表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/77

悲しみの湖畔⑨

 アズサの薬を取り上げた手前、自分が精神に異常をきたして苦しみを覚えたことは因果応報なのかもしれない。


 自分はなんとかアイリック・カンザスエイト精神医療センターを短い期間で退院できたが、アズサはそうではなかった。アズサが死んでしまってから、自分はあの時アズサから薬を奪ってしまった事を激しく後悔した。アズサは自分に嫌われると思ってか処方された薬を飲むことを辞めた。一度薬を奪ってからは、自分が奪うまでもなく自分が望んでいるアズサの状態に、アズサはできるだけ近づこうとしていた。


 そうしていると、みるみるうちにアズサの精神状態は悪くなっていった。そして、最終的には自分と入れ替わりのような形で入院という結果になってしまった。


 自分が何か後悔のような感情を抱きはじめたのは、この時からだろうか。


 自分自身がどういう人間なのかも分からず、何をしているのか、何を感じているのかにも本当の意味では何も分からなかっていなかった当時の自分は、己だけならまだしも、最愛の女性まで様々な形で傷つけてしまうことになってしまった。


 それが本当にあった場所なのか、それとも我々が不思議と抱いていた共同幻想なのかは分からないが、アズサとの思い出を語る上で、Garden(ガーデン)のことはやはり外せない。そして、Garden(ガーデン)の中でも一番記憶に残っているのは、それはまさしくアズサが死んでしまう間際の、車椅子に乗って誰かに押してもらわないといけないほどまでになってしまったアズサと行った湖畔の事だった。


 アズサはとても素直な子だ。そして、何よりも自分に対して無条件の愛情を注いでくれた。それは間違いない。そんな事は自分が一番よく知っているのだ。だからこそ……アズサは、まるでそれがある種自分への当てつけかのように、自身の鬱病が進行してもなお、薬を飲むことを拒否し続けた。


 自分が一度吐いてしまった言葉、その言葉をアズサは素直に、そして忠実に守り続けた。鬱病が進行し、いや、自分が進行を進めたも同然だ。それは、車椅子に乗ったアズサをGarden(ガーデン)の坂を下った先にある湖畔に連れて行った当時から分かっていた。


 車椅子に乗ったアズサの後ろ姿がどんどん小さくなっていく姿や、今すぐにでも殺してほしいと懇願する姿に、自分がしでかしてしまったことの大きさを痛感した。勿論、アズサには何度も無理矢理にでも薬を飲ませようとした、だがアズサは徐々に失っていく感情の中で唯一見せた、死に物狂いの形相でそれを拒んだ。


 自分は、ただただ無力だった。


 自分は、無力さに泣いた。アズサの方なんて、もう泣けもしないのに。


 とある日に、アズサは〝最後のお願い〟と言って、Garden(ガーデン)の湖畔に連れていく事を求めた。


  最後のお願い――その言葉に、自分は否定も肯定もすることができなかった。その言葉を聞き入れた時の感覚というのは、まるで荒涼の地に吹く乾いた微風のようなもので、生と死、自分とアズサ、過去と未来のような、対極に位置する二つの混じり合うことのない純然たる事実だけを浮かび上がらせた。それと虚しさも。


 Garden(ガーデン)の坂を下った先にある湖畔には、様々な生物が住み着いている。淡水魚も海水魚も、綺麗な魚で自分達が好んだ魚であれば、全てが同じ湖畔の水の中に住み着いていた。自分がその中で好きだったのは鯉だったが、アズサはなんだったか……綺麗な魚ならば全て好きだと言っていたようなことを憶えている。


 最後のお願い――その言葉の通りに湖畔に連れてこられたアズサの表情は、いつになく柔らかかった。


 それは突然の事だった。


 アズサは突如車椅子を立ち上がって、湖畔の水辺の方へと歩き出したのだ。


 自分は焦りと驚きを同時に覚えた。それは、そんな気力もないはずなのに突然立ち上がって奇妙な行動をとった事に対してではなくて、もうこれでアズサとは一生さよならなんじゃないかとふと、心の片隅で感じたからだ。アズサは自身の白いワンピースの裾を軽く持ち上げながら、腰ほどの高さまで水が浸かるところまで行き、そこで一瞬立ち止まって。


 自分の方を振り返って呟くようなか細い声で言ってきた。


「今までありがとう、愛してるよ」


 アズサの身体は胸まで水に浸かり、そして首、顔の半分ほどまで水に浸かる頃になると、自分は目の前のアズサから微かに感じていた、微弱な生命反応をどこかに失ってしまった。


 何が起こっているのか頭では分からなくて、だけど心では確かに分かっていた。肉体的な自分はその心の正直さを誤魔化すかのように、そうして水面をベッドのようにして眠るように……死んでしまったアズサの身体を必死にたぐり寄せた。


 アズサの身体を抱きかかえると、自分は必死にアズサの胸元に耳を当てた。温かい……。アズサの心はなんて温かいのだろう。アズサの温もりの温かさはまだそこに残っていた。その反面、身体はなんて冷たいのだろうか……。湖畔の水よりも、遙かに冷たく、凍りついてしまったかのようなアズサの身体は、目の前の事を受け止めきれないでいた当時の自分にいとも簡単に現実を突きつける――アズサは死んだのだと。


 湖畔からアズサの骸を抱えてあがった自分は、もう一度、アズサの身体を強く抱きかかえた。


 これまで共に見てきた死んでしまいたくなるような辛い現実も、君がいたからここまで生きてこられたんだ。君がいなくなってしまった今、自分にはどんな都合のいい現実が目の前に現れてももう、生きられそうにない。


 自分はそう心の中で呟きながら、最後の抱擁を噛み締めた。


 湖畔の近く、我々の感情に影響されてその都度色を変える花が植わっている花畑がある。


 自分はそこに、アズサの骸を埋葬することにした。我々の感情によって色を変える花も、もう我々ではなくなってしまったためか、一度ドス黒い暗黒色になってから真っ白い神聖色に変貌を遂げた。自分はその真ん中に、アズサの骸を埋葬した。


 そして、綺麗に磨かれた平らな石と彫刻刀が都合良く足下に置いてあったから、自分はその磨かれた平らな石にこう記した。――『最愛の彼女、悲しみの湖畔にて眠る』と。



 ――これで、Twilight in the Roomで見つけた小瓶の中に入っていた滴によって導き出した、自分の記憶は全て思い出した。


 自分自身が自分自身という存在を思い出した時、もう怖いものなんてなにひとつ存在していなかった。だが、ただひとつ分からない事があった。


 自分達が生活している列車内(アイリッシュ)が、死後と現世との狭間の世界であるということは分かっているが、それが正しい表現かは定かではないが、何故自分は一度〝死んだ〟のか。死んでいないとしても、何故この列車内(アイリッシュ)に辿り着いたのか。


 記憶を完全に取り戻してもなお、それが、それだけがどうしても分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