無菌室③
昼間の喧騒に満ち溢れている世界と、深夜帯の静寂と微弱な粒子だけが取り仕切るこの世界というのは、明確な差があるように感じてならない。
眠れないからそんな事を考えてしまうのか、そんな事を考えてしまうから眠れないのかは分からないが、自分はベッドを抜け出してから食堂車に向かうまでの短い距離の間に、そんな事を考えた。
食堂車にはいつも同じように人の姿は見受けられなかった。この時間はいつもそうなのだ。様々な人間の劣情を垣間見る事が、記憶の忘却に侵されている人間は恐らく朝起きてから夜眠るまで、この列車内で目を醒ました時から死ぬその時までずっと続くが、この深夜帯だけは何故だかそんな劣情の氾濫も治まっている。
自分はクロワッサンと温かい緑茶を頬張りながら、頭の片隅に残っていた考えの続きを紡ぎ始めた。
それは昼間と夜における日常と非日常性についてだった。この列車内では、何故だか夜になると人の動きが極端に少なくなる。部屋に籠もってそれぞれ思い思いの時間を過ごしているとも言えるが、意識が覚醒している人間の気配というのが何故だか感じられなかった。
人間は勿論夜になると大抵の場合は睡眠へ誘われる。だが列車内で生きる劣情を抱え――この近くの車両付近ではほとんどいないが――四六時中どこかしらでトラブルを起こしてしまうようなアンモラルな意識の人間達が、夜になった途端に〝いい子ちゃん〟になるだろうか? セックスの匂いや合法非合法問わない薬の匂いというのはこの列車内においては感じない時間の方が短いだろう。セックスをするにしても薬に溺れるにしても、大抵の場合はそれは昼ではなく夜に行われるのが常というものだ。だがそのような動きというのはほとんど感じられない。
そこで自分はふと思った。もしかしたら、この世にはロボットのようにプログラミングされた範疇でしか生きられない人間と、人間らしい人間である、ルーティンに使役されない日々新鮮を探し出しそこに人生を見出す二種類の人間が存在するのではないか? と。
別にどちらが劣っているだとか優れているだとか、そういう事を言いたいわけはない。ただ、少なくとも自分は後者側の人間であり、安定なんざには興味がなく日々絶え間なく変わり続ける世界を自分自身であると捉えた方が生きやすい人間である、ただ、それだけだ。
それは、自分が豪介から貰ったチラシを見つめながらお茶を啜っていたときだった――
自分は、己の目を疑った。
突然、目の前にベラトリックスが現れたのだ。
自分は思わず椅子から勢いよく立ち上がった。
パリンッ! と物が割れるような音が聞こえた。足下を一瞬見るとさっきまで手にしていた緑茶が注がれていたカップが割れていた。でもそんなことは今はどうでもよかった。自分は明確に格闘ポーズを目の前のベラトリックスに向けてとった。目の前のベラトリックスは何も発さずに、ただまじまじと自分のことを見つめていた。まるで幻覚でも見ている気分だった。
いや、実際にそうなのかもしれないと思った。自分はそこまで頭がこの列車内での生活で毒されてしまったか?
