無菌室⑤
アミリーの部屋のドアをノックすると、中から人が出てきたがそれはアミリーではなかった。
それは屈強な男だった。恐らくアミリーの同居人であろう自分よりも遙かに大きい体格をしたその男は、見た目で人を判断することは出来ないと考えている自分であっても、確実に、気性が荒いハイエナのような男だろうということが分かった。
恐らくアメリカ人である男は、自分よりも背丈が高く、自分が華奢な体型と幼い見た目をしているということもあるが、遠目から見たら大人と子供ほどの体格があると思われてもおかしくない。男は高圧的な態度をとりながら、自分のことを見下すような目つきで見ながら言ってきた。
「なんか用か?」
そのときだった。
屈強な大男の隙間から、アミリーが顔を覗かせてきた。自分と目が合うと、アミリーは同居人の男の脇をかいくぐって男と自分との間に出て来た。自分は実際に二人の体格差を目の前にして、自身よりも遙かに体格差の大きい男と住んでいるということにあまり現実を飲み込めないような感覚を覚えた。
「どうしたの~?」
いつも通りの柔和な口調に、自分は己が何故ここに来たのかを思い出した。
「発現したんだ、自分の特異性が」
自分は小声で、だがしっかりとした芯のある声でハッキリと言った。すると、アミリーは表情をより柔らかくしたような表情をしてきた。
「二人っきりで話しましょ」
そう言われると、自分はアミリーに手を引っ張られどこかへと連れて行かれた。
一体どこに連れて行かれるのだろうかと思った。だって、この列車内には二人っきりで話せてなおかつ秘匿性が完全に保たれるようなプライベートな空間なんて、どこにもないのだから。本当に、ひとつとしてそんな場所は存在しない。引っ張られるがままにどこかに連れて行かれているが、だがその行動に不思議と迷いは感じられなかった。そこでアミリーに訊いてみた。
「どこに向かうか決まってるんでしょ? どこに向かってるのか教えてよ」
「え~? いや、まったく決まってないけど~?」
自分はアミリーを力一杯引っ張って止めた。アミリーは驚いたような表情でこちらを振り返ってきた。
「なんで? みたいな表情されても」
「だって~急に止められたんだもん」
「そりゃ止めるよ、行くあてもないのにどんどん列車の端っこに向かってるんだもん。先頭と最後方、端に近づけば近づくほど危険な人間が多くなって治安が悪いって教えてくれたのアミリーでしょ? ……まあいいよ、まあ、いい。……ん?」
「どうしたの?」
自分はふと、足下の床が気になった。
それは何ら変哲もないただの床。あまり綺麗ではない様々な靴底の味を覚えているただの床なのだが、自分は無性に足下の床が気になった。
自分にしか感じない感覚であることは分かっている。でも、確かに感じるんだ。それは何か熱っぽさのような感覚であり、最初はどこからそれを感じるのかは分からなかったが、しばらく意識を鋭くさせて佇んでいると、それがやはり足下の床の奥の空間から発せられていることが分かった。
自分はその足下の床の気になる部分を手で触れてみた。うむ、やっぱり温かい。ずっと触れているとやけどするとまでは言わないが、いつか手を離してしまいそうになるだろう。床から手を離し立ち上がると、アミリーが自分を不可思議そうに見つめていることに気がついた。
「ここの下、何か空間がある」
「どういうこと? 普通に考えたら、この下は地面だと思うけど……それも、ただの地面じゃなくて勢いよくパラパラ漫画みたいに高速で変わっていく地面が見えるだけだと思うけど」
「あぁ……そうだね。でも大丈夫、自分でも何言ってるのかあまり分かってないから。でも、確実にあるんだよ、この下に。下に広がっているであろう空間は恐らくそんなに広くはない、でもそんなに狭くもない。二人っきりで話すのにはもってこいの場所だと思うよ。それに――」
自分は、再度床に手で触れて奥の空間の情報をすくい上げた。
「うん、やっぱり大丈夫だ。生命の反応は感じられない。二人っきりで話すにはもってこいの空間だよ」
「本当に?」
「うん、本当に。少なくとも今は誰かがいるような空間ではない。これまでの間に誰かがそこにいたかどうかは実際に行ってみないと分からないけど。……本当は、ちゃんと落ち着いたときに言おうと思ったんだけど……でも、実際に体験してもらった方がいいと思う」
「何を?」
「自分が発現した特異性をだよ」
「……分かった」
少し不安そうな表情を浮かべているアミリーの手を自分は握った。とても柔らかく繊細な手だった。
アミリーの手を握りながら、もう一方の手で床に触れた。よしここだ――そのような確かな感触を手にすると、自分は目を瞑って意識を集中させた。練度不足が心配だが、一応全力でやってみよう。
心臓の鼓動、頭の回転音、列車の走行音、近くの部屋から聞こえる雑多話、様々な音が自分の内側からまるで、体内が真空になってしまったのかと思うほどに抜けていった。心臓の鼓動が緩慢になってくる。意識もゆったりとしてきた。自分はよいと思ったところで目を開くと、もう既に床に触れている指先は液状化した床の奥へと入っていた。そのまま意識を深めていき、そして同時に指先の高度も深めていった。すると、床の奥の空間に存在する何かしらの物に指先が当たった。自分はアミリーの方を一度振り返り言った。
「準備はOK?」
まあOKじゃなくとも行くんだがな。
「まぁ、いいけど…………いやごめん、やっぱりちょっと怖いかも! OKじゃない!」
自分はそう叫んだアミリーを勢いよく引っ張り、共に床の奥の空間へと潜り込んだ。
床の奥の空間――亜空間と言うべきだろうか――は、とても埃っぽい空間だった。
――できた……本当に通れた……っ! ……練度不足が心配だったけど本当にできた!
