7- 処刑まであと5日
※本話には、ヤンデレ要素および相手の意思を尊重しないハードな描写があります。苦手な方はご注意ください。
小麦についての会議を終えたあとも、アルベルトの仕事は終わらなかった。
むしろ、執務室へ戻ってからの方が面倒だった。
机の上には、アルベルトが席を外していたわずかな間に、新たな書類が積まれている。
小麦の価格高騰ほど重大なものではない。
国を揺るがすような案件でもなかった。
「次を」
書類から目を上げることなく告げる。
待っていた文官が一歩前へ出た。
「来月お迎えするルヴェール王国の使節団についてですが、先方より随行員を追加したいとの申し出がございました」
「そうか」
それだけ答えて、アルベルトは次の書類へ視線を落とした。
けれど、文官は下がらない。
「……まだ何か?」
「追加の六名を受け入れますと、現在予定しております客室では足りません。同時期には別の賓客も滞在されますので、使用する棟の変更が必要になるかと」
「なら、変更すればいいだろう」
「宮内局だけでは判断できかねる部分がございまして……」
アルベルトはようやく顔を上げた。
「去年はどうしていたの?」
「昨年も直前に人数の変更がございました。その際はアルヴェール嬢が、ほかの賓客の日程まで確認されたうえで、空いている棟を宮内局へお知らせくださり……」
紙をめくっていた指が止まった。
セレナ。
先ほどの小麦会議でも聞いた名前だった。
偶然だろう。
「なら、今回も同じように確認して調整して」
「……承知いたしました」
文官が下がる。
入れ替わるように、別の男が前へ出た。
次に出てきたのは、施療院へ納める薬草の話だった。
「仕入れ先から価格改定の申し出が届いております」
「どのくらい?」
「二割ほどです」
「高いね。ほかから取ればいいだろう」
「それが……」
文官が口ごもった。
アルベルトは顔を上げる。
「何?」
「現在契約しております商会は、薬草以外にも包帯や石鹸などを一括して納入しております。そのため薬草だけを別の商会へ切り替えますと、ほかの品についても契約条件が変わる可能性がございまして」
「なら、それも含めて見積もりを取ればいい」
「……はい」
返事が鈍い。
アルベルトは眉を寄せた。
「何か問題が?」
「先日、今回の件についてもセレナ嬢へご相談したのですが、今後は関与されないとのことで……。現在の商会は薬草こそ二割の値上げとなりますが、包帯と石鹸は他社より安価です。一方、薬草を安く提示した商会は、包帯と石鹸が割高で……」
「それで?」
「……現在、比較を進めております」
アルベルトはじっと文官を見つめた。
「……」
沈黙が落ちる。
文官は気まずそうに目を伏せた。
アルベルトは小さく息を吐いた。
――何をしているんだ、この人たちは。
自分の担当する契約だろう。
薬草が値上がりした。
ならば、ほかの品も含めて契約全体を見る。
単価と使用量を並べて、年間でいくらになるのか計算すればいい。
その程度のことだ。
セレナなら、すでに答えを出していたということなのだろう。
それを彼女がいなくなった途端、自分のところへ持ってくる。
――馬鹿なのかな。
何のために、これだけの人間を置いているのだろう。
「もう少し自分たちで考えてみて」
呆れを隠すことなく、アルベルトはにっこりと微笑んだ。
「……次」
「承知いたしました」
ところが、次も似たようなものだった。
王宮の冬季燃料。
今年改修された西棟では暖炉が増えているのに、昨年と同じ量の薪しか発注されていない。
「これでは冬の途中で足りなくなるんじゃない?」
「……その可能性がございます」
「どうして今まで気づかなかったの?」
また沈黙。
嫌な予感がした。
「まさか、これも?」
「一昨年、東棟を改修した際には……アルヴェール嬢が、暖炉の増設数から使用量も増えるのではないかとご指摘くださり……」
アルベルトは目を閉じた。
またセレナ。
だが、それ以上に。
――本当に、何をしているんだろう。
使節の人数が増えれば、部屋が足りなくなる。
仕入れ値が変われば、契約全体への影響を見る。
暖炉が増えれば、薪も増える。
一つ一つは、セレナでなければ分からないような難題ではない。
ただ彼女だけが、誰より早く気づいていた。
問題が起きてから対処するのではない。
問題になる、その一歩前で。
そして周囲はいつの間にか、それが当たり前になっていた。
「今まで問題が起きなかったんじゃなくて」
アルベルトが呟く。
「セレナが起こる前に見つけていたのか」
文官たちは何も答えない。
気まずそうに視線を落とすだけだった。