ベラトリックスはゆっくりと自分の方へ歩み寄ってきた。身体の緊張が加速度的に高まるのが分かる。ベラトリックスが自分の方へ歩みを進める度に、自分も一歩後ろへと後退をした。様々な疑問が頭の中に一瞬生まれ、高揚感の中へ霧のように消えていく。後退を続ける自分の身体は、とうとう隣の車両へと繋がる扉へとぶつかってしまった。
けれどどうしてだろう、恐怖という感情は抱いているのに、何故だか目の前のベラトリックス自身には恐怖を感じなかった。もしかしたら、これは本当に自分が幻想に侵されているだけなのでは……。ベラトリックスとの距離はどんどん縮まっていく。ふと頭の中に生まれた砂時計がじりじりと、焦らず、だが急ぎ足で時を刻んでいる様子というのがイメージできた。
まるで命が削れていっているみたいだなぁ――
何を呑気に! ともう一人の冷静な自分はツッコミながらも、素直にそう思っている自分もいた。そのときだった。突然、ベラトリックスから少しでも距離を取るために背中をべったりと押しつけていた扉が開いた。自分は拍子抜けした声を上げながら全身が床へと叩きつけられた。すぐさま立ち上がり辺りを見渡すと、すぐそばには胡乃葉が居た。胡乃葉は心配そうな目――いや一歩見方を変えれば憐れみを向けているような目で自分の事を見ていた。
「大丈夫?」
呟かれた胡乃葉の声はやけに酷く優しく聞こえた。
「うん、大丈夫。ああ、ありがとう」
服に付着した埃を手で払ってくれた胡乃葉に言うと、自分は思い出したかのように食堂車に入って三百六十度全ての方面に意識を渡らせた。
「何をしているの?」
「いや……なんでもない」
「なんでもないじゃないでしょ。なんでもあるじゃん」
「本当になんでもない…………はぁ、はぁ……よかった、あれは幻想だったんだ」
安易な自己完結と言われてもそれでいい。今の自分はあれを幻想という事にしておかないと、心が落ち着かなかった。でも、もしあのベラトリックスが本物で、この列車内にベラトリックスが自由に出入りできるようだとしたら……いや、それを今考えるのやめておこう……。
「というか、胡乃葉こそどうしたの? こんな夜中にここに来るだなんて。もしかして起こしちゃった?」
「いや、そういうわけじゃないから大丈夫。ただ、なんだか眠れなくて何か身体を生き返らせてくれるものを飲みたいと思っただけ。あなたの方こそ、何でこんな時間にここにいるの?」
「胡乃葉と同じような理由だよ」
いや若干違うが若干同じだからいいだろう。胡乃葉もうんうんって納得して頷いているし。 それから自分達は共に身体を温めた。温かい飲み物と、それから会話によって。
胡乃葉はミルクココアを飲みながら椅子の上で胡座をかきながら言った。
「あなたと暮らし初めてもうすぐ三ヶ月くらい? もうそんなに経つんだね。三ヶ月くらい経つっていうのに私達そんなに腰を据えてまじまじと話したことなかったでしょ? ……だからあなたは私のことを知らないし、私はあなたの事を知らない。だから、あなたのこと教えてくれない? ねぇ……子供の頃、どんな子供だった?」
どんな子供だったか? それはこっちが知りたいくらいだ。幼少期のことなんてほぼほぼ思い出せていない。だがそんな状況においてもただひとつ明確な感触として分かることがある。それは、自分が自身の幼少期の記憶を取り戻すことに対して消極的な感触を覚えてならないことだ。別に思い出す必要を感じないというか、やっと忘れることができたというか。記憶の忘却をされても頭の中に残っている確かな記憶の輪郭だけを捉えても、無意識的にそう思う。だから自分はこう答えた。
「不思議なことに、自分には子供の頃というのがないんだ」
「どういうこと? あまり憶えていないっていうこと?」
「まぁそれもあるし、でもそれよりかは自分の中で、あまり思い出したくない記憶が多いってことなんだよね。だから、自分からした自分の子供の頃なんて、存在しないも当然というか……」
「そっか、分かった。つまりキビトは私に似ているってことね」
「そうなの? じゃあ訊くけど、逆に胡乃葉はどんな子供だった?」
胡乃葉はミルクココアを一啜りして、口の中に広がって徐々に消えていく風味を堪能したような素振りを見せた後に、重い腰をやっと持ち上げるかのような緩慢な口調で言った。
「母親に、貴方の父親にコンドームを付けさせるべきだったと、直接言われてしまうような子供よ」
「……そうか」
それから、自分達の間に会話らしい会話というのは一切交わされることはなかった。




