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処刑まであと7日。悪役令嬢はもう何もしません  作者: すなな


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6/15

6- 処刑まであと5日

翌朝。


セレナは、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。

いつもより部屋が明るい。

ぼんやりと天井を見つめたまま、何かがおかしいと思った。

枕元の時計へ手を伸ばす。

七時を少し過ぎていた。


「……七時」


一気に目が覚めた。

寝過ごした。

反射的に身体を起こし、寝台から降りようとする。

今日の予定は何だったか。

午前中に、隣国から届いた親書への返答案を確認するはずだった。

朝食を済ませたら王宮へ向かい、その前に昨日届いた報告書にも目を通して。

そこまで考えて、動きが止まった。

セレナはゆっくりと枕へ頭を戻した。


「……行かなくていいのだったわ」


誰も待っていない。

返答案がどうなろうと、もうセレナが確認する必要はない。

七時まで眠ったというのに、まだ朝が余っている。

こんな朝をどう過ごせばいいのか、分からなかった。

もう少し眠ってみようか。

布団を引き上げ、目を閉じる。

鳥の声が聞こえる。

廊下を歩く使用人の足音もする。

寝返りを打つ。

もう一度、反対側へ。

やがてセレナは目を開けた。


「……無理ね」


身体に染みついた習慣というものは、そう簡単には消えてくれないらしい。

諦めて起き上がる。

床へ足を下ろしたところで、ふと昨日の庭を思い出した。


月白草。


夕方になって初めて知った、あの甘い香り。

そして。

髪に触れた指先まで思い出しかけて、セレナは立ち上がった。


「着替えましょう」


誰に聞かせるでもなく、少しだけ大きな声で言った。









昼前。


王宮の執務室には、朝から同じ顔ぶれが揃っていた。

机の上には、北部穀物協会から提出された収穫予測、国内の備蓄量、昨年の輸入実績。

その隣には、ヴァレン商会から届いた今年の見積書が置かれている。

財務局長は、その紙をもう何度目か分からないほど見返していた。


「……やはり、この金額では承認できません」


向かいに座るレオンは、わずかに眉を上げた。


「そうですか」

「昨年とはあまりにも違います」

「昨年とは条件が違いますから」


財務局長が見積書を机へ置く。


「それにしても高すぎる。輸送費、護衛費、保管料まで、すべてこちらの負担になっている」

「ええ」

「昨年は、このような費用は」


そこまで言って、財務局長が口を閉じた。

レオンは何も言わず、その先を待った。


昨年まで、国境から王都までの輸送にはアルヴェール公爵家の馬車と馬が使われていた。

御者も、荷を扱う人員も公爵家が出していた。

途中の倉庫も、護衛も。

輸送中に事故が起きた場合の損失まで、公爵家が引き受けていた。


それが今年は、ない。


財務局長が重い息を吐いた。


「……公爵家が手を引いたからといって、ここまで変わるものですか」

「今まで誰かが負担していたものが、なくなったわけではありませんから」


レオンは淡々と答えた。


「王都まで運べとおっしゃるなら、馬車も馬も御者も護衛も必要です。保管する場所もいる。当然、その費用はかかります」

「しかし、穀物そのものの価格まで上がっている」

「そちらは別の話です」


財務局長の眉が寄った。

レオンは机の上の見積書へ指を置いた。


「今年は、他国からも買い付けの話が来ています」

「だから我が国への価格を上げると?」

「高く買う相手がいるのに、安く売れと言われても困ります」


穏やかな声だった。


「それに、私どもの商会だけで決められることでもありません。生産者も、こちらへ穀物を卸す商会も、昨年と同じ条件では納得しない」


財務局長は黙った。

レオンのもとにも、ここへ来る前から何度も同じ言葉が届いていた。

もっと高く売れる。

保証を失った王国を優遇する理由はない。

今後さらに値が上がるのなら、今まとめて売る必要もない。

どれも商売としては間違っていない。

それだけに厄介だった。


「こちらとしても、これが出せる条件です」


財務局長が顔を上げる。


「これが?」

「ええ」


レオンは薄く笑った。


「お気に召さなければ、他を当たっていただいて構いません」


室内が静かになった。

誰も、すぐには答えなかった。