とても埃っぽく、人間二人が同時に滞在すると手狭に感じるほどの大きさの一部屋。自分は床に身体を投げ出されて倒れていたアミリーに手を差し出しそれを持ち上げながら、この空間に対しての結論を導き出した。恐らくこの空間は、書斎だろう。
「……凄い……本当に特異性を発現させたんだ! 壁や地面を無視できるっていうのがキビトの特異性なんだね」
「そう、これが自分の特異性」
そう言うと、アミリーと自分は一緒に何故だか笑い合った。自然と笑みが溢れてきた。
「ここは誰かの部屋なのかな」
「恐らくそうっぽいな。でも、この空間の外部に別の空間の存在は感じ取れない。だから多分この部屋には今自分達がしたように、この部屋の天井をすり抜けてこないとこれないと思う。つまり、列車内からしかアクセスできないということだね。でも、自分以外に物理的な障害を無視できる人間なんているのかなって思うし……不思議だね」
自分とアミリーは、この書斎らしき部屋の調査をした。
調査の結果、部屋の大きさは恐らく三畳ほどで、この部屋への正式なアクセス方法は分からないが、何者かがこの部屋を利用していた形跡があること、片側の壁一面に這うように存在している本棚の本の内容から、恐らくこの部屋の主は医療や科学について詳しく、中でも人体実験やシミュレーション仮説についての本ばかりが存在していた。
他には、何枚か大切そうに飾ってる手紙を読んでみたが、その内容から、恐らくこの部屋の主は男性であるということ、そして、アイリック・カンザスエイト精神医療センターと呼ばれる病院に男が執着をみせていることが、分かった。それ以外はただの普通の書斎であり、意図的かそれとも偶然か、男の素性を示すものが極端に少ないことを除けば、この部屋の主に不自然な点というのは見当たらなかった。
自分達は調査を終えると、アミリーは読書机の椅子に座りながら、自分は背を壁にもたれかかりながら色々と話しをした。
「あんな体験アミリーの長い長い人生の中でも初めてだよ~」
「長いって言ってもまだアミリーは若いでしょ」
「まぁそれはそうだけど……ねぇ、特異性を発現するくらいなんだから、記憶ってちゃんと取り戻せたの?」
「いや、完璧にはまだまだ程遠いって感じかな。でも、アミリーが今言った通りに特異性を発現させるくらいなんだから、完璧な目醒めは近いかもしれない。まだ、記憶の忘却された感触が残っているけどね。頭の中にぽっかりと大穴が空いてしまったような気持ちの悪い感覚が」
「じゃあ次は完全に記憶を取り戻すことが目標だね~」
「最初からそうだけどね」
自分は微笑を浮かべながら返した。
「完璧には記憶を取り戻せていなくても、少しの記憶を取り戻したりするときでも何かしらのきっかけって必要だと思うんだ。アミリーが記憶を取り戻した時も、強烈なきっかけがあって運良く記憶を完璧に取り戻すことができたの。ねぇ、キビトはさ、どんなきっかけを掴んで記憶を取り戻したの?」
アミリーの目を見ることをやめて、自分は考えた。
どんな表情で、どんな面持ちで、どんな言い方で、それを伝えるのがいいのか思考を巡らせた。
それは他ならぬベラトリックスのことであり、この書斎に辿り着いて少しばかりの時間の中で、頭の片隅にぽっと浮き出てきた一つの可能性のせいで、自分はアミリーにベラトリックスという男の存在と、その男と何があったのかという事を話すのを明確に躊躇っていた。
頭の片隅にぽっと浮き出てきた一つの小さな可能性というのは他ならぬ、ベラトリックスが己のテリトリーと列車内に自由に行き来できてしまう可能性のことで、ベラトリックスの特異性もまだちゃんとわかっていないからアミリーを危険に晒す可能性があった。それがとても嫌で嫌で仕方がなかった。
現に昨日、自分はベラトリックスの幻影を見ている。だから何が起こってもおかしくない状況だと思っている。もし自分がベラトリックスに殺されたりしても、別にそれはいい。ベラトリックスとの約束を破るという道は自分で選んだ道なのだから。でも、他者が自分が原因によって死ぬことがもしあるとすれば、正直に言ってそれは絶望以外のなにものでもない。そんな、アズサを失った時のような喪失感の感覚は、もう味わいたくもない。
自分は思案というものを甘くみていた。考えれば何か現状を打破する答えが出るのではないかと思った。実際にその答えは出た。答えが出た結果、自分は出た答えの数々に苛まれている。
けれど言うしかないと思った。可能性ばかり考えていても意味はない。考えすぎるくらいなら、自然と身体が考えるよりも先に出す結果を自らの選択として生きよう。危険に晒すことになった場合は、自らの命を以て許して貰おう。
自分は、これまであったベラトリックスとの数々の出来事を洗いざらいアミリーに話した。
ベラトリックスの誘い話に途中まで乗ったからこそ自分は記憶を取り戻す事が出来たのだと。それが自分の最初のきっかけであると。
アミリーの反応はシンプルだった。――そんな人は聞いた事がない、マスターを信じる事はやめておいた方がいいと言った手前、こういうのを自分が言うのはどうなのかと思うが、マスターと話した際にもそのような男の話をしたことはない――と。
書斎から列車内へと帰るときに、アミリーは言ってきた。
「疲れてるの? 何か思い詰めているような顔をしているよ」
「そんなに無精に見えるかな、自分」
「そういうわけじゃないけど、何か思い詰めているような顔してるな~って」
「いや自分は大丈夫だよ、ありがとう」
そう言うと、自分は来た時と同じようにアミリーの手を握り、もう一方の手の指先で今度は天井に触れた。液状化する天井の中を通って、書斎から列車内へと戻った。




