俺にとっては、お似合いの顛末じゃないか。……そう、思っておく事にするよ……。人間は生き返らない。あれはアズサの形をした、精霊だ。本物のアズサじゃない……。……いや、それでも一回くらいハグくらいは……。
奔走は終了を迎えた。
荒んだ咳しか出ねぇが、なんとか……見失うことなく最後まで追いかける事ができた。
追いかけている途中に口の中に入り込んだ有象無象を取り出した後、俺は息を整え辺りを見渡した。
「で、ここはどこだ?」
その言葉に呼応するかのように、目の前のアズサは霧と化すかのように一瞬にして姿を消した。
――なんだよ……もうちょっと姿を見せていたっていいじゃねぇか。今だって愛してんだからさ……。
だけど、なんでだろう? 目の前でアズサが消えてしまったのにもかかわらず、俺の胸の中は、少なくともさっきよりかは霧が晴れたかのような気持ちになっていた。また、どこかで会えるような気がするな。
少なくとも、その時までは生きてみようと思う。ここまで愛してくれたアズサの為にも、生けるところまで、生きてみようと思う。そしてちゃんと死ねた時、そこで待っていてくれよ。
…………。
………………。
…………………………。
「さて……と」
俺は改めて、辺りを見渡してみた。ここは、ビル内部の一番上の部分にあたる場所。
もうこれ以上階段を上がってしまうと、屋上に出てしまう。ビルは一階からある程度の高さのところまでは吹き抜けとなっているが、このビル内部の最上階においては、これまでの各階層とは全く違う、どちらかというと個室が多く存在するような密閉的なエリアである。
そして、俺の目の前にはこれまで見てきたどの扉よりも重厚な扉が仁王立ちしていた。仮にここが会社であるならば、社長室の前に俺はいるということになるだろう。そのくらい他とは違う威圧感と覇気をその扉は持っていた。
アズサは、そんな扉の前まで俺を導いた。
やはりアズサとの約束は、この扉の中に――。
俺は息を整え、重厚な扉を開いた。だが、まだ足は踏み入れず観察をした。
月明かりだけが部屋を照らしていた。月の微量な光量では、部屋の奥がどのようになっているのかあまり見えなかった。俺は、それらしき所に辿り着けば、自分自身が仄かな輪郭として保っている、アズサから受け取った大事な約束というものが具体的にはなんなのかということが分かると思っていた。
だが、扉を開けてみると、逆である。逆に、謎は深まるばかりだった。
そして俺は、息を整え覚悟を決めて思い切って部屋に入った。
そしてすぐにこの部屋が書斎であることに気がついた。部屋の真ん中には大きなダークウッドの上質な机が一つ、机の上には上品な形で万年筆や卓上灯、そして『無菌室』と記されたタイトルの小説かエッセイか、そのような本が一冊だけ何故か置いてあった。しかも……ここはただの書斎ではなかった。
よく見ると、ここは、俺とアズサが好んだ本だけで構成された特別な書斎だった。本棚に並んでいるのは確かに俺とアズサが好んでいる本なのだが、記憶にはない。この部屋の存在自体が、記憶にはない。それに、『無菌室』というタイトル……何か聞き憶えが……。
どれだけ考えても、今は何も思い出せなかった。
俺は書斎全体からなにか手がかりのようなものがないか捜し始めた。アズサに導かれたその意味が、この部屋には必ずある。そしてそれは、俺が改めてこのGardenへ来た目標・約束とも同じはずだ。
それはすぐに見つかった。
それは、ダークウッドの上質な机の引き出しの中に丁寧にしまってあった。まるで、この引き出しの中にしまってから一度も動かされなかったのかと思うほどに、それから感じる温もりのような存在感は、鮮明であり感じるはずもないアズサの生々しさもあり、どこか畏怖の念のようなものすら感じた。
それは、一見何気なさそうに見える〝遺書〟と〝ペンダント〟と〝どこかへと行くことのできるチケット〟だった。俺は一つ一つ、手に持ってみて確認してみた。月光だけが現実を照らすサーチライトであるこのGardenであっても、遺書とペンダントだけは一目で確認できた。しかも、それがアズサの遺書であるということも、中身を軽く一目見れば分かる事だ。
ペンダントはまぁいいとして、問題は最後に確認した紙切れだった。その紙切れが手紙などとは違いチケットの形をしている事は手触りですぐに分かったが、詳しい内容まではこの暗闇の中では分からない。俺は机の上に一度全ての物を出してみた。それから引き出しを閉めると、椅子に座り、卓上灯の紐を引っ張り、カチッという音とともに卓上灯は灯りを醸した。そして、チケットの詳しい内容を読んでみた。
「ブエノスアイレス行きのチケット?」
――ブエノスアイレス? なんで? チケットがここにあること自体よく分からないが、何故にブエノスアイレスなんだ?