やがて財務局長が別の書類を差し出した。


「……では、数量はこちらで」


レオンは目を通す。

今度は笑みが消えた。


「この数量で?」

「昨年とほぼ同じです」


レオンは北部穀物協会から提出された収穫予測を引き寄せた。

数枚めくる。


「西部では長雨が続いていると聞いていますが」

「まだ被害の全容は出ていません」

「では、足りなくなってから追加で買うと」

「必要であれば、その時点で検討します」


レオンはしばらく財務局長を見た。


「その頃に、今日と同じ値段で買える保証はありませんよ」


財務局長の口元が固くなる。

向かいの官僚が、そっと手元の数字を見直した。

「本当にこの量で足りるのか。それだけは、もう一度ご確認いただいた方がよろしいかと」


そのときだった。


「でも、小麦が少しくらい足りなくても大丈夫じゃないですか?」


場に似つかわしくない柔らかな声が割って入った。

レオンが顔を上げる。

アルベルトの隣に座る若い娘が、こちらを見ていた。

淡い桃色のドレスに、柔らかなピンク色の髪。

頬にはあまり血の気がない。

先ほどアルベルトがリリアと呼んでいた娘だ。


「と、言いますと?」


「パンがなければ、ほかのものを食べればいいですし」


あまりにあっさりと言うので、レオンは一瞬だけ黙った。

アルベルトが苦笑する。


「リリア。そう簡単な話ではない」

「そうなんですか?」

「そうなんだ」

「難しいんですね」


リリアはアルベルトの袖をそっと引いた。


「それより、アルベルト様」

「どうした?」

「本当にセレナ様を呼ぶんですか?」

「ああ。以前はセレナが北部穀物協会からの報告を確認して、輸入量の調整までしていた。聞いた方が早い」


リリアの表情が曇った。

袖を掴む指先に力が入る。


「……怖いです」


アルベルトが眉を寄せた。


「リリア」

「だって、わざわざセレナ様を王宮へ呼ぶなんて」


リリアはアルベルトを見上げた。


「私を選んでくださるんですよね?」


誰も動かなかった。

財務局長が静かに視線を落とす。

向かいの官僚は手元の資料を一枚めくった。

レオンは椅子の背へわずかに身体を預けた。


「今はその話をしているんじゃない」


アルベルトが声を落とした。


「分かっています。でも……」


リリアは胸元へ手を添えた。


「私、まだ毒のせいで身体が苦しいんです」

「なら、部屋で休んでいろ」

「でも、アルベルト様のおそばにいたくて」

「リリア……」

「セレナ様がいらしたら、また何かされるんじゃないかって……」




ぱたん。




レオンが資料を閉じた。


乾いた音が、二人の会話を断ち切った。

それまで気まずそうに資料へ目を落としていた官僚たちまで顔を上げる。


しん、と室内が静まり返った。

アルベルトとリリアも、ようやくレオンを見た。


「殿下」


レオンは笑みを崩さなかった。


「続きは、お二人だけのときになさってはいかがです?」


アルベルトが気まずそうに咳払いをする。


「……すまない」

「いえ」


レオンは何事もなかったように資料を開き直した。


「では、小麦の話に戻りましょう」


先ほどより、少しだけ疲れた声になった。










昼食を終えたセレナは、自室で食後のお茶を飲んでいた。

窓を少し開けている。

庭から入ってくる風がカーテンを揺らし、テーブルの上に落ちた日差しがゆっくりと形を変えていた。

午前中、何もしなかった。

正確には、本を少し読んだ。

庭も歩いた。

それだけだ。


それなのに一日がずいぶん長く感じる。

カップへ口をつけたところで、扉が叩かれた。

侍女が入ってくる。


「お嬢様。王宮より使者がお見えです」


セレナの手が止まった。


「お父様に?」

「いえ、お嬢様にございます」


カップをソーサーへ戻す。


「私に?」

「王太子殿下がお呼びとのことです」

「用件は?」

「小麦の輸入について、お話を伺いたいと」


セレナは黙った。

北部穀物協会から、今年の見込みはすでに王宮へ届いているはずだ。

その数字を見て、国内の備蓄と照らし合わせ、不足分を国外から確保する。

毎年やってきたことだった。


「……そう」


セレナは残っていたお茶を一口飲む。


「分かりました。支度をするわ」


逃げるつもりはなかった。

ただ、もう自分の仕事ではない。

それを伝えればいい。









王宮へ着いた頃には、午後の日差しが長い廊下へ斜めに差し込んでいた。

磨かれた床に、窓枠の影が等間隔に落ちている。

