無菌室②
自分は、どうしても部屋に帰ろうとは思えず、たった一人だけの静かな場所で落ち着きたくて八号車にあるラウンジへ行くことにした。
自分の部屋が十一号車にあり、十号車に食堂とBAR、九号車にシャワールームと売店がある事を考えると、ラウンジはこの列車内で一番遠い場所と言えた。その他の号車は全て二人部屋な為、自分が常日頃から行く可能性がある一番遠い号車が八号車だった。
ラウンジのある八号車への扉を開け中に入ると、自分の目の前に二つの大きなソファーが飛び込んできた。人は誰一人いなかった。自分は二つある大きなソファーの内の一つに腰を掛けた。ラウンジは、なんら他の号車と特に大きく変わった点はなく、強いて言えばBARほどではないが小さなBARカウンターが一つ部屋の隅に存在しているといったくらいか。だが、今の深夜四時という時間帯が時間帯だからか、部屋の隅に追いやられているようなBARカウンターにも人影は全くない。というか、BARカウンターが使われた痕跡がぱっと見では見当たらなかった。
部屋に居たとしても、いや、列車内であればどこに居たとしても基本的に静かではあるが、この時間帯ならとっくにもう胡乃葉は寝ているし、自室だって勿論例外なく静かではあるものの、眠っている胡乃葉の寝息が気になったり大きな物事を立ててはいけないとか、まあ色々と制約があるからラウンジは自分にとってはぴったりの場所だった。
自分は目を瞑って、意識を現実から切り離した。それからどれほど時間が経ったのだろうかと検討もつかないほど長時間、自分は目を瞑っていた。一度切り離した意識を現実に接続し直すと、自分は周囲をきょろきょろと見回してふと、食堂車にあるBARへと続く階段のように、部屋の隅にラウンジの上階へと続く階段を発見した。
試しに行ってみるか――そう内心呟きながら階段を上ると、自分は思ってもみないような場所へ辿り着いた。そこは、丸いドーム状の一面ガラス張りの天井の――自分は、上がりきったところの壁に設置されているプレートの文字を読んだ。
「展望室、か」
展望室に辿り着いた。展望室は、ラウンジ同様誰も人はいなかった。
展望室は、パッと見て分かる通りに丸いドーム状のガラス張りの天井になっているが、そのガラス張りの天井からは綺麗で匂いすらすぐそこに感じ取れるくらい辺り一面に満面に広がっている星空を観ることができた。自室のベッドで横になりながら星空を四角い窓というフィルターを通して観ることは常々だったが、こんなにも臨場感と立体感のある、まるで手を伸ばせば触れる事ができるのではないかと思ってしまうほどの星空というのは初めて観た。
展望室には、背の比較的低い女性や子供ならばすっぽりと覆われてしまうほどのクッションの敷かれてある木製のチェアが六つほど存在していた。それぞれが車窓風景を楽しめるように窓の方を向いている。自分は列車の進行方向の右側を向く一番奥のチェアに座った。
身体がすっぽりとクッションに覆われる感覚に今すぐにでも意識は夢の中へと誘われそうになった。心地よさを感じながら、自分はいつもとは違った角度からの車窓風景を楽しんだ。車窓風景とは言っても、真夜中を切り裂く列車から見える風景なんて満天の星空以外に他はないのだけれど。
自分はぼんやりとした意識の中で現実のものなのか非現実な空間でで体験したものなのか区別がつかない記憶を反芻していると、やはり、こんなときであろうとも頭の中に浮かんでくるのはアズサのこと、そして何故だかベラトリックスのことだった。
その二人のことで頭の中の九十パーセントは占められていた。その中でも特に、ベラトリックスに関する事の方が頭の中を埋め尽くしていた。
――愛しの女性のことよりも、自分の事を殺そうとしてきた男の方で頭がいっぱいか……。どうしようもないことだけど、嫌な気分にもなる。
自分はふと、ポケットから一つの小瓶を取り出した。それは他ならぬ暗室にてベラトリックスから逃げた後、辿り着いた先のTwilight in the Roomのとある一つの部屋の中で見つけた小瓶だ。自分はこの小瓶を、この列車内に戻ってきてから肌身離さずずっと持っていた。
