暗室⑨
翌日の深夜四時頃、自分はタイミングを見計らって胡乃葉を起こさぬよう自室を抜け出し、ノイジーのいるBARに行った。
胡乃葉の言っていた、魂がふわふわ昇っていくところが見られるのではないかという淡い期待を持ちながら廊下に出たが、魂がふわふわ昇っていく様は見られなかった。やはり、その事象は昨日限りの出来事だったのだろう。
分厚い黒い布をめくり、異質な雰囲気の漂う新鮮な空気の消え失せたBARへの階段を上った。自分はBARカウンターの一番奥側の、左側が壁の席に座った。
自分はこのときには、マスターであるノイジー・パーキンソンをもう完全に信じてはいなかった。それはアミリーが念を押すように何回も繰り返しそう言ってきたこともそうだけど、一番は実際に自分が話しているときに、ノイジーは明らかに避けている話題があると直感的に思ったからだ。だから今回は直接、できるだけ〝この世界の実相〟を問いただしてみようと思う。
「やっぱりずっとこのBARは営業してるんですね」
自分は、何を頼もうか頭の片隅で考えながら呟いた。
少し眠気を抱いていそうな顔をしているノイジーは、丸い背もたれのない椅子から立ち上がりながら深呼吸をした後に言ってきた。
「ええ勿論、このBARから灯りが消えることはない。まぁ、元々灯りなんて数少ないBARですがな。……でも、流石にいつもこの時間になると眠気に襲われるものですなぁ。流石に睡魔に誘われて、私と言えどさっきまで寝ておりました」
「その背もたれのない丸い椅子に座りながら? よく眠れますね。でも、マスターあなたが眠るだなんて珍しい気がします」
自分はノイジーがさっきまで座っていた、背もたれのない丸い椅子を指さしながら言った。
「ええ、まあ。ですがご覧のように、今いらっしゃった貴方様以外誰もお客などいなかったが故に、意識を保持する糸が切れ、眠りに落ちてしまいました。お客が誰もいない時間帯というのは珍しいもので、つい」
ノイジーはBAR全体を見渡しながらそう言った。
「何にいたしましょう?」
「熱めの緑茶をください」
「かしこまりました」
熱い湯気が昇る濃いめの緑茶を一啜りして一息つくと、自分はBAR全体を照らす何本もの蠟燭の内の一本に視線を留めながら、呟くように言った。
「この世界は、現世と死後との狭間の世界なんですか?」
ノイジーは、自身が飲む為の珈琲を作る手を止めた。
不安定な間を埋めるノイジーの咳払いが、虚しくBAR全体に響き渡る。一度止まった手が再度動き出し、自身の飲む珈琲を完成させるとノイジーは、自分の方に向き直して珈琲を飲んだ。自分もそれに連られるように緑茶を一口飲んでそれを舌で転がした。自分の目には、今のノイジーの姿は、とても都合の悪い現実にどう対処しようかと迷っている姿にしか見えなかった。
自分という、都合の悪い存在を目の前に、ノイジーは表層は平然を装いながら、止まっていた時間をもう一度再開させるかのような静けさを切り裂く鋭い口調で言ってきた。
「ええ、そうですよ。貴方が言った通り、この世界は現世と死後との狭間の世界ですよ」
気持ちの悪いまでに飄々と、さも当たり前の周知の事実を語るか如く全く躊躇いのない口調で言ってみせた。
それは自分からしたらとても怖さを感じる口調だった。自分がこうして、瞬時には処理しきれない類いの感情を抱えているその眼前で、ノイジーは、だからなんだ――と言わんばかりに珈琲を口に運び続けていた。自分はなんとも言えない感情を感じながら、次繰り出す言葉を考えた。
ベラトリックスが言っていた事は正しかったんだ。確実にそうだとは未だ断言する気はないが、自分がベラトリックスと接触した事を知らないノイジーが、どこからともなく現れた都合の悪い言葉に対し、それを肯定したのだ。ならば、本当にもしかするともしかするのかもしれない。