何度歩いたか分からない廊下だった。

以前なら、この時間には次の予定を考えながら歩いていた。


今日は何も持っていない。

書類も。

予定表も。


セレナは自分の両手を一度だけ見てから、執務室へ入った。

アルベルトが机の前に立っている。

その横には財務局長と官僚が二人。

窓際にはレオンがいた。


目が合った。


レオンの口元が、ほんの少し上がる。

なぜか昨日の月白草が頭をよぎった。

セレナはすぐにアルベルトへ視線を戻す。


「お呼びと伺いました」

「ああ」


アルベルトは机の上から二枚の書類を取った。


「国外から買い付ける小麦についてだ」

「はい」


「財務局では昨年と同程度の量を考えている。だが、ヴァレン商会から見直すよう言われた」


セレナはちらりとレオンを見る。

彼は何も言わない。


「それで?」

「君なら分かるだろう」

「何がでしょう」


アルベルトの眉が寄る。


「今年、どれだけ必要なのかだ」

「財務局でお決めになればよろしいのでは?」

「だから、その数字に問題がないかを聞いている」

「私に?」

「ああ」


あまりにも当然の返事だった。

セレナはしばらくアルベルトを見た。

昨日までなら、もう書類を受け取っていただろう。

不足量を計算し、商会との条件を確認する。

必要なら北部穀物協会へ追加の資料を求め、父には輸送に使える馬車と人員の確認を頼む。

考えるより先に、次にやるべきことが浮かんでしまう。


「お断りいたします」


室内が静かになった。


「……何?」


「私には関係のないことですので」

「関係がない?」

「王家がどこから、どれだけ小麦を買うのか。もう私が決めることではございません」


アルベルトは眉間を押さえた。


「まだ婚約破棄のことで怒っているのか」

「いいえ」

「なら、なぜだ」


セレナはアルベルトを見る。


「私でなければできないことなのですか?」


アルベルトが口を閉じた。


「違いますでしょう?」

「だが、これまでは君がやっていた」

「ええ」

「なら」

「私がいなくても、この国は何も変わらないのでしょう?」


アルベルトの言葉が途切れた。

言ってから、セレナも黙った。


処刑台の上。

青い空。

耳に残った声。


『君がいなくても、この国は何も変わらない』


ほんの一瞬だけ、首筋に冷たいものが触れた気がした。

目の前のアルベルトには、まだ覚えのない言葉だ。


「……何の話だ?」

「こちらの話です」


セレナはそれ以上言わなかった。


「それに、婚約は殿下がお破棄になりました」

「それとこれは別の話だ」

「私には同じです」

「セレナ」

「王太子妃になるために担っていたことです。もう、その必要はございません」


アルベルトは何も言わなかった。

怒ると思っていた。

けれど、その顔に浮かんでいるのは、理解できないものを見るような戸惑いだった。





「では、せめてこれを見てくれ」


アルベルトが二枚の書類を差し出した。

一枚は買い付け予定量。

もう一枚は、ヴァレン商会からの見積書だった。

セレナは受け取らなかった。

受け取るつもりもなかった。

けれど、紙面を伏せるより先に数字が目に入った。


高い。


昨年とはまるで違う。

見積書の内訳へ目を走らせる。

輸送。

護衛。

保管。


昨年までなら、その多くをアルヴェール公爵家が担っていた。

父の領地にある倉庫。

公爵家の馬車と馬。

御者も、荷を扱う者も、護衛もいた。

今年は、そのどれもない。


父が王家への新たな支援を止めたのだから、当然だった。


それでも。

セレナの視線が、小麦そのものの単価で止まった。

こちらまで上がっている。

市場価格だけでは説明がつかない。

ヴァレン商会ほどの規模でも、好きな値段で穀物を集められるわけではない。


誰かが売り渋っている。

あるいは、もっと高く買う相手をちらつかせている。


セレナはレオンを見た。

視線がぶつかった。

彼は何も言わなかった。

いつもの笑みもない。

その顔からは何も読めなかった。

セレナは先に目を逸らした。


そして、もう一枚。

買い付け予定量。


少ない。

北部穀物協会から出ている予測。

昨年の備蓄量。

西部で続いている長雨。

頭の中で数字が勝手につながっていく。

この価格で、この量。

足りなくなってから追加で買えば、その頃にはさらに値が上がっているかもしれない。

セレナは書類から目を逸らした。

もう自分には関係がない。そう決めたばかりなのに。

