悲しみの湖畔⑤
泥に浸かるような睡眠から目醒めたのは、アズサという天使の気配が自分の近くから消え失せたのに気づいたからだった。
それまでとれていた意識の調和というものは一瞬で瓦解した。自分は体勢をしっかり起こすと、周囲を見渡した。車はどこかの駐車場に停止していた。雨音というのはまだ聞こえていたが、雨脚は自分の心の平穏を示すかのようにさっきまでと比べて小降りになっていた。
アズサはどこに行ったのだろう、そしてここはどこなのだろう。そんな気持ちでいっぱいになって、自分は思わず車を降りて小降りになった雨脚の中に身体を曝した。すると、大粒の雨が待ってましたと言わんばかりに身体を冷えさせ始めた。でもそんな事はどうでもよく、自分は辺りを見渡しているとすぐさま一つの看板が目に入った。
「アイリック・カンザスエイト精神医療センター?」
思わず、看板の文字を口に出してしまった。
昔は此処オクトーヴァーにも似たような精神医療センターは沢山あったが、様々な理由で――特に処方箋ドラッグによるオーバードーズの多発による厳しい行政指導によって、此処らの精神科を含んだ病院というのは殆どが潰れていた。それ以外には、此処ら辺では唯一と言ってよいほど大きい精神科のある病院ということしか、このアイリック・カンザスエイト精神医療センターについては知らない。恐らくアズサは目の前の白く無機質で血の通っていない病院の中に入ったのだろう。でも……何をしに?
考えても仕方がないと思い、自分は大人しく車の中でアズサを待つことにした。助手席のリクライニングを倒して、パーカーのフードを少し深めに被ったら目を瞑ってアズサが帰ってきたときにどう反応するかを考えた。そして自分は、そのまま起きることなくずっと寝て何も見なかったことにしようというところに着地した。(後から振り返ってみれば、この時の自分はアズサが精神を病んでいて薬に依存しているという現実を信じたくはなかったのだろう)。
十分ほどしたらアズサが車の中に戻ってきた。アズサは何かビニール袋のようなものを持って帰ってきているのが音で分かった。自分の意識はしっかり覚醒していたが、寝たふりを続けることにした。アズサはそのビニール袋の中に入った何かを見て嬉しそうな表情を浮かべたような気がした。直接的に見たわけではないが、確かにそのような表情を浮かべたと自分は感覚的に感じ取った。
「ねぇ、少しの間どっか行ってたみたいだけどどこに何をしに行ってたの?」
自分は思わず身体を起こしてアズサに訊いた。
でもそのとき直感した、訊かない方がよかったかも、と。同時に嫌な感覚を覚えた。それは、自分の感情が変な方向にスイッチが入ってしまった感覚だ。まずい、と表層部分の自分は思ったが、まるで理性に覆い被さる本能のように、深層の自分は表層の自分のコントロールを徐々に失っていく感覚に襲われた。こうなったら、もう自分でも自分を止めることはできない。
誰か……助けてっ。
自分はアズサが手に持っていたビニール袋を取り上げた。するとアズサは何故か溜息をついた。まるで自分のことを挑発しているかのように。
「喜比斗君……その眼怖いよ」
そんなことないだろ。
「……返してよ、それ」
「中身はなんなんだよ」
「薬だよ……精神を安定させる為の薬。喜比斗君に見せる為の自分を作り上げる為の魔法の薬。だから返してよ……」
「こんなものに頼るほどお前が弱い人間だなんて思わなかった」
「なんでそんなこと言うの……いつもの優しい喜比斗君じゃないよ……。たまに出るよね、凶暴な喜比斗君……」
「うるせぇよ」
「どうしたらいつもの喜比斗君に戻ってくれますか……」
「……こんな薬に依存する事を辞めたらいいぞ」
アズサは長い沈黙に陥っていた。どんな返答が返ってこようとも、この薬をアズサに返すつもりはない。
「……わかり……ました。わかったから、いつもの喜比斗君に戻ってください」
「おう」
自分は車のドアを開け、アズサから取り上げたビニール袋を外に投げ捨てた。
自分がドアを閉めると、アズサは深い溜息をついてきた。それが凄く気に食わなかった。まるでお前のせいで今私は凄く気分が悪くなってるんですと、言われているみたいだった。
自分はアズサの首を軽く絞めた。するとアズサは軽い嗚咽を上げた。首を絞めている自分の手をアズサが叩いてきて反抗してきたタイミングで自分は首を絞めるのをやめた。
別に本気でやってない、そういう遊戯だ。
「お前が好きなやつだろ」
「うん……好き……だけど、急にやるのはやめてほしいかな。――わ、分かったから、もう反抗も文句も言わないから、早くいつもの優しい喜比斗君に戻ってよ」
「じゃあしろよ」
「何を?」
「口で気持ち良くしろってことだよ。お前も好きだろ?」
アズサは虚空を見上げる挙動を見せた。お前が実際にどう思っていようとも、お前に選択肢を選ぶ権利はない。
アズサは自分のズボンに手を掛け、自分の方を見上げてきた。
「本当に言ってるの?」
「やれよ」
それ以降アズサと目が合うことはなかった。
アズサの口内に自分のペニスが受け入れられると、自分はアズサの頭を撫でながら、時折頭を押さえつけながら果てるその瞬間までアズサの口の中で抱擁を受けた。口内で受け入れられ舌で転がされる行為そのものはすぐに終わった。
そして、アズサが不機嫌そうな表情を浮かべながら再度車を走らせようとエンジンを入れ、実際に車が走り出したそのとき、自分はとあるふたつのそれぞれ大きく異なる感情を抱いた。
一つは罪悪感。だがそれはお父さんを殴った事に対する罪悪感ではなく、本性に覆い被され隠れていた理性が戻ってきた事によって感じ始めたアズサへ対する罪悪感。そして二つ目は、確かに記憶はあるものの、さっきまでの自分がまるで別人が乗り移ったかのように制御不能に陥ったという事実に対する恐怖。だが自分はその二つの感情の狭間を掻い潜るように、果てたことによる睡魔に勝つこともできずにそのまま睡魔に意識を持っていかれてしまった。
それからその後は別に特段何もなく、我々は帰路についた。
家にほど近い場所で目を醒ました。すると、寝起きの自分の方を、アズサはハンドルを強く握りながら一度チラッと見てきた。
勿論、目が合うことなどはない。そして当たり前の如く、会話もそこには存在しない。あぁでも、ただ一言だけあった。車が赤信号で止まったとき、アズサはハンドルから手を離し、一度深呼吸をしてからこちらを見つめながら、自身の口を拭う素振りを見せてからこんなことを言ってきたのだった。
「もう……いつも喜比斗はこうなんだから」
自分はそれに微笑を浮かべると、アズサの左手を手に取ってキスをした。




