Garden③
列車内に戻った後、再度ノートパソコンを開いて自分は暗室へと向かった。
暗室に辿り着き、一度分解された意識が再度構築されて、意識が安定してくる頃には、暗室の非現実的にすら思える微弱な光りですら壊れてしまいそうな暗闇と、心臓の音すら肥大化して聞こえる静寂が自分を包み込んでいた。
自分は、暗室のソファーの上で意識を再構築したようだった。再構築する際に閉じられていた目を開くと、そこには……目を閉じていた頃と何も変わらない暗闇がそこに存在していた。自分は一瞬焦りを覚え、どこか来る世界を間違えたのではないかとも思った。だがここがちゃんと暗室であるということは、次の瞬間には理解した。
「来てくれて嬉しいよ」
ベラトリックスの声が、自分の耳元を撫でるように通り過ぎた。
そうして自分は、見開いても眼前に広がっている暗闇は、ベラトリックスが自身の両手で隠していたからだということに気がつくと、視界を奪われていたベラトリックスの手を退けた。
やっと視界が明らかになると、自分はソファーから立ち上がって、背後に居るベラトリックスの方を振り向いた。ベラトリックスは前に会った時と同じ服装だった。真っ黒いズボンに真っ黒いパーカーのフードを深く目元まで被っている。
「可愛い女の子にやってもらうならいいが、男は別だ」
自分がそう言うと、ベラトリックスはニヤリと薄ら笑いを浮かべ、だが次の瞬間には幸せという感情の残量が尽きたかのように真顔に戻った。ベラトリックスは自分にソファーに座るように促してきた。自分は言われるがままにそうすると、ベラトリックスはソファーに座った自分の目の前まで移動してきて、単刀直入に行こう、とでも言うかのような、先を急ぐような硬い表情を浮かべた。いや、実際にはベラトリックスにの表情に、起伏というのはほとんどなかったが、少なくとも、微弱な表情の動きを見て自分の心はそのように感じた。
「俺との約束を覚えているか?」
「もし手を組むのであれば、記憶の断片の中に入れ、少し記憶を取り戻したお前と会えることを楽しみにしている――確か一週間前、お前はそう言ったはずだ」
「ああそうだ。そして実際にお前はこうして今俺の目の前に現れてくれている。俺はそのことがなによりも嬉しい。一応訊くが、記憶は取り戻したんだろうな?」
「ああ、取り戻したよ。アズサっていう、自分が一番愛した女性がいたことを。でもアズサに関しての記憶だけでも、完璧に全てを取り戻したっていうわけじゃない。アズサ、その名前や存在を思い出すことはできても、性格や容姿、そして現世でどんな人生を一緒に過ごしたのか……その事に関してはまだ、思い出すことができていない」
別にそんな事はあまり関係ないし、実際あまり問題ではない。そんなことよりも、自分からしたら大きな疑問がひとつだけ存在した。ベラトリックスを目の前にしている今、その考えが頭の中の大部分を占めていた。
それはこの一週間の中で特に考える事の多かった問題だけど、何故ベラトリックスは〝自分の記憶の断片〟を持っているのだろうか? もしそれを訊いたとしても、ベラトリックスは自分に対して優位性を保つ事が出来なくなってしまうから、恐らく教えてはもらえないだろう。でも、その秘密というのを解き明かすことができなければ、逆に、今の自分のある種不利な立場というのは変わらないし、ベラトリックスに対して優位性を持つこともできない。
だから、そのために今、自分はこうして危険を顧みずベラトリックスと対峙をしているのではないか! 優位性を確保する為でなければ、こんな危険なことはしていない。その優位性を確保する為に必要不可欠なのが自分自身の〝特異性〟だ。
考えがあるとは言っても、それが一か八かの勝負であることは分かっている。自分が、朧気にだが認識している自分自身の〝特異性――〟その特異性が上手く発動し、その上でその発動した特異性を上手く使いこなすことができたら、今目の前にいるベラトリックスに自分が数分後殺されるだなんて惨事は免れることができる。恐らくこれが、最初で最後の、ベラトリックスに対して優位性を取れるかもしれないチャンスだろう。
