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暗室⑥

「これがあの日あったことの全てだ」


 突然、自分の目の前の虚空に現れた男――いいや、恐らく本当にこいつは初代特異体質者――ベラトリックス・バグファイアがそう言った。


「あの日、エリナーが容疑者になったあのパブでの出来事、俺は言った通りにお前に全て見せた。お前も気づいただろう? あのパブのマスターが、忌々しい列車内(アイリッシュ)でBARを営んでいるあのノイジーだってことを」


 自分は何か物を言い返そうとしたが、口は開かず、ただただその言葉に細かく頷くことしかできなかった。


 ベラトリックスは自分の周りをゆっくりとした足取りで回りながら、時折子供をあやす様に、そして時折暴力を示唆して脅すような緩急のある口調で言ってみせた。


「記憶を取り戻したいお前にとって、俺からの誘いは列車内(アイリッシュ)から抜け出す唯一のチャンスであるはずだ。映像の中で実際に取り調べを受けていたあの女が、パブにて犯行に及んだことも、お前の眼前で行われたことなんだぞ? 俺はちゃんと約束通り、お前の記憶を取り戻す具体的なきっかけの方法を示した。今のお前に選択肢なんざ存在しないんだよ。だから改めて言おう、俺と手を組まないか? 俺と戻ろう、現世へ」


 現世……それがどんな世界なのかを、ほとんど全く思い出していない自分にとっては、現世と言えどそれはある種未知の世界だった。手を組むこと自体に興味はあまりなかったが、現世という言葉には確かに心の琴線に触れるものがあった。


「……現世って、一体どんな世界なんだ?」


「本当に殆ど思い出していないようだな。元の世界……俺と手を組み記憶を取り戻せば、現世の事も自ずと思い出す。だが、いいだろう。ふふふ、この俺が直接教えてやろう」


 ベラトリックスは自分の背後で歩みを止めると、ソファーに座るよう促してきた。その通りにすると、ベラトリックスは自分の背後で薄ら笑いを浮かべた口調で話し出した。


「一応言っておくと、ここは列車内(アイリッシュ)にいるときのように記憶の忘却(レビウス)の効果があるわけではない。つまりどういうことか分かるか? お前はここにいれば記憶の忘却(レビウス)に遮られることなく、現世のことを知る事が出来るということだ。現世の事を知るということは、この世界の全てを知るということと同じだ。この不安定な列車内(アイリッシュ)、この暗室を含む全ての事を知るためには、現世の事を知らねぇといけねぇ。でも、その全てをここにいればお前はこの俺から聞くことができるんだ。記憶の忘却(レビウス)の効果が届かねぇ、素晴らしいだろ、この暗室」


「もしかして、この暗室はあんたが作ったのか?」


「ああそうだ、あんな狭っ苦しい厩舎みてぇな場所で生きるだなんて言葉通り〝家畜〟のすることだ」


「どうやって作ったんだ?」


「さぁ? お前が自分の特異性をより認識し記憶も手に入れた暁にはそれも分かるだろうよ」


 そんなことより、とベラトリックスは呟いたあと、


「現世の話だったな。まず大前提として、俺やお前みたいな特異性の発現している人間も、そして、特異性を発現していない記憶の忘却(レビウス)の効果に頭をやられちまってる列車内(アイリッシュ)にいるその他の人間も、皆同じ〝現世〟から来た……いいや、飛ばされた人間なんだ。だからその時点でここが〝現世〟ではないことが分かる。じゃあここは現世とは真逆の世界なのか? いや、違ぇな。この俺達が住んでいる、いや、漂っている世界は、現世と死後との狭間の世界に過ぎない。その表情、無理もない、俺もあのBARのクソなノイジーに言われるまで、それは知りもしなかった」


 心が震えた。鼻腔に付着する静寂の香りがとても強く感じられた。静寂な暗室は、自分の鼓動の驚きの強さを助長するから、鼓動がとても速く感じられた。


 ――でも、分からないな。ここが現世と死後との狭間の世界? そんな事があり得るのか? それが事実なのかどうかを確かめる術が、自分には存在しない。それこそ、記憶を全て取り戻す事が今の自分にとっては最良な術だろう。だがそれが出来るに超したことはない……。ベラトリックスが嘘をついている可能性だって勿論どんなときだって否めない。


 自分は深呼吸をして、分裂する呼吸を整えてから言った。 


「な、なぁ……あんたももしかして列車内(アイリッシュ)に居たのか? というか居たんだろ? クソなノイジーって今言ったけど、なんかノイジーに恨みでもあるのか?」


 背後のベラトリックスがそれまで抱えていた、まるで優越気味な雰囲気が少し変わった感じがした。いつの間にか始まっていた高揚気味に身体を小刻みに揺らす動作を、ベラトリックスはピタッとやめた。何か踏んではいけない地雷を踏んでしまったのかと思い、自分は生きた心地を急速に失いはじめた。気づかれないように小さく息を吐いた。