ノイジーは視線を真っ直ぐにして、自分の方に前のめりになってきながら言ってきた。
「なぁキビト、その事は事実だが、一体誰からそんな事を入れ知恵をされたのだ? ……私にはそれが分からない。今目の前にいる君がもし仮に何らかの形で記憶を完全に思い出すことができたとしても恐らく分からないような、現世と死後との狭間の世界という複雑かつ単一的な視点では絶対に導き出すことができないような事実を、何故ピンポイントで当てることができたのか……それがどうしても私には分からない。別に怒っているわけじゃないんだ。叱りたいわけでもない。ただ、一体誰からそんな事を入れ知恵されたのか、不思議でしょうがないんだ」
「入れ知恵……ですか? 自分は別に誰にも入れ知恵なんてされてないですよ」
入れ知恵――その表現を用いるならば、自分はベラトリックスから入れ知恵されたと言える。だがそんな事を馬鹿正直に言う事なんて勿論出来ない。
自分の事を探りたい心理と若干の殺意――それが今のノイジーから感じ取る事が出来る感情の全てだ。
だが徐々に時間が経つと共に、ノイジーから感じ取っていた若干の殺意が引きはじめていることに気がついた。それと同時に、ノイジーは前のめりな体勢をやめた。まるで、今深い詮索をしてもどうせコイツは真実を喋らないからやめておこう、とでも思ったかのように……。
「おかわりは必要ですか?」
空になった自分の湯飲みを手に取りながらノイジーは言ってきた。
自分はそれを、もう部屋に戻るから必要ないと答えた。
「そうですか、もうお帰りになるのですね。まあ、またそういう気分になった時には是非いらっしゃってください。いつでも歓迎です。ああ、そうだ……話は大きく変わるのですが……ここに来るまでの廊下で、何か変な浮遊物は見かけませんでしたか?」
「変な浮遊物? いや全く見かけませんでしたね」
「ここが現世と死後との狭間の世界であると知った貴方であれば、別に知っておいて損はない話だと思います。たまに、ある一定の期間毎にこの現世と死後との狭間の、所謂どっちつかずの世界から死後の世界へと昇る魂が現れるんです。理由は純粋に、当人が死亡したから、というものなのですが……私はそれに関してひとつ疑問を抱くのです。それは、死んだ人間は、皆昨日まで普通に健康的に過ごしていたのに、突然死んでしまったということなんです。寿命で死んだわけでもなく、まるで何かに連れて行かれるみたいに、死んでいく人間がいるのです。と言っても少数ですがね。だからこの列車内では、廊下をふわふわと浮遊している魂に触れると、自分も死後の世界に連れて行かれると言われているのです。貴方も気をつけてくださいね。まあ気をつけるもなにも、魂は人の死を体験した人間にしか見えないですが。だからこそ、そういう期間だという直感がある日には、自室から出ない事を強くおすすめします――」
ああ、胡乃葉が言っていたことか。胡乃葉から聞いていたから知っているけど、どういう風の吹き回しなんだ? ……どうして、急にベラベラとそんな深い説明をしてきたんだ?
自分はノイジーの言葉に、分かりましたと答えると、BARを後にして部屋に戻ることにした。食堂車へと降りて部屋に戻る道中の廊下で、自分はふわふわと淡く光りながら天井を通り抜けていく不思議な物体を目にした。それは一つだけではなく、二つ、三つと自分の目の前の天井をすり抜けていってしまった。
自分の頭にはノイジーに言葉が浮かんできた――気をつけるもなにも、魂は人の死を体験した人間にしか見えないものだ。
自分は……誰か人間の死を体験したことがあるのか?
自分自身のことなのに、何も分かる事がなくて、胸がムズ痒くて仕方がなかった。自分はもしかして絶対に忘れちゃいけない大切な人のことも忘れているのではないか? そう思うと、途端に息苦しさと自責と自己嫌悪の感情が襲ってきた。




