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悲しみの湖畔③

 とある日、それは、母親を殴った父親を自分が殴った日。その日のことを思い返すと、今でも肌の傷というのをありありと感じる事が出来る。


 母親を殴った父親を、自分は意識不明になるまで殴ったあの時、あの心に感じる気持ちの悪い感触に自分はいたたまれなくなった。


 目の前の現実は別に映画やドラマやSNSで観るのと同じような、世界のどこかで起こっている出来事ではなく、自分の拳で起こしたことなんだ。ふと冷静になってそう思うと、自分は無意識的にその場から逃げ出すほかなかった。あの時の自分を一言で言い表すならば、まだ人を殴るのに抵抗があった時、とでも言えばいいだろうか。それほどまでに、己の感情のままに起こした目の前の悲惨な現実というのは受け入れ難かった。


 人間は一度それを体験すると、二度目三度目はその行為に対する心理的なハードルがどんどん低くなっていく。殺人鬼であろうとも初めての殺人には抵抗を持つように、自分はこれからどんどん悪い方向に墜ちて行ってしまうのではないかと思うと、自分の心象はどんどん悪くなっていく一方だった。


 それが自分を正当化する考えかもしれないと思いながらも、自分は母親を殴った父親が悪いんだと何度も何度も自分に言い聞かせた。そう言い聞かせる度にどんどん心は不安定になっていくのをどこか感覚の片隅で感じ取りながら、自分は壊れたマリオネットのように無意識に反芻を繰り返した。どんな人間であろうとも、罪悪感からは逃れられない。


 自分にとってアズサが精神安定剤であると自覚しはじめたのは、この時からだろうか。


 父親を意識不明にまで追い込んだ後、自分はアズサとたまに会う公園に向かった。日付が変わる二時間前、人気(ひとけ)など塵ほども存在しない公園のベンチに鎮座して、自分は震える手をなんとかコントロールしながらアズサに電話をかけた。この時ほど電話のコール音が長く感じられた時はない。


 プルプルプルプルプル、プルプルプルプルプル、プルプルプルプルプル、プルプルプルプルプル、プルプルプルプル……。


「ねぇ、どうしたの?」


 聞き覚えのある天使の声が聞こえた。たった一言のアズサの声に、自分でも信じられないほど安堵感がやってきた。だが、聞こえてきたアズサの声は携帯から発せられたものではなかった。やけにクリアでリアルなアズサの声に、まさかと思い、自分は地面に向けていた視線を持ち上げた。


「何で……ここに……?」


 目の前の天使様の姿に、自分は思わず涙が溢れそうになった。


 自分は、目の前のアズサが傘を持っている姿を見て、初めて自分の知らないうちに雨が降りはじめていたことに気がついた。気がつけば全身が濡れている。ジトジト降りしきる、全身を重く刺すような雨。だがそれも心に降り注ぐ雨に比べれば冷たくも辛くもなんとも感じられなかった。


 アズサが自分の隣りに座ってくれて、ここに来るまでにも差していた傘の内側に入れてくれたタイミングで初めて自分の身体が冷えていることを体感した。それほどまでにアズサの体温は温かく、アズサという存在だけで自分の心は呼吸を取り戻した。アズサは自分の顔を覗き込んできながら何かを考えているように見えた。ふと、アズサは自身のポケットから未だに着信を知らせる為に鳴っている携帯を取り出した。アズサはその携帯の着信を拒否した。


「私はここにいるよ」


 自分の右肩に頭を寄りかからせたアズサの、重い現実を忘れさせてくれるような救済の匂いに、自分は思わず堪えていた涙を全て雨粒と共に流した。心の重荷が、だいぶ軽くなった……。アズサは頭を寄りかからせる事をやめると、深く俯いていた自分の顔を下から覗いてきた。


「またお父さんと喧嘩したの?」


 何も言わないし、何も言えない。


「雨は冷たいね。大丈夫? 寒くない?」


 その言葉だけで充分暖かいよ……。


「アズサこそ……大丈夫……」


「私は大丈夫だよ、だって喜比斗(きびと)くんと一緒だもの。でも、本当に冷たいね、雨。冷たいのは現実だけでいいのになー」


 そう言ってきたアズサは、再度自分の右肩に頭を寄りかからせてきた。


「ねぇ、一緒にどっか行かない?」


 耳元で囁かれた。


「どっかって……どこ?」


「どこでもいいよ、どこだって一緒ならば幸せだもの。なにをしても、何を食べても、どこにいても……私達二人が一緒ならばそれが幸せ。だからずっとここに居たいって言うのであればそれでも別にいい。でも、そしたら私風邪引いちゃうかもしれない。だから、そうならないように喜比斗(きびと)君が私を温めてよ」


 今の自分が誰か他人を温めるだなんて心情的にも肉体的にも不可能だった。そして勿論、こんなにも温かく優しいアズサの身体を冷え上がらせるわけにもいかなかった。自分はアズサが差している傘の外に出るようにベンチから立ち上がり、遅れて立ち上がったアズサが差す傘の中に入りながら言ってみた。


「どこか遠くへ一緒に行こう」。


 そう言うと、アズサは微笑みながら嬉しそうな表情を見せてきながら言ってきた。


「はいっ」

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