頭に浮かんだのは、以前、視察で訪れた平民街。


まだ朝靄の残る通りに、焼きたてのパンの香りが漂っていた。

仕事へ向かう前に、小さなパンを二つ紙へ包んでもらっていた男。

店先で銅貨を数えていた母親。

その横で、籠の中を覗き込んでいた幼い子ども。

母親はしばらく迷ったあと、選んでいたパンを一つ棚へ戻した。

あのときは、ただ通り過ぎた。

それでも、その指先だけは覚えている。


セレナの視線が、もう一度書類へ落ちた。

西部の収穫量を、もう一段低く見積もる。

南部から王都へ回せる量を確認して、それでも足りない分を今のうちに。


「……いえ」


セレナは小さく息を吐いた。

アルベルトが眉を寄せる。


「何だ?」

「何でもございません」


書類から目を離す。

あと少しで、いつものように続きを考えるところだった。



レオンは黙って、その横顔を見ていた。

昼前に聞いた声が蘇る。

『パンがなければ、ほかのものを食べればいいですし』

今、目の前にいる女は、たった一枚の見積書を見ただけで顔を曇らせた。

自分の仕事ではないと言い切ったくせに、数字から目を離すまでに随分とかかった。

レオンはアルベルトへ視線を移した。

王太子妃にするなら、どちらか。

考えるまでもない。


馬鹿な男だ。




「セレナ」


アルベルトが呼ぶ。


「何でしょう」

「今、何か気づいただろう」

「いいえ」

「嘘をつけ」


セレナは答えなかった。


「このまま不足すれば、困る者が出るんだぞ」


胸の奥が、わずかに痛んだ。

数字など、見なければよかった。

それでもセレナは書類へ目を戻さなかった。


「それを考えるのは、殿下のお役目です」


アルベルトが黙る。

その沈黙を待たず、セレナは一礼した。


「失礼いたします」


今度こそ振り返らず、部屋を出た。







外へ出ると、午後の風が頬を撫でた。

セレナは馬車へ向かおうとする。


「セレナ嬢」


呼ばれて振り返った。


「このあと、何かご予定は?」

「いいえ。屋敷へ戻るつもりですけれど」

「では、デートをしましょう」

「……はい?」


あまりにも自然に言われて、セレナは聞き返した。


「デートです」

「聞こえております」

「それならよかった」

「そうではなくて……会議は?」

「終わりましたよ」

「休憩だったのでは?」


レオンは少しだけ目を細めた。


「あなたがいないのなら、どうせすぐにはまとまりません」

「だからといって抜け出してよい理由にはなりませんわ」

「厳しいですね」

「当然です」


レオンは小さく息をついた。


「仕方ありません。少しだけ顔を出してきます」

「少しだけではなく、最後まで出てくださいませ」

「それでは、いつ終わるか分からない」

「会議とはそういうものでしょう」

「困りましたね。私はあなたとデートがしたいのですが」


あまりにもさらりと言われて、セレナは返事に詰まった。

レオンはそんな彼女を見て笑う。


「夕刻の鐘ではいかがです?」

「……何がですの」

「待ち合わせです」


まだ行くとは言っていない。

そう返すはずだった。

けれどレオンは、それより先に尋ねた。


「行きたいところはありませんか?」


行きたいところ。

その言葉に、ふと一軒の店が浮かんだ。

馬車の窓から何度も眺めていた。

いつか時間ができたら入ってみたい。

そう思いながら、結局一度も行けなかった店。


「……あります」


答えてから、セレナは口を閉じた。

レオンの笑みが深くなる。


「では、決まりですね」

「まだ何も決まっておりません」

「夕刻の鐘に西門で」

「ヴァレン様」

「会議がありますので」


そう言って踵を返したレオンを、セレナは呆れて見送る。

数歩進んだところで、レオンが足を止めた。


「セレナ嬢」


振り返った青みがかった灰色の瞳から、先ほどまでの揶揄うような色が消えていた。


「あなたは、もう少し自分のことだけ考えてもいいと思いますよ」


セレナは目を瞬いた。

何か返そうとした。


けれど、言葉が出てこなかった。

そんなことを言われたのは、初めてだった。

レオンも返事を求めなかった。


「では、あとで」


今度こそ王宮へ戻っていく。

セレナは馬車の扉に手をかけたまま、その背中を見送った。


夕刻の鐘。


断ることだってできる。

そう思いながら馬車へ乗り込む。


けれど頭の中にはもう、あの店の看板が浮かんでいた。

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