この小瓶によって、自分は全てを変える気がする――自分はなんとなくふと思いながら、手に持っている小瓶を色々な角度から見回したりした。うん、別にどこからどう見たってただの普通の小瓶だ。でも、この普通の小瓶からただならぬ引力をやはり感じる事も、またひとつ事実なのだ。
もし、この小瓶が自分の記憶の断片そのものであれば、あのTwilight in the Roomの部屋にあった大量の小瓶達は、大量の人間の記憶の断片ということになる。勿論その中に、自分の記憶の断片もあるだろう。あんなに小瓶があったんだ、無いわけはないだろう。理想を言うなら、このただならぬ引力を感じる小瓶の中身によって全ての記憶を取り戻すことが勿論理想だ。
だけど――軽い溜息を吐いたあと、自己暗示や反芻をするかのように自分は呟いた。
「この小瓶がもし自分の記憶が入っている小瓶だとしても、アイツがわざわざ一つの小瓶に全ての記憶を詰めておくかなぁ……。アイツだったら盗まれることも込みで複数の小瓶に記憶を断片として分けてそうだけど」
自分は、誰かがラウンジからこの展望室に上がってくる音に気づいた。
そして、自分がその音に気がついて階段の方を軽く振り向いた頃には、一人の男が階段を上がりきってすぐそこにいた。自分は階段を上ってきた男の方を一度ちらっと見た後は、もう男の方を向くことはなかった。男は、自分の隣りの隣りのチェアに腰掛けた。どうせならもっと遠い所のチェアを使ってほしいと思った。
自分は目を瞑って自分だけの静寂を取り戻す事にした。目を瞑って少しする頃には、心地よい列車の走行音と微振動が自分を包み込んでいた。
男からは何か、チラシでも読んでいるのかと思うような音が聞こえてきた。すると、男は突然自分の背後から話しかけてきた。その言葉はまるでナイフでも刺されたかのように思えた。
「やっぱりそうだ、お兄さんも日本人なんですね」
自分は最初は無視しようとした。だが、目を閉じていても分かるその視線の鋭さに、自分は負けるように目を開いて男の顔をちゃんと見つめながら返答した。
「そうですね。まあ自分は日本人ですけど、今お兄さんもって言いましたか?」
「はい。でも突然声をかけて申し訳なかったですね。すいません。まさか自分と同じ日本人を見つけることができるだなんて思ってもみませんでした」
自分は嫌悪感を覚えた。面倒臭い、と内心正直に思った。
だが、男の表情に悪意や他意はなく、ただ純粋に自分と同じ日本人に会えてよかったと思っていることは事実なようだ。改めてしっかりと男を捉えると、男の図体がパッと見たときよりも遙かに大きいことに気がついた。男の筋肉はしっかりと鍛えているのが分かるほどに発達していて、自分なんかと比べたら本当に大人と子供ほどの違いがあるように思えた。
「そうですね、確かに日本人はこの列車内では異様に少ないですよね。日本人というか特にアジア人が」
アジア人、その言葉は自分から不意に出たものだった。馴染みがある言葉だったが、自分は『アジア』という言葉の意味が思い出せそうで思い出せなかった。だけど記憶をほんの少しだけ取り戻したからか、その言葉に対する感覚は、何もかも記憶の忘却によって忘れ去ってしまっていた時と比べたら遙かに明瞭なものとなっていた。だが、未だ不明瞭である。
「そうなんですよね。僕が知っている日本人なんて、食堂車で一回だけ見かけたことのある若い女性ただ一人だけですもん」
多分胡乃葉のことだろう。だが、自分は胡乃葉と同室で暮らしているという事を言わないことにした。ただただ、面倒臭くて堪らないからだ。
男は何かを思い出したかのように口を開いた。
「ごめんなさい、下柳豪介と申します、豪介って呼んでください」
そう言うと、豪介は握手を求めるかのように片手を前に差し出してきた。自分は渋々その手と握手をすると、今度は自分が名乗った。
「へぇ、キビトさんですか、珍しい名前ですね」
そう呟いた豪介は、それから訊いてもないのに自身の年齢が二十三歳である事を告げてきた。
自分は思った――ただ同じ人種というだけでこんなにガツガツ他人とコミュニケーションを取れるものなのだろうか? と。だけど、別に豪介に他意みたいなものは本当に感じられなかったし、色々な会話をしていく中で豪介の性格がそのような〝陽気〟な性格なのだと自分は理解した。