それが肯定に見えた。
アルベルトは苛立った。
セレナがいないことに、ではない。
セレナが一人いなくなった程度で、次々と問題を持ち込んでくる人間たちに。
「まずは自分たちで、今までセレナが指摘した案件を全部洗い出して」
「はい」
「同じ種類の見落としを二度と僕のところへ持ってこないで」
声は穏やかだった。
それでも文官たちの背筋が伸びる。
「そのために君たちがいるんだろう?」
「……仰せのとおりでございます」
当然だ。
セレナ一人がいなくなった。
それだけのこと。
代わりにほかの人間が仕事をすればいい。
なのに、その日の午後、アルベルトはその後も何度もセレナの名前を聞くことになった。
聞くたびに、奇妙な感覚が残った。
今まで、彼女が何をしているのかなど気にしたこともなかった。
気づけば終わっていたからだ。
だから。
いなくなって初めて、彼女がいた場所の輪郭だけが、妙にはっきりと見えるようになっていた。
――惜しいことをしたかな。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
愛していたわけではない。
けれど、将来の王太子妃として考えるなら、あれほど都合のいい人材はいなかった。
言われる前に気づく。
問題になる前に片づける。
終わったことをいちいち報告して、褒めてもらおうともしない。
それが当たり前だったから、価値に気づかなかった。
リリアには、そういうところがない。
もちろん、求めてもいなかった。
リリアにはセレナにない可愛らしさがある。
自分を頼り、必要としてくれる。
それが好きだったはずなのに。
今日一日セレナの名前を聞き続けたせいだろうか。
あれほど魅力的に見えていたリリアが、少しだけ色褪せて思えた。
◇
夜。
リリアの部屋へ入ったアルベルトは、扉の前で足を止めた。
「……何があったの?」
花瓶が倒れている。
水を吸った絨毯には花が散らばり、引き出しの中身は床へぶちまけられていた。
飾り布まで無残に裂かれている。
その真ん中で、リリアがうずくまっていた。
肩を震わせ、泣いている。
アルベルトはしばらくその光景を眺めた。
――面倒だな。
そんな感想が、真っ先に浮かんだ。
疲れているからだろうか。
散らかった部屋も。
涙を浮かべ、助けを求めるように自分を見上げてくるリリアも。
今日は妙に煩わしく感じる。
もちろん、表情には出さない。
「リリア」
すぐに彼女へ歩み寄った。
「怪我は?」
「私は大丈夫です。ただ……」
リリアが立ち上がり、そのままアルベルトへ身体を預けた。
受け止める。
以前なら愛おしいと思ったはずの重みが、今日はひどく鬱陶しかった。
「これを……」
リリアが紙を差し出した。
受け取って目を通す。
差出人の名はない。
書かれているのは、幼稚な嫌がらせの言葉だった。
「まさかとは思うのですが……セレナ様は、私のことをまだお許しになっていないのでしょうか」
セレナ。
今日一日、嫌というほど聞いた名前。
けれど今度は、不思議と苛立たなかった。
「アルベルト様……私、また具合が悪くなってきました。怖いですわ」
セレナがリリアの部屋を荒らした。
「私、セレナ様に殺されてしまいます!」
セレナが。
リリアを殺す?
以前、リリアは毒を盛られた。
そして今度は部屋を荒らし、脅すような手紙まで送った。
「セレナ様は、私を恨んでいるのですわ!」
リリアの声が耳を通り抜けていく。
「私たちに嫉妬しているのですわ!」
「……セレナ」
その名を口にした途端。
胸の奥で、何かが跳ねた。
セレナが。
自分に。
嫉妬している。
相手の女を殺したくなるほどに。
アルベルトは、その考えを頭の中でもう一度なぞった。
セレナが、自分のために。
リリアを憎んでいる。
心臓が一度、大きく脈打った。
手紙を持つ指先が震える。
アルベルトは、自分の手を見た。
どうして震えているのか分からない。
怖いわけではない。
怒っているわけでもない。
むしろ。
気持ちがいい。
その事実に気づいた瞬間、背筋に甘い痺れが走った。
婚約破棄の日のセレナが浮かぶ。
あのとき。
どうして、あんなに平然としていられたのだろう。
長い婚約だった。
王太子妃になるため、あれほど努力してきた。
それなのに、泣きもしなかった。
縋りもしなかった。
――そうか。
平気だったんじゃない。
見せなかっただけだ。
公爵令嬢として。
未来の王太子妃として。
大勢の前で醜態を晒すことができなかった。
だから耐えた。
何でもないふりをして。
自分から離れたのだって。
――追いかけてほしかった?
