暗室⑤
自分は、さきほどまで居た静寂そのものから打って変わって、気がつくと喧騒が入り混じる空間に自分がいることに気がついた。
気がついた、と言っても目が開かないから耳に入ってくる音を頼りにそう感じただけであり、実際にどうなのかは分からない。けれども開かないという事実に恐怖を覚えることもなかった。恐らく自分は男によってパブに飛ばされたのだろう。
確かに、音を注意深く聞いてみると喧騒な雰囲気や物音や会話などから、ここがパブであっても可笑しくはなかった。自分は開かず頼りにならない視覚からではなく、聴覚から入ってくる情報を頼りに色々と情報を集め、恐らく訪れるだろう視覚が使えるようになるタイミングというのを待った。身体がまだこの世界に馴染んでいないだけだから、多分……時間経過と共に徐々に視覚は使えるようになるはずだ……。
さっきまで緊張感を保ち話していた、暗室のひんやりとした微弱な粒子との共存とは打って変わって、このパブ……取り調べ等の情報通りであれば名前は恐らく〝ケージ〟だったか。ケージの小煩い雰囲気に、自分は新鮮味を感じた。
列車内とは勿論違う空間。自分達の元いた世界というのがどういうものなのかは分からないが、記憶が無いながらも自分はパブには人生の中で行ったことがないだろうと思った。だがパブというのが〝こういうもの〟だろうということは、なんとなく想像がついた。
数分ほど経った頃だろうか、自分は徐々に身体がこの世界に慣れはじめ、徐々に視覚が解放されていきはじめ安堵を覚えた。視覚が完全に解放されると、自分は実際に〝あのエリナーが容疑者となった瞬間〟の舞台を己の目でしっかりと視認した。
「ここが……パブか……」
温かみのある暖色のライトが店内を照らすその光景に、自分は思わず微笑みを浮かべた。取調室や暗室など、例外的な場所とは全く違う、一目で〝普通の日常〟と思える光景に、自分は何故だか嬉しくなった。記憶が無いながらも分かる、ここは自分が元いた世界に存在する場所だ、と。確証はない、でもそう思うんだ、ありありと。
そうして、自分は店内を改めて見渡した。
暖色のライトに照らされる店内は、自分が聴覚で捉えていた以上に客達で賑わっていた。カウンター席からテーブル席のほとんど全ての場所で、皆が皆思い思いに酒を飲み、会話に興じていた。だけどどうしてだろう? こんなにも沢山の客がいるのにもかかわらず、自分に気がつくような人間は誰の一人もいなかった。
それが、目の前の酒やつまみに純粋に興じているからじゃないことにはすぐに気がついた。 この、今自分の目の前で起こっている全ての物事は、エリナーが容疑者となった事件当日――つまり過去の――出来事の再生に過ぎないのだ。
目の前で楽しそうに興じている人々達も、過去に起こった事件を、あの男が何かしらの方法でこの一連の出来事を保存でもした時に映り込んだ、ある種の〝背景〟みたいなものに過ぎないということだろう。そして、自分はその当時の様子が再生された世界の中にいるだけであるから、自分と客達が双方に干渉することはないのだろう。だから自分はひとつ、試してみた。
自分はカウンター席で隣の客同士で話している二人の男のところに行った。自分は二人の男のうちの片割れに触れてみた。ああ、やっぱりそうだった。男に触れようとした自分の右手は、男をすり抜けて奥のカウンターに触れた。まるで自分以外が幽霊になってしまったような感覚を覚えた。正確には、どちらかと言えば自分が幽霊側なのだろうけど。
自分は一つだけ空いていたカウンター席に腰掛けると、このパブにきた目的を思い出した。暗室にて、男は言った。『俺は俺が何者なのか分からない、俺が知りたいくらいだ。だがな、三年前あのパブで何があったのかだけは知ってるぜ。ああ、それにもうひとつ言えるがある。お前がその事件を追いかけることは、記憶取り戻すきっかけになるということをな。』
自分が反抗しようがしまいが、まず男としては自分に記憶を取り戻して貰わなくちゃならないのだ。そして男は自分がこのエリナーが容疑者となった事件を用いて、自分が記憶を取り戻すきっかけの具体的な手段を見せてくれるそうだ。さて、これから何が起きるのだろうか。
一人の女がパブにゆっくりと多少虚ろな目を覗かせながら入ってきた。自分はその女を一度はスルーしたが、無意識に引っかかるものがあり、二度見した。
あのブロンドヘアー、顔つき、その他諸々の身体的特徴、パブに入ってきた女はまさしくエリナーだった。薬物依存の傾向が見られる人間の様子を見せていたから、薬中であることはそうなのだろうけど、でも変だった。エリナーに対して自分は違和感を覚えた。その違和感がなんなのか分からないことにまた違和感を覚えながら、自分はエリナーのことを注視し続けた。
エリナーはパブを奥へと進んでいって、カウンター席があるところまで辿り着いた。自分との距離が急激に縮まったことに若干の恐怖を覚える。これから、エリナーは容疑者へと変貌するのだ。だけどそんな様子は、こんな風に普通に酒や会話に興じていたら分からないだろう。多少の違和感を自分が抱いているうちにも、エリナーはゆっくりとした足取りでカウンター席で唯一空いてる席――そう、自分が今座っている席に座ろうとしてきた。
