無菌室④
初めて壁を抜けた日のことは、ありありとした感触とともに手中と胸の中に収められていた。
Twilight in the Roomでのあの出来事自体もそうであるが、自分の中では壁を抜けたあのなんとも言えない体験というのは未だに脳裏にこびりついて離れない。それから短い期間しか経っていない中で、そこまで練度が上がっているわけではないが、気持ちひとつ次第で壁を――床を、物理的障害の全てを――無視できるということに自分はとても不思議な気持ちになった。
ベッドに寝っ転がり、虚空を見上げながら自分の手を何度もくまなく点検するかのように見つめながら自分はそんな気持ちを堪能した。もしかしたら今でもしようと思えばベッドや全ての物理的障害を通り抜ける事ができるのだろうか。仮にベットを通り抜けることができたとしても、逆に実体を捉えることができずに、この列車の床まで通り抜けてしまったら自分はどうなってしまうのだろうか? 普通に考えたらそうなったら死ぬだろう。
そしてもっと、特異性が最大限発揮されたらどうだろうか? 列車を抜けそのまま地面までも通り抜けてしまったら一体自分はどこに辿り着くことになるのだろう? …………いや、現実的には練度不足でちょっとした壁も通り抜けられないのがオチか……今の自分じゃ。
それでもまるで、今の気分は核のボタンを持っている大統領のような感じだった。いいや、自分自身が格のボタンそのものになってしまったのだ。それに、大統領と言えど決して核のボタン一つ押しただけで実際に発射されはしない。自分は格のボタンそのものになってしまったその上でそれを独断と偏見で気分ひとつで実行できてしまうのだ。気づかない方がいいこともあるというのはこういうことだろう。
どうしても自分の特異性を心の底から受け入れられる気分ではなかった。できる事なら誰かに話して物事の責任を一欠片でも軽くしてほしいところだった。いるじゃないか、そういう相手。明日の予定は決まった。アミリーに自分の特異性について話しに行く。
――翌朝、自分はいつも通りのルーティンを済ませて午前十時くらいにアミリーの部屋に行った。いや行こうとした。
だが部屋からちょうど出ようかというところで、自分は胡乃葉に制止をされた。何か面倒事にでも巻き込まれるんじゃないかと刹那的に思ったが、それは杞憂だった。胡乃葉はこれから自分がいつもとは違う何か特別な事をしに行くことは分かっているような面持ちだった。それを分かった上で胡乃葉は自分を止めたようだった。
「なに? 何か言いたい事でもある?」
「うん、一、二分だからちょっと聞いて。これなんだけど、今のあなたに必要かなって思ってさ。これは私が先に読んだ本なんだけど、受け取って」
本? 何故今更本なんかを?
「これくれるの? でもなんでまた本なんかを?」
「これはね、内容は自分で読んで確かめてほしいんだけど、最低限ストーリーテリングされたエッセイに近しいもので、何故だか分からないけど直感で今のあなたに必要だと思ったの。もしよかったら読んでみて」
「分かった、ありがとう」
多少ザラザラしたグレーの表紙の文庫本を胡乃葉から受け取ると、自分はそれを自分の二段ベットの二段目に置き、アミリーの部屋へ向かった。
何故今更本なんかを渡されたのかは分からないが、他人の直感というのは予想以上に当たるものだ。予兆、予感、自分自身で感じるものよりも、ある程度自分を否定的には思っていない他人が差し向けてくるそのような類いの感覚というのは、頼りにしていいものだと思う。でも何故、またこんなタイトルの本を渡してきたのだろうか。自分はそんなことを思いながらもまぁいいやと思った。今はアミリーに特異性を打ち明ける方が先だ。
本の表紙にはこうタイトルが記されたあった『無菌室』と。