そう思った瞬間、また身体の奥から熱が込み上げた。
もし、あのとき追いかけていたら。
セレナは振り返っただろうか。
あの青い瞳を潤ませて。
自分の服を掴んで。
『行かないでくださいませ』
想像の中で、セレナが縋る。
「……っ」
息が詰まった。
見たい。
そんなセレナを。
もっと見たい。
いつも完璧なセレナが、自分のことで理性を失うところを。
自分しか知らないセレナを。
「アルベルト様?」
現実へ引き戻された。
リリアが自分を見ている。
アルベルトは笑った。
自然に出た笑顔だった。
無言で、その頬を撫でる。
リリアは嬉しそうに目を細め、アルベルトの手へ頬を寄せた。
――セレナだったら。
ふいに思う。
この手に頬を寄せるセレナ。
いつもの凛とした顔ではなく。
自分に触れてほしくて、甘えるセレナ。
また、甘い痺れが全身を駆け抜けた。
アルベルトはリリアの手を取った。
その指先へ唇を落とす。
セレナ。
もう一度、口づける。
セレナ。
胸の奥が満たされていく。
――ああ。
愛しい。
そうか。
僕は、セレナが愛しいんだ。
アルベルトは笑った。
ようやく、自分の気持ちが分かった気がした。
「あっ……アルベルト様……」
熱を帯びた声。
アルベルトは顔を上げた。
頬を赤らめたリリアが、潤んだ瞳で自分を見つめている。
「――――」
違う。
さっきまで身体を満たしていた熱が、嘘のように引いていく。
セレナではない。
目の前にいるのは、リリアだ。
ふと、床に落ちていた裂けた布が目に入った。
アルベルトはそれを拾い上げる。
「アルベルト様?」
リリアの前へ戻る。
そして、その布を広げた。
頭から、そっと被せる。
髪が隠れる。
目が隠れる。
頬が。
唇が。
リリアだと分かるものが、すべて見えなくなる。
それだけで、また身体の奥が熱を持った。
「アルベルト……様?」
「黙って」
「……え?」
「かわいいよ」
布の上から頬へ触れる。
かわいいよ。
セレナ。
もし今夜、自分がここに泊まったとセレナが知ったら。
どんな顔をする?
また心臓が強く鳴った。
アルベルトは目を閉じる。
浮かぶのはセレナだった。
『アルベルト様』
想像の中で、自分を呼ばせる。
いつもの落ち着いた声ではない。
少し震えている。
青い瞳には涙が滲んでいる。
『行かないでくださいませ』
心臓が跳ねた。
指先が震える。
息が浅くなる。
身体の内側から熱がせり上がってくる。
「アルベルト様?」
また。
リリアの声。
アルベルトは目を開けた。
いつの間にか布をずらしたリリアが、不思議そうにこちらを見ている。
その瞬間、熱が途切れた。
違う。
今は。
その顔も。
その声も。
見たくない。
アルベルトはもう一度、リリアの顔へ布を被せた。
「アルベルト様、これは――」
「黙って」
「でも……」
「お願いだから」
思った以上に低い声が出た。
リリアが黙る。
ようやく顔も声も消えた。
アルベルトは安堵した。
これならいい。
これなら、セレナを見ていられる。
「……うまく、できないから」
――君の顔と声では。
リリアは何かを勘違いしたらしい。
布の下で、小さく頷いた。
アルベルトはその身体へ、そっと唇を落とす。
セレナには、一度も触れなかった。
長い間、婚約者だったのに。
大切にしていた――というのとは、少し違う。
公爵令嬢だったから。
未来の王太子妃になる女性だったから。
傷をつけてはいけない。
粗末に扱ってはいけない。
そういうものだと思っていた。
けれど。
アルベルトは、顔の見えない女を見下ろした。
――この女は、ただの男爵令嬢だ。
目を閉じる。
すぐにセレナが現れる。
ああ、セレナ。
僕のセレナ。
今夜のことを知ったら、君はどんな顔をする?
怒る?
泣く?
それとも。
ようやく僕に縋ってくれる?
想像するだけで、また身体の奥が熱くなる。
セレナ。
セレナ。
セレナ。
熱に浮かされるまま、アルベルトは顔の見えない女を抱き寄せた。
その夜。
彼の頭の中にいたのは、最初から最後まで。
ここにはいない、セレナだけだった。
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