自分は驚いて身体の一部がエリナーを透過しながら立ち上がって、パブの真ん中まで距離を取った。
エリナーは、隠し持っていたナイフで右隣に座っていた男の脇腹を刺した。
瞬間、パブ中は一瞬の静寂を経た後、刺された男の悲鳴が響き渡った。
エリナーは男の脇腹や腹部などの柔らかいところを執念じみた力で刺し続けた。そして男が血反吐を吐きながら床に倒れ込むと、客の全員が全ての物事を理解した。男の喚き声が絶えるのと同時に、パブ中は客達の悲鳴の声で包まれた。客達は自分勝手に我先にドタドタと店の外へ出ようよ一目散に駆けた。泣き叫ぶ女、ふざけんなと叫ぶ男、映像を撮影しようと携帯電話を取り出した彼氏を外に連れ出す彼女。この場にいた全員が自分勝手に動き始めまさにこの場は瞬間的に〝地獄〟と化していた。
それを自分は、ただただ唖然として見ることしかできなかった……。客が全員外へ逃げ出した頃、自分は興奮と不安と叫びたくなる気持ちを必死に自我で抑え続けながら、足がすくみながらもなんとかエリナーから距離を取った。エリナーは客が全員外へ逃げ出した今も、男の身体の柔らかいところを怨念に乗っ取られたかのように無心で刺し続けている。
「ぅ……うぅ……」
カウンターの奥側から声が聞こえた。自分は思わずその方向に視線を向けた。それはエリナーも同じだった。エリナーは無心で刺し続けるのをやめて、声が聞こえたカウンターの奥側のに視線を向けていた。その視線はまるで、新しい獲物を見つけた肉食動物のそれのようだった。自分はエリナーよりも先に、走ってカウンターの奥に誰がいるのか確認した。
「…………えっ………………」
絶句した。
その人物が、この先エリナーによって殺されるかどうか、自分はもう既にその答えを知っていた。自分は気分が少し悪くなって、カウンター席の椅子にゆっくりと腰掛けた。
なんで……なんでここにBARのマスターがいるんだよ……っ!。
列車内でBARのマスターをしている、ノイジー・パーキンソンが、何故このパブのマスターをしているんだ?
人生では思わぬところで点と点が線になるが、今回は点と点が繋がっただけではなく三次元になってしまった。
自分は椅子に座ってからはもう、エリナーの姿を目で追いかけなかった。気分の悪さを覚えて、早くここから出してくれ……そう思いながら周りを見渡していると、一人の男がまだこのパブに残っていた。真っ黒いズボンに真っ黒いパーカーのフードを深く被っているその男は……ああ間違いなく、暗室で出会った男だ。あの男もこの事件現場にいたのか。でも、暗室のときと同様に顔には靄がかかっていた。
もう何にも驚かない。だが、男が椅子から立ち上がって、エリナーに話かけはじめたとき、もう何にも驚かないだろうと思った自分の心情はすぐに一蹴された。
「お疲れ様」
男からそう言葉をかけたエリナーは次の瞬間、カウンターの裏側に隠れていたマスターを襲おうとするのをやめ、その場にどっと倒れ込んだ。死んだ訳ではない、取り調べの映像を何回も観たからこここで死ぬわけではなく恐らく気を失っただけだということは分かっている。だが、その倒れ込む姿がまるで魂の抜かれた瞬間の藁人形のようで不気味なことこの上なかった。
気を失ったエリナーの元に男は近づき、一言呟いた。
「刑務所での勤め、頼んだよ」
ぞっとした。
自分はこのとき直感した――男は、エリナーを捨て駒として使ったのだと。
エリナーが自発的に行ったとは思えない。金を受け取ったのか、他の報酬に釣られたのか、それは分からないけど男がエリナーを使い捨てたことは確かだった。恐らく男は、自分では直接手を下すことはない。このような人間と手を組んだら、自分も使い捨てられるに決まっている。碌なことにならない、ならないと分かっているのだけど……。
この、エリナーが容疑者となった事件当日の世界を、何かしらの形で保存してこうやって他人に見せたり、エリナーを何らかの方法で動かしたり……その全てに〝特異性〟が絡んでいる気がしてならなかった。男が初代特異体質者である、という事は自分の中ではもう疑いようがないことだった。
気分の悪さに、酒も飲んでいないのに酩酊のような状態になっていると、エリナーに言葉をかけた後、男が『従業員専用』と書かれた扉の奥に入っていこうとしているのが分かった。自分はすぐさま男の後を追った。男が開けた扉が閉まる寸前のところを手を入れて扉をこじ開け、扉の奥へと入った。
扉の奥は真っ暗闇な空間だった。『従業員専用』と書かれていたから、スタッフルームとかのはずなのに。奥へと進むと、徐々にその暗闇が濃くなっていっているのが分かった。そしてその暗闇の濃度は、次第に見覚えがある濃度にまで濃くなっていった。そして段々と感じはじめるひんやりとした独特な空気感。陽光すら受け付けない微弱な粒子たち。陽光を受け入れた暁には壊れてしまそうなほど真っ暗い部屋。
自分はいつの間にか、暗室に辿り着いてしまったようだった。
自分は背後を振り返った。そこには、通ってきたはずの通路などは跡形もなくなくなっていて、背後に見えるのはデスクトップパソコンが置かれたデスクとチェア、そしてその更に背後には壁一面が全て本で埋まっている本棚、ただそれだけがあった。




