悲しみの湖畔④
自分は、アズサがどこからともなく盗んできたという車の助手席に乗せられて、絶え間なく聞こえてくる雨粒が車の天井に当たる音とアズサの独り言に耳を傾げながら、車窓を眺めていた。
アズサが自分よりも一つだけ歳が上だからか、それともただ単純にアズサという人間がそういう優しい人間だからか、アズサは珍しく独り言を多く呟いていた。
自分から口を開くことはほとんどなく、アズサの独り言と雨粒が車の天井に当たる音に耳を傾げながら自分はずっと車窓の風景を眺めていたそんな中でも、ふつふつと湧き上がるような罪悪感を自分は感じざるを得なかった。貧困地区、オクトーヴァー。此処に生まれた意味というものが存在しているのだとしたら、それはアズサに出会う為だろう。アズサは自分の全てを肯定し、否定してくれていた。それが本当の許容であり抱擁であるとでも言うかのように。
受けた愛に理由など付ける必要なんてないのかもしれないが、少なくともアズサが自分に差し向けてくれた愛の全てが無償なものだった。愛の意味を会いたいにしてくれた彼女を自分は心の底から愛している。
自分は窓際に頭を乗せ、移りゆく車窓を漠然と眺めながらふと思い返した。それは少し前の出来事で自分はアズサにこんなことを訊いた事がある。
――なんで、そんなに自分のことを知っているの? と。
勿論、それは自分自身が話したからではあるが、でもそうではなく何故そんなに自分のことを想っていてくれているのか、それが不思議で仕方がなかった。朧気だけど、アズサはこう返してきたはずだ。
――それが私の定めでしょ? と。
そうかぁ……と、今一度自分は返答を受けた当時の気持ちを改めて噛み締めた。
そうした頃には、先ほどまで抱えていた罪悪感や頭の混乱、心の迷走というのは逆に驚くほどしっかりと落ち着いていた。目を瞑り深呼吸をし、気持ちが落ち着いた事を改めて確認したタイミングで、右耳から独り言ではない、アズサが自分に話しかけてきた声が届いた。自分は車窓から視線を外してアズサの方を見た。相変わらず可愛いと思った。
「喜比斗君、もしよかったら私に何があったのか教えて」
アズサは優しく包み込むように、心配そうな声で小さく呟いてきた。
そうかぁ……そう思いながら自分は背もたれに深くもたれた。赤信号で止まったタイミングで、アズサはこちらの方を見てきたから、渋々答えることにした。
「お父さんを殴った」
「そんなこと?」
「そんなことって酷いな」
自分は笑いながら言った。
「だって、喜比斗君がそんなことするのってあまり考えられないもん」
「それがどうしたら、そんなこと? っていう言葉に繋がるの? 流石に人を殴ることをそんなこと程度には思えないけどな」
「いや、ただ……喜比斗君なら何かちゃんとした理由があってのことなんだろうなぁ……って」
ちゃんとした理由ねぇ……比較的情を感じているお母さんの事を殴ったお父さんを殴ったこと……自分としてはその理由を自己を正当化するための妄想だとは思ってないけど、ちゃんとした理由になるのかな……。
「まぁ、確かにちゃんとした理由かもしれない」
「後悔みたいな感情は感じた?」
「まぁ、ちゃんと罪悪感みたいなものは感じたけど。でも、後悔みたいな感情は全くと言っていいほど……感じてないな」
「罪悪感を覚えるだなんてちゃんとした人間だってことだよ、喜比斗君は」
「そうなの……かな。まあでも、妄想の中で自分を必死に肯定して生きるよりも、ちゃんと現実で痛みを感じて生きてるってことを感じた方が自分としてはいいなって思う」
「そういうところ、凄く喜比斗君らしくて好き」
「ありがとう」
自分はアズサの方へ近づいてキスをした。
引っ張られたシートベルトがシュルシュルっと巻き戻る音が聞こえると、永遠にも感じられるほど長い赤信号が終わって、走り始める車の走行音がまた次第に聞こえはじめた。そしてまた、視線は車窓に舞い戻る。小ぶりだが嗜み甲斐のあるアズサの唇の味を、自分は口の中で広げ始めた。
まるで甘い葉巻のような味のする、口の中で転がし甲斐のあるアズサの唇の味を嗜んでいると、緊張が抜けたのか、どっと急激に押し寄せてきた疲弊によって、自分の意識は混濁に飲まれ、意識は夢の中へと誘われた。全てを洗い流すような雨音と、時折頭を撫でてくれるアズサの柔らかい手を感じながら。




