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Garden②

 暗室よりも、より自然により暗い世界の地面に、自分の身体は横たわっていた。


 冷たいアスファルトの上で目を醒ますと、そこが少なくとも列車内(アイリッシュ)とは違う場所であるということは分かった。若干の肌寒さと、心が落ち着き不安が和らぐような綺麗な空気、自分はどうやら森に囲まれた場所のどこかしらのアスファルトの上で目を醒ましたようだった。


 ここは……夜の森?


 自分は立ち上がり周囲を見渡した。自分が目醒めた場所は、やっぱりどこかの森の中の開けた場所のようで、けれど、ここがどのようにして自分と関係のある場所なのか、全く検討もつかなかった。背後に、気配を感じた。それも大きな気配。その気配の方向を振り返ってみると、そこにはとても大きなビルが二棟横並ぶ形で存在していた。こうして真下から見上げてみると、一番上なんてどこか分からない。


 夜の森の中に存在する二棟のビル。ビルの一番上は暗くてあまり見えないが、自分から見て左側のビルと右側のビル、その両方とも屋上で繋がっているようだった。こんなにも象徴的な建物を目の前にしても、自分の記憶には、若干の変化すら起こらなかった。


 自分は最初、ベラトリックスが送ってくるファイルの中に入れば、それで記憶の断片は宿主を見つけたウイルスのように自分の元に戻ってくるものとばかり思っていた。だが、実際にはそうではなかった。目の前のこんなに象徴的な建造物と対峙しても、こんだけ新しい刺激を受けても、記憶が更新されることはなかった。


 ――まあ……気落ちをしていても仕方がない。 


 まだ、建物の中にも入っていないんだ。それに、この二棟のビル以外にもまだこの世界は続いている。この世界の全てを見終わった時、記憶が少しでも取り戻せているといいのだが……。

 自分はそんな事を思いながら、二棟のビルを見上げるのをやめて次はビルの反対側の、自分の背後に視線を動かした。ビルの正面は緩やかな下り坂になっていた。アスファルトで舗装された坂道は、真っ直ぐにどこかへ続いている。そのどこかへと、自分は向かうことにした。坂道を降りている最中、自分は頭にまるで微量の電流を流されているかのような感覚を覚えた。坂道を半分ほどまで降りていくと、自分はビルの正面からどこかへと繋がっているこの坂道が、どこに繋がっているのか分かった。


 それは大きな湖畔だった。


 二棟の大きなビルから続く下りの坂道は、感情を洗い流してくれそうなほど美しい湖畔に続いていた。


 美しい湖畔、まるで絵画の中の秀麗な湖畔を目の前にしているのか思うほど、人間の歪んだ感情までも洗い流してしまいそうなほど美しい〝湖畔〟が、目の前に存在しているのだ。自分はゆっくりと残りの坂道を降りていって、湖畔近くの、湖畔を彩っている花壇に挟まれる形でポツンとひとつ寂しく存在している木製のベンチに腰掛けた。


 ……とても綺麗だな。


 ドビュッシーのアラベスク第一番を頭の中で流しながら、目の前の湖畔に、そして輝き満天の星空に対して、自分はそう思った。自分は、この場所にただ佇んでいるだけで幸せな気持ちで満たされていた。どんな場所で何をするよりも、気分が落ち着く。


 来てほしい時に来てくれない感情、満たされたい時に満たされない感情、もし感情を色彩で表現することができるでのあれば、今の自分の感情は全ての色彩を内包している。だが、どうしてだろう……? 記憶を取り戻したいはずなのに、ここで自分に何があったかを知りたいはずなのに、心の奥底では、それを思い出したくない自分がいる気がするんだ。


 そのときだった。自分は激しい頭痛に襲われ始めた。


 それは(たと)えるならばまるでトンカチのような鈍器でぶん殴られているような痛みではなく、内側から自分の全てを覆そうと今まで見つけられずに潜んでいた、記憶という名の反乱分子が、一斉に反乱をしてきたかのような衝撃的な痛みだった。


 自分は痛みで座っていられずにベンチから地面へと頭から落ちた。内側からの反乱的な痛みと共に、物理的に傷つけられた痛みも合わさって、自分は意識を手放しそうだった。辛くも保たれる意識の中、その衝撃的な痛みは頭の容量が増える感覚と共に何故か急に止まった。

 

 まるで頭の中を物理的にかき乱され、物理的に頭の容量を大きくなったんじゃないかというような感覚を覚えながらも、一方であの絶望的な頭痛が急に終わったことに、とにかく安堵を抱いた。何事もなかったように自分はベンチに座り直した。本当に、それまでなんにもなかったかのように……。


「どういうことなんだ?」


 分からねぇ、なんで急に止まったのか分からねぇ!