「その程度か、お前のアイツに対する愛のでかさは」
ベラトリックスはぽろっと、自分に向かってというよりかは、己に向かって語りかけるかのように小さく言葉を呟いた。
「まぁいい……。なら手っ取り早く単刀直入にいこう。お前は、現世に戻るという共通の目標の為に、俺と手を組むか? それとも約束を破り記憶の断片を手に入れたものの、手を組むことをしないでここで俺に殺されるか? どちらかを選べ。まあ、ここに来たということはお前に選択肢はあってないようなものだけどな」
自分は細かく頷いた。
決心はできてる。決断ならもう一週間前、その選択を提示された時にもう既に決まっていた。でも実際、口に出そうとすると、心と身体が震えて堪らなかった。目の前に〝死〟が高い確率で訪れる道を自ら進んで歩むような馬鹿はそうはいないだろう。少なくとも、自分以外には。
自分はソファーから立ち上がり、ベラトリックスの目をしっかりと見つめながら言った。
「お前と手を組むだなんて断る。俺は自分一人で記憶を完璧に取り戻して、それから自分一人で現世へと戻るっ!」
「だったらここで死ねっ!」
ベラトリックスはどこからともなく鋭利で殺傷力の高そうな長めのナイフを取り出した。
自分は取り出されたナイフに一瞬怯んでその場から刹那的に動くことができなかった。まるでそれをチャンスと言わんばかりにナイフを自分に向けて突進してくるベラトリックスに、自分はナイフはかろうじて避けたもののソファーに押し倒されてしまった。
ベラトリックスが右手に持つナイフだけを注視していたからか、彼の左拳をもろに受けてしまった。鈍い音と共に鈍い痛みを強く感じた。痛みを確かに感じていたが興奮が勝った。自分が防戦一方に陥っていることは分かっていた。だが微かな反撃をするチャンスというのも見出せないでいた。
ナイフはその鋭利さや殺傷力の高さもそうだが一番恐怖を覚えるのはその長さだった。ナイフを突き刺そうとしてくるベラトリックスの右腕をなんとか両手で制止するが、それが今の自分にできる最大限のことだった。静寂だったはずの暗室が抵抗の音と匂いで充満する。両手で右腕を制止している間にも、ベラトリックスの左拳に殴られ続けた。
そのとき、自分はあるひとつのことを興奮の中で思い出した。それは興奮によって忘れていたアイディアで、それを体現するために、自分は徐々に身体の力を抜いていった。身体の力が抜けていくほど、ナイフとの距離が近くなっていく。だがそれでもなお自分は身体の力を抜いていった。
――ある一定のところまで力を抜いたらできるはずだ……っ!
ナイフとの距離は更に近くなっていく。ナイフが自分の胸部を突き刺そうかというとき、自分はソファーを通り抜けて、ソファーの後ろ側に転がった。瞬間、ベラトリックスの持つナイフがソファーを切り裂く音が聞こえた。自分はありありとした熱っぽい感覚を手の中にしっかりと感じた。
「これが……自分の特異性……っ!」
自分の考えていた一か八かの作戦はもう既に半分成功している。そして残りの半分を達成させる為に、自分は暗室の壁まで激突するかのような勢いで走った。
即座に反応したベラトリックスが自分の背後をナイフを突き刺して殺そうとしてきているのが分かる。だがそんな事をされる前に自分は身体を暗室の壁に激突させ、そして徐々に身体は暗室の壁を通り抜けていった。
そして気がついた頃には、暗室の向こう側の世界まで身体は壁を透過していた。
身体は暗室の壁を通り抜けて、向こう側の世界にまで確かにちゃんと辿り着いたのだ。自分は抜いていた身体の力を再度入れ、壁を実体として捉えると、壁に寄りかかって少し息を整えた……。
――成功した……考えていたことが上手くいったんだっ……!




