暗室④
自分は目を醒ますと、暗い部屋にいた。
暗室とも言うべきその暗い部屋は、微かに外光の、恐らく月明かりによって微弱な空間中の埃を僅かに照らし出していた。自分はそんな部屋の中心の、少し硬いソファーの上で目を醒ました。
遮光カーテンの隙間から入る月明かりの明るさは、夜を迎えているこの辺鄙な世界が保つことのできる最大限の光量だと言わんばかりに、この部屋は明るさを保つのが苦手なようだ。陽光なんて受け入れた時には途端にこの部屋はボロボロに崩れ去ってしまうのではないかと思ってしまうほどに、この部屋には独特な空気が流れていた。
自分はソファーの上で眠っている姿勢から身体を起こすと、部屋が結構広いことに気がついた。列車内で暮らしている自分にとっては、この部屋の広さほどに自分達の部屋も広がってくれたらいいのにと思うほどだ。
身体を起こした後、自分はちゃんとソファーに座った。ソファーの前方には、ちゃんと専用台の上に乗せられたテレビがある。部屋は長方形の形をしていた。自分はソファーの上で膝立ちをしながら背後を確認した。
ソファーの背後には少し離れてデスクトップのパソコンが置いてるデスクがあった。そして、細身の人間ならば男でもすっぽりと包まれてしまいそうなほど大きいチェアの背後は、見にくいが恐らく壁一面が本棚となっていて、余すことなく本棚全てがキッチリと本で埋まっている。
さて……と、これからどうするかな。
自分は冷静だった。自分でも気持ち悪く思えるほど理由もないのに冷静だった。それはこの部屋のひんやりとした独特な空気感がそうさせるのかもしれない。部屋はまさに絵画の中にでも出てきそうなほど端麗だった。絵画となったこの部屋に、作品としての名前を付けるとするならばこれしかないだろう――〝暗室〟と。
もしできることならば列車内ではなくてずっとここに居たいと思った。だがそんな気持ちも、少し時間が経ちこの空間に慣れはじめると逆に妙な気持ち悪さを心の背後に感じさせた。部屋には時計がなく、ついでに部屋の外に出るための扉もないからだ。窓の外は、何故だか出てみようという気を起こさせない。
自分はどうしたのもかと思った。特に焦りを覚えたりはしないが、この部屋が指し示す意味みたいなものが感じ取れなかった。ここで自分は、何を見出せばいいんだ?
自分はふと、目を瞑りながら天を仰いだ。
――誰かいる。
それは本当に一瞬のことだった。
自分が目を瞑りながら天を仰いだその数瞬で、自分はさっきまでは感じなかった生気を自分の遙か近く、目の前に感じたのだ。目の前に人がいるというその存在感に、自分は目を閉じたことを一瞬後悔した。これじゃ目を開くのに勇気が必要じゃないかっ。分かる、感覚的に分かる。目の前にいる人間は、自分を覗き込むように見つめている。
警戒感すら持てないほど、緊張感すらまるで暗殺者に籠絡されたターゲットのように解かれてしまい、この部屋に住む〝魔物〟に、自分は目が醒めたときから知らず知らずの内にずっと監視されていたんだ……。自分自身でも気づかないうちに骨抜きにされ、その時が来たときにはもうゲームオーバー……みたいな、そんなのアリかよ……。
「ああ、アリだよ」
まるで心を読まれたのかと思うほどにタイミングの良い確信めいた男の言葉に、自分はまるで心を弾丸で撃ち抜かれたかのような感覚を覚えた。もうこうなってしまったら、自分にはもうどんな選択肢も残されていない。ゆっくりと、着々と、牛歩の歩みではあるが確実に瞼を開いていった自分の気持ちは完全に焦りを覚えていた。
「やあ、どうも」
目の前の男は、表情が引き攣っているであろう自分に向かってそう言ってきた。
ソファーに座りながら体勢を崩した自分のことを、男は目の前でただ見つめていた。男の雰囲気は、人間の形をしながらも同じ〝人間〟だとは思えないほどの何か威圧感みたいなものがあった。今はそれを隠しているつもりなのだろうが、隠し切れていない威圧感がそこにある。
姿形は同類だけれど、根本から何もかもが違う。基底欠損を起こした人間というのは、こういう人間の事を言うのだろう。それほどまでに男のオーラや存在そのものが作り出す空気感は、この部屋で感じる独特な空気感を助長させ成長させたような奇妙なもので、ただ佇み、見つめるだけで、自分という人間は行動の全てを封じられた。男の目の前では、どんな反抗も起こす気にはなれなかった。