虚を突かれるとはこういうことなのだろう、頭が一瞬真っ白になった。
俺は一度そのチケットを机の上に置いて、しばらく考えた後、一旦チケットは置いといて遺書の方を目に通すことにした。本当だったら遺書なんてこの期に及んで読みたくもないものだ。だがここに導いてくれたのはアズサだ。読まないという選択肢があるはずがない。それに、読んだらブエノスアイレス行きのチケットの謎やその他の未だ知らないようなことを知る事が出来るかもしれない。俺は気持ち整えてから、遺書を開き、読んだ。
――ふむふむ、なるほど……そうか。
端的に言うと、アズサは生前、俺とブエノスアイレスへ旅行に行くことを密かに夢に思っていたようだった。だが、俺はアズサと勿論ブエノスアイレスへと旅行に行ったことはないし、そうでなければ今もそのような反応はしていない。
俺は更に遺書を読み進めていった。アズサの遺書は、前半の方は比較的ポジティブな、まだ生きられるのであればやりたかったことや、これまで楽しかった事についての記述が多く、この遺書は自らの病状が悪化するのと同時期に書いたのだろうか? 読み進めれば読み進めるほど、その遺書の内容というのもよりネガティブで鬱々としたものになっていった。
終盤の方になると、俺へ対する感謝の想いと、言われた通りに薬を手放した事を褒めてほしいという願望の文章で埋め尽くされていた。
――もっと褒めてほしい、もっと愛してほしい、もっと好きになってほしい――そんな気持ちが溢れる文章だった。
俺は愕然とした。
椅子に座っているのにもかかわらず膝から崩れ墜ちるような感覚に苛まれた。だが、不意に読んでしまった遺書の最後の文章は、それ以上に膝から崩れ落ちるような衝撃以外のなにものでもない驚きを俺に与えた。
〝――もし、できることならば、ベラトリックス・バグファイアというアメリカ人の若い男の人に、このペンダントを返してほしい〟
衝撃が心臓を叩きつける。何故……アズサの遺書からベラトリックスの名前が……?
俺は現実を受け止めきれなくて、椅子から鈍い音を立てて転げ落ちた。頭を強く打ったらしい、凄く痛い。だがその五倍も十倍も、いや何億倍もの現実が俺を攻め立てる。ベラトリックスと、アズサにどういう関係が……?
打撃武器で殴られたような痛みを頭に感じながら、俺はぼーっと虚を覗くような目つきで、天井を眺めた。
――ペンダントを、返してほしいだと?
じゃああのペンダントは元々はベラトリックスの物ってことかよ。
俺は無表情で天井を眺めていた。死んでしまったアズサから生きている自分への最後のお願い。……どうするか? もう答えなんて決まっていた。
「最後の約束、必ず守るよ」
一度ベラトリックスから逃げた俺はもう、ベラトリックスから逃げ続けることは許されないらしい。
だが、それでいい。いや……それがいい。下手したら、自分の命とペンダントを届けることはトレードオフになるかもしれない。別にそれでいいのだ。最後の約束、必ず守るよ。




