無菌室
自分はシャワールームに行った。Twilight in the Roomから帰ってきた自分は汗をびっしょりとかいていた。
自分の特異性を使い、ノートパソコンのファイルの中の世界に行って帰ってくることはこれまでにも何回かあったわけだが、今回みたいに汗をびっしょりとかくようなことはほとんど無かった。あっち側の世界から現実に帰ってきた時、凄く疲労感を感じた。
だからそういう意味でも自分の中ではあっち側の世界もこっちと同じく〝現実〟だ。あっち側の世界とこの列車内との違いは感じられない。あっち側の世界とこの列車内の世界、両方とも地続きで繋がっている現実のように思えた。
自分はそんな事を考えながら温かい細かなお湯を頭から被った。
ここ一週間ほど、自分の身の回りでは様々な事が一堂に起こったが、そんな中でも今の自分の頭の中に大きくあるのは死んでいった世界で一番愛した女性のことだった。あの湖畔の前のベンチで鈍器で殴られたような鈍い痛みを覚えて思い出したあの記憶の中の女性――アズサのことで、ベラトリックスとの取っ組み合いの時も、その後のTwilight in the Roomでの色々の時もアズサのことで頭がいっぱいだった。
何故アズサのことを忘れてしまっていたのだろうか。自分達がどのように一緒に過ごしていたのかは未だ思い出せないが、アズサのことを大切にしていたその気持ちだけはありありとした感覚としてちゃんと胸に残っている。
自分はいたたまれなくなって、お湯に当たりながら目の前に壁に頭をぶつけた。
――こうしてアズサに関する記憶がなにか一つでも思い出せればいいのに……。
痛みなど感じなかった。それよりもいたたまれない前よりもハッキリと胸に覚えた空虚感の方が自分にとっては遙かに痛かった。記憶を取り戻す前は、記憶を取り戻していけばいくほど胸の中の空白感は無くなっていくと思っていた。だが、実際にはそうではなかった。
少しだけ与えられた記憶は、自分に対してもうどうすることもできない現実を突きつけてきたのだ。こんなに胸に空虚感を感じるくらいなら、いっそ何もかも思い出さなきゃよかった――だなんてことは言わない。
痛みを感じる事が出来るって素晴らしいとも思うからだ。想うことができる、痛みを感じることができる、まさに今の自分は人間そのものなのだ。痛みすら感じない想うこともできない、自分の感情や内情から逃げるような浅く短絡的な人間にだけはなりたくない。自分の心と向き合う事でしか、現実とは向き合えない。
ザーッと降り注ぐシャワーが、まるで雨みたいに思えて、今自分の心に流れている涙も、多分こんな風に洪水のような音を立てながら流れているのだろうな。
自分は、全ての記憶を取り戻すことに恐怖を覚えた。全ての記憶を取り戻した暁に何が自分を待っているのか。後悔? 懺悔? 謝罪の感情? どれも無駄に思える。でも、どんな現実が待っていたとしても、すぐには受け入れられないだろう。それでいい。どんな現実が待ち構えていようとも別にいい。その時どんな感情を自分が覚えるのか、今の自分が、想像力の使い方を間違えて悲観的に想像しようが楽観的に想像しようが、別にそれもどうだっていい。
大切なものを感じられなくなるくらいだったら、まだ辛さに溺れていた方がいい。だって、生きるってそういうことだろ? 色々なことを感じられて初めて人間だから……。
自分はそう思いながらも、それをすることに多少の躊躇いはあったが、身体を拭く前に最後にもう一度だけ壁に頭をぶつけた。今度は、ちゃんと痛みを感じたよ。




