悲しみの湖畔⑦
とある日、アズサと自分は、閉館間際の人気のないショッピングモールに行ってゲームセンターなどで遊んだ。
たった二人だけでゲームセンターのゲーム――特に自分達はレースゲームの対戦を好んだ。店員に閉館だからと退店を促されるまで自分達はたった二人だけの時間を満喫した。
ショッピングモールから追い出されると自分達の居場所はゲームセンターから近場の公園へと変わる。その頃には日付が変わるほどの時間になっていただろうか。無我夢中で遊び、語り、そして愛し合っていたから、あまり明瞭に時間の感覚というのは思い出せない。
公園に辿り着いた自分とアズサがすることと言ったら、それは着地点の全くない会話の混じり合いである。そしてそれも二時間が経つ頃にはピッタリと止まっており、そうすると自分達はただ相手の温もりに浸る時間に移行する。自分達はそのようなことを毎夜のように続けていた。
人間の人生の中にどのくらい、自らが自由意志で選んだ本意的な時間があるのだろうか、と考えた事がある。その人間の価値や存在意義というものは刻一刻と絶え間なく流転し続け、時代が変われば意味も価値も正義も、全てが変わっていってしまうそんな中で、やはり純粋な思いとして自分は思う。人間という生き物は(自分も含めて)本当に自分自身の自由意志で人生を歩んできてはいないかもしれない、と。
だが、少なくとも、アズサとショッピングモールのゲームセンターに行った後に公園で温もりを感じる行為を毎夜のように続けていた時というのは、鬱屈と抑圧を感じていた頃の自分にとって唯一とも呼べる自由意志で掴み取った、正真正銘心の底から望む自分の人生だった。あの時の自分にとって本意的な時間というのは、アズサの温もりを感じている時しか存在しない。
時間というのは、人を夢想から現実へと引き戻すチャイムみたいなものなのだろう。自分は公園のベンチに座り、隣りに座っているアズサの香りに安らぎを覚えながら、左腕に付けていた腕時計をふと眺め、深い溜息をついた。時間が来た。家へ帰る時間が来た。ずっとこうしてアズサの温もりを感じることができればどれほど死への誘惑から逃れることができるのだろうか。
まあ、そんな事を考えても仕方がない。アズサにも、そして自分にも、予定がある。人生がある。自分は、惜しみながらも、ずっと離さないでいたいアズサの手を、ゆっくりと離した。 自分がそうしたのと同時、アズサが見つめてきた。
互いの手の中に生まれていた温もりが急速に失われていくのが分かった。すると急激に自分は外気がとてもつもなく冷たく感じられた。心の温もりも冷えていくのが分かった。自分は見つめてきたまま動かないアズサに別れ際、一度キスをしてから――一回じゃ満足できなかったから二回、三回、最終的には五回ほど口づけをしてから自分達は互いにそれぞれの帰路へとついた。
事件が起きたのは、その後の事だった――