「恐らく君には俺の顔が見えていないよね。でも安心して、俺の世界に来てくれたら顔も見せるし君に危害を加えることもないよ」
真っ黒いズボンに真っ黒いパーカー、そしてフードを被り、顔には何か靄のようなものがかかり素性を把握できない。男は体格が良いからか、その一言一言は自分が生命の危機を覚えるのに充分な邪気を孕んでいる口調に感じた。
「ちゃんと座りなよ」
言われ、自分は崩れていたことを忘れていた体勢を言われるがままに戻す。
「そんなに怖がらなくていいよ、怖くないから」
自分は、この男に殺されるのだろうか。
「君は確か……キビト、だったよね。あれ……その表情、まだ自分の記憶も取り戻していない感じ? ……記憶の忘却が強すぎたかな、もっと弱めればよかったのかもねぇ」
吐き捨てるような言葉に、まるで言葉のボールの壁当ての壁にされているような気分になった。男は自分の反応なんてどうでもよく、ただ自分を己の支配下に置くべくそう一方的に語っているのだ。でも……そう分かっていても……身体は恐怖で動かない。
「じ、自分の名前くらい分かります。自分の名前がキビトであることに……間違いはない」
萎縮した声量だが、この静寂が肩を抱く暗室では相対的に大きく聞こえる自分の弱々しい返答に、男はニヤリと笑っているような気がした。表情はやはり靄がかっていて見えない。けれど確かにそういう風に見えるのだ。
「貴方は……貴方は一体誰ですか?」
別に誰でもいい。誰でもいいけど、お前という人間の素性が知りたい。
すると男は少し悩んだような素振りを見せてから言ってきた。
「君がどれだけ記憶を取り戻しているのか、それを今ここで確認してもいいのだけど、まぁ、やめとくよ。それをしたら君に信用してもらう為の手段をひとつ失うことになるしね。それに俺自身の素性を晒すことにもなる。俺が誰か、そんな事はどうでもいい。俺が誰かなんて俺が一番知りたいさ。子供には皆親っつうもんがいるだろ? 親がいて、子が生まれる。けど俺には親がいない。そこがお前らと俺との決定的な違いさ」
独り言の延長線上のような口調でそう話した男の声は、何故かどうも不安が混じっているようにも聞こえた。その不安混じりの口調と、威圧感が醸し出す異常な雰囲気とのギャップに、自分は目の前の男の存在そのものを掴み取ることができない。
「本題にいこうか。なぁ、俺と手を組まないか? 何を目的に? 決まってるじゃねぇか、俺らが元いた世界に帰るためだよっ! それ以外何があるって言うんだッ。……本当に記憶を取り戻していないみたいだな。まさか俺らが元いた世界のことについても忘れてねぇか? ……あぁ、面倒くせぇ。お前のせいで部分的な記憶の忘却ができねぇって明らかになっちまったじゃねぇかよ。ったく……まあいい、お前の特異性が何かはお前自身も分かっていないようだが、お前の記憶は俺が絶対取り戻させる。約束してやるよ。どうだ? 俺と手を組めば確実にお前は記憶の全てを取り戻すことができる。俺が目的を叶えるためには、お前の特異性が必要なんだ。まあその特異性がなんなのかお前自身が分かっていない以上、俺にはお前の記憶を全て取り戻させるところまでしかできねぇけどな。さぁ、どうだ?」
その言葉の全てが理解できなかった。
男は捲し立てるように早口で、興奮気味で一方的に様々な情報を押しつけてきた。
自分の持つ特異性がそんなに特別なのか……? それとも、コイツの言っていることは全てブラフで何かまた別の目的があるのだろうか? ……いずれにしても、自分にとって明確なメリットになるものなんて記憶を全て取り戻す事が出来るくらいじゃないか? 勿論、それだって嘘の可能性もあるし。なにより……他人が、自分が記憶を取り戻す為のきっかけを作ることができるとは到底思えないのだが。
「悩むな悩むなアホ臭いアホ臭い。いいか? お前には選択肢なんものはないんだよ。あるとしたら、俺に従って共にこのしょうもない空間から抜け出す、ただそれだけだ。……何を悩んでいる? いつ来るかも分からない記憶を取り戻すきっかけなんざ待っているよりも、確実に記憶を取り戻す事が出来る手段を持ち合わせているのは俺なんだ。だから、俺と手を組もう。俺の世界に来い。そうしたら記念に、君から隠している顔の靄も解こう。俺の素性を君に晒そう。それでも嫌というならば、そうだな……死なない程度に半殺しにするまでだ。そうして、最終的には俺に従ってもらう」