 ベラトリックスは背後で、少しだけ思案している様子だった。ベラトリックスは突然自分の肩を触ってきた。最初は触れる程度だったその手つきは、肩次第に掴んでいると言えるくらいまで力が強まり、顔をしかめるほどの痛みを覚えたところで自分はソファーを立ち上がった。自分達はお互いに顔を見合わせた。だけど、ベラトリックスは少しどこかうわの空のような表情をしていて、目の前にいる自分との対峙を認識していないようだった。


 地雷を踏んだことは踏んだけど、許されたか……?


「ああ、悪い。なんで立ってる、座ってくれ」


 視線を合わせてきたベラトリックスはそう言ってきた。自分は言われるがままにそうする他なかった。


 一体なんなんだコイツは……。ノイジーと何があったのだろうか? やっぱり、二人の間に何かがあったことは間違いなさそうだ。ノイジーの事を思案していたであろうベラトリックスは、少なくとも殺意が漏れ隠せずにいた。直接見ていなくてもそう感じたのだから、この男の殺意や情操は色々な意味で凄みがあると言わざるを得ない。


「現世でのお前が何をやっていたかを俺は知っている、教えてほしいか?」


 突然の言葉に、そのとき抱いた疑問は一瞬で消え失せ、刹那的に自分は首を縦に振っていた。


 背後から、見えないながらもニチャっとしたベラトリックスの薄ら笑みが伝わってくる。それと、生温かい吐息も。


「現世でのお前は……北アメリカ大陸にある、アメリカという国の貧困地区に住んでいた。地域の名前は確か、オクトーヴァー。それ以外に教えられることは何もない。でもその他の君の情報を知らないわけではない。俺から聞くことよりも、直接記憶を取り戻せば、一瞬で事は済むということだ。なぁ、だからどうだ? 俺を手を組まないか? 狭苦しい厩舎みてぇな列車内(アイリッシュ)で暮らしたいって言うんであれば話は別だ、勝手にしろ。だが一応言っとく、仮になんらかの形で奇跡的にお前が記憶を取り戻すことができたとしても、記憶を取り戻すということは列車内(アイリッシュ)そのものに嫌われるということなんだ。ただただ息苦しくなって堪んねぇんだ。記憶を全て取り戻したからこそ、列車内(アイリッシュ)で生活することが息苦しくなって俺はこの暗室を生み出した。お前も絶対に俺みたいになる。だから最初から、俺達二人が手を組んでこの現世と死後との狭間の世界を抜け出そうじゃないか。……(きた)る一週間後、俺はお前のノートパソコンにお前の記憶の断片を送る。もし、俺と手を組むのであればその記憶の断片に入るんだ。お前にはできるんだろう? この暗室に来たときや取り調べの映像を観たときみたいに、映像の中に入ることが。その送った記憶の断片に入ること、それが俺達の交渉成立の証だ。交渉成立の暁には、もう一度この暗室への入り口を君のノートパソコンに送ってこう。来るがいい。だがもし――」


 ベラトリックスは自分の耳元に口元を近づけてきた。


「もし、記憶の断片に入り記憶の一部を取り戻したものの、俺と手を組むことに関してはお断りですだなんて言うようであれば……その時は間違いなく俺はお前を殺す、覚悟しておけ」


ベラトリックスは、自分の耳元で囁くように言ってきた。


 (きた)る一週間後――そうベラトリックスは言った。


 自分の頭の中には色々なものが駆け巡った。だが、次の瞬間には、浮かんできた情緒を遮るように、ベラトリックスは自分の両目を手で塞いできた。頭の中で描いていた、生温かみのない冷酷な身体という想像はこのとき覆り、初めて、ベラトリックスの体温を感じた。


 不思議なことに、ベラトリックスの両手はとても温かく不気味なまでに安心感を自分に与えた。それが何か不自然で、どうもアンバランスで、何故か嘘くさかった。理由は分からない。だが言えることがひとつある。それは、ベラトリックスの温かさは、心を直接抱擁されているような、知らない内に懐に入られてしまっているような、一瞬身体を預けてもよいのかと迷う温かさを感じさせるものだということだ。


 ベラトリックスは自分の耳元で囁いてきた。


「では一週間後、君が少しだけ記憶を取り戻してここに戻ってきてくれることを楽しみにしているよ」


 すると、徐々に萎んでゆく意識は、ベラトリックスの言葉に埋もれて暗室内から消え失せた。

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