 ま、まあ、いいだろう。あの絶望的な頭痛が終わったことはよかった。でも、なんでだろう、頭痛の前よりも頭が重い気がする……。それに、記憶も……記憶も……戻ってる?


「戻ってる……本当に戻ってる!」


 記憶が、戻った。


 だがそれは一部、本当にほんの一部、であるが……記憶が、戻った!


 実際に何を思い出したのだろうかと、自分は頭の中を探ってみた。消されたというよりか、記憶の忘却(レビウス)によって隠されていた記憶が戻ってきただけだから、見つけ出すのは簡単だろうと思った。だが、実際はそうではなかった。身体が魂の依り所であるように、記憶とは〝感情〟の依り所である。故に、自分という存在に馴染みすぎて、どの記憶を実際に思い出したのか、探し出すのが難しかった。


 見つけた――。ある人物についての記憶を、自分は思い出した。


 自分は……今の今まで大切な人のことを忘れていた。いつまでも、何があっても忘れることなどないだろうと思っていた〝アズサ〟のことを……。


 アズサ――その名前が愛しくて愛しくて堪らない。その名前を思い出しただけで、自分は多幸感を覚え頬が緩んだ。自分がアズサについて思い出したことの数というのは実際まだ少ないけれど、アズサに逢いたい、今すぐにでも抱きしめたい、という想いだけは、記憶というあやふやなものとは違って確かだった。だけどもう……アズサは、死んだ人間だもんなぁ……。


 ……………………はぁ。


 アズサという人間の存在そのものは思い出しても、顔や性格などの詳細な人間としての特徴などは、一切思い出せない。それがしょうがないことだっていう事は自分が一番分かっている。でも、自分が一番愛していた女性のことまでも今の今まで忘れてしまっていた、そんな自分を、自分は殺したくて殺したくて堪らなかった……。


 この〝世界〟は、自分と、自分が一番愛した女性と共に創り上げた〝理想郷〟なのだ。


 まだ現世でのアズサと自分がどのようにして生きていたのかを思い出せてはいないけど――我々は共に、この自分達だけの理想郷を創り上げ、現実と理想郷とを行き来しながら生きていた。我々はこの理想郷のことをこう呼んだ――〝Garden(ガーデン)〟と。


 アズサがもう五年ほど前に死んでしまった、死人であることは事実だ。それだけは覚えているけど、なんで死んでしまったかというところまでは、思い出せてはいない。


 Garden(ガーデン)……懐かしい響きだ。


 ……さてと、過去に浸るのは今はこれくらいにしておこう。自分はこれからひとつ山場を越えないとならない。ベラトリックスとの約束、勿論キッチリ自分なりに決断していかなければならない。答えは一週間前に既に決まっている。だからそこら辺の心配はない。


 自分は、これからのことを考えて、憂鬱半分、期待半分の感情を抱いた。


 ベラトリックスが自分と手を組むために提示した条件は、ベラトリックスから送られてくる記憶の断片のファイルに自分が入ることだった。自分が今、こうしてアズサを事を思い出せているのは、ベラトリックスがノートパソコンに送ってきてくれた自分の記憶の断片のおかげである。


 だけどこのままじゃ、ベラトリックスとの約束通りだと、自分はベラトリックスと手を組んだ事になる――。だったらそもそも、暗室に行かなければばいいじゃないかと、そういう考えに辿り着くのには時間が全くかからなかったが、それはできない。自分にはとある考えがあった。それを試すためにも命を懸けてベラトリックスのいる暗室に行かなければならない。暗室は全く扉がない、だが、壁の奥には空間がある。それを、自分は初めて暗室に行ったときに感じ取った。


 自分が〝特異体質者〟であるならば、勿論当たり前の如く自分なりの〝特異性〟というものは存在する。


「自分が自分の特異性を使いこなせるようになれば、どんな相手だろうと脅威にはならないはず……だが。まぁ、特異性がもし機能しなかったら、自分はあと数時間もしないうちに殺されるだろうな」


 自己暗示のような、考えついた事を反芻するかのような独り言を呟くと、自分はGarden(ガーデン)を抜けてベラトリックスの待つ暗室へと向かった。


 事の顛末が良い方向に傾くことを、心の底から祈っておくとしよう。

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