自分は唾を大きく飲み込んだ。
選択肢が無い、という状況をこれほどまでに恨んだことはない。
それは人生でもそうだ。自分の行く末を選ぶ場面が来た時に、様々な要因が重なって自分には選択肢が無いと悲観し悩み苦しむことはままある事だろう。選択肢を広げる為と言って、親や先生は勉強をしなさいと言うが、それを嫌がる子供も多いことだろう。
人生の様々な場面において、その〝選択肢〟の有無というのは、自分が傷つく武器にも自分が持ち得る武器にもなる。その上で自分は分かっていた。既存の選択肢の中から選ぶことが人生の行く末を決める選択をするということではないということ。そして、真の意味での選択肢というのは、既存の中から選ぶことではなく新しい選択肢を作り出すことであるということを。AとBという、従うか半殺しにされた後に従わされるかの二択しかないのであれば、自分中での答えはただ一つだ。Cという選択肢――記憶を全て取り戻して後に反抗し、もしかしたらコイツと命のやり取りでもすることになるかもしれない――という選択を自分は取る。だから――
「あの――」
「俺が本当にお前の記憶を取り戻させるきっかけを持ち得ていないと思ってるのか?」
手を組みましょう――そう言おうとした瞬間に、自分の言葉を遮って男は言ってきた。
男はニヤッと、何かを感知したような表情をしているような気がした。その感覚がなんなのかは分からないが、背筋にすーっと一滴の汗が流れ落ちる感覚を覚えた。
「今お前自身が何を思っていようがいまいが、なんでもいい。お前は手を組んだ後に裏切ろうと思っているなら、それもどうだっていい。だってお前は、俺から逃げる事はできねぇんだからな。なぁお前……ノートパソコン貰っただろ? ロディ・リッチメインっていうゴミから。しかもアイツはお前になんて言った? 俺を殺せ――だと? ふざけんな。俺は誰にも殺されるつもりなんてねぇんだよっ!」
この時、目の前にしている男の存在の大きさを、自分は初めて正確に認識してしまったのかもしれない。男の言葉をきっかけに、自分の頭の中で、これまで得てきた点と点が不本意的な形で不本意なタイミングで線になってしまった。ノートパソコンを自分に渡してきたロディ・リッチメインという男の言葉を思い出す。――『特異体質者には各々特殊な〝能力〟が備わっています。貴方様にどんな能力が備わっているのか分からないですが、まずはそれを発現させる為にも、記憶を取り戻していただく必要があるのです。そして最終的には、初代特異体質者を殺していただきたい』
自分は、理解ってしまった。目の前にいる男は〝初代特異体質者〟なのだ。
血の気が引いていく感覚が、現実感を薄れさせた。
そして自分は、ふと取調室での取り調べの中に出てきた言葉を思い出した。
『ベラトリックス・バグファイア』その名前が、目の前の男の名前なのかは分からないが、もしかしたらそうかもしれないという気持ちが湧いてきた。
男は少し息を飲んだ様子を見せ、一度呼吸を整える素振りを見せたあと、
「ロディ・リッチメインというクソジジイから手渡されたノートパソコンを使って君は、何かしらの事件の取り調べの映像を手にした。確かあの取り調べの映像に出てくる女の名前は、エリナー・ヴァンテージ。容疑者であるエリナーが語った様々なキーワードのうち、君が頭の中に残っているのはこの二つ。〝ケージ〟そして〝パブ〟まあ、キーワードというか、ケージと呼ばれるパブの存在が君の頭の中に残ったわけだ。なぁ、知りたくないか? あの日、三年前、ケージという名のパブで何があったのかを。俺は俺が何者なのか分からない、俺が知りたいくらいだ。だがな、三年前あのパブで何があったのかだけは知ってるぜ。ああ、それにもうひとつ言えるがある。お前がその事件を追いかけることは、記憶取り戻すきっかけになるということをな。俺はさっき言ったろ、お前の記憶を取り戻させる事が出来るってな。じゃあその具体的な手段を見てもらうために手初めに教えよう、三年前のあの日、エリナーが容疑者となったあのパブで何があったのかを――」