自分は、一人でぼーっとリラックスしたくてこの展望室に来たものの、いつの間にか渋々始まった豪介との会話に良い意味でのめり込んでいた。普段、胡乃葉やアミリーやノイジーとはできないようは会話を豪介とはすることができた。様々な会話を我々はした。それは日常的なことからこの列車内での生活のこと、そして真偽不明の噂話に至るまで、多岐に渡る話題で我々は盛り上がった。
――くだらないことやしょうもないことを言い合える相手って必要だな。
豪介との会話の熱も徐々に冷めていこうかという頃合いで、自分はこれまでの長い会話の中で話に出すことのなかった、豪介が持っているチラシのようなものについて尋ねた。それには何が書かれているのかと訊くと、豪介は少しだけトーンを落とした低く潜るような口調で、周囲に自分達以外の誰も居ないことを改めて確認した上で、呟くように言ってきた。
「パーティーの告知のチラシだよ」
「パーティーの告知?」
「ああ、そうだ。でも、僕は参加しないつもりだよ」
「なんで?」
豪介は少し真面目で硬い表情で言ってきた。
「パーティーと言っても、これは子供が楽しめたり大勢の人間を集めて開催するような典型的なパーティーではない。この列車内に子供はいないけど、どちらかと言うとこのパーティーは大人向けだよ。皆とは言わないけど、結構な数の人間がこのパーティーに参加して、日頃の生活で溜まったストレスや疲れを快楽で消していくんだよ。ここまで言えば、このパーティーが危ないパーティーだっていうことはなんとなく分かるよね? そしてこのパーティーでどんな事が行われているかということも」
「つまり、乱交パーティーってこと?」
「皆まで言うな」
「……で、でもさ、そんな結構な数の人間が参加するパーティーができるような場所なんて、この列車内にはないと思うんだけど。どこでやるの?」
「さあ? それは分からない。ただ、聞くところによると、この列車内以外の場所で暮らしている人間がいるらしくて、その人間が自分のテリトリーに列車内で暮らす人々を呼んでパーティーを行っているらしい、みたいなことは聞いたことがある。噂話の域を出ないけどね」
「本当にこの列車内以外で暮らしている人間がいると豪介は思う?」
「いやぁ……どうだろう、分からないけど、そういう人間がいて列車内以外の異空間的な場所でパーティーは行われていると言われた方が、事の辻褄は合うんじゃないかな。あんまり信じてはいないけど……」
「……そっか、分かった。このチラシ貰っていい?」
「いいよ、ほら」
「ありがとう」
豪介からチラシを貰うと、色々な話ができて本当に楽しかったことを言い伝えてから、自分の部屋に戻った。
豪介の言っていた〝噂話〟。そんな噂を立てはじめた人間がアイツの事を知っているかは分からないが、火のない所に煙は立たないのと同じように、自分は噂話の内容が大部分は本当だと思った。豪介が話していた噂話の〝この列車内以外の場所で暮らしている人間〟というのは、恐らくベラトリックスだろう。いいや、恐らくではなく絶対にそうだと言えた。
ベラトリックが主催しているパーティーか……どんな所なのだろう。まあでも、暗室やTwilight in the Roomのような〝異空間〟で開かれている事はまず間違いないだろう。豪介も言っていた通りに、この列車内は思ったよりも狭いし隠れて何かをコソコソできるような場所は存在しない。
パーティーなんて俗物がやるものだと思っているが、自分はハッキリ言ってそのパーティーに興味が湧いていた。勿論、それはベラトリックスという人間に繋がるきっかけになるかもしれないからだ。絶対そのパーティーに潜入するとは言い切れないが、興味を抱いていることは事実だった。
暗室やTwilight in the Roomを含む〝異空間〟の秘密を紐解ければ、今はノートパソコンの中のファイルが消されていてできないでいる〝暗室にいつでも入る〟という行為もできるようになるかもしれない。そして、暗室にいつでも入れるようになればそれは即ちTwilight in the Roomに存在する小瓶達を全て回収できるということでもある。
まあどちらにせよ、自分の記憶を取り戻すという目標の為に、いつもとは違ういいアプローチになりそうでやって損はないだろう。




