4- 処刑まであと6日
「旦那様がお戻りになりました」
朝食を終えたばかりのセレナに、侍女が告げた。
父は領地へ出ていたはずだ。戻るのは三日後と聞いていた。
「もう?」
「昨夜のことをお知りになったようで、予定を早められたそうです」
父の耳にも、もう昨夜のことが入ったらしい。
婚約破棄だけならともかく、娘が殺害未遂を疑われているのだ。予定を切り上げて戻ってきたのも無理はなかった。
セレナが執務室へ向かうと、父は机の前に立っていた。旅装すら解いていない。
「座りなさい」
いつもと変わらない声だった。
セレナが腰を下ろすと、父も向かいに座った。
「婚約を破棄されたそうだな」
「はい」
「リリア・エヴァンス嬢に毒を盛ったと?」
「私はしておりません」
父はセレナの顔を見た。
それから、一度だけ頷いた。
「分かった」
セレナは思わず父を見返した。
「それだけですか?」
「何がだ」
「理由を聞かなくてもよろしいのですか」
「お前がやっていないと言っただろう」
あまりにも当然のように言われて、セレナは何も返せなかった。
前の人生でも、父はこうだったのだろうか。
思い出そうとしても、よく覚えていなかった。
あの七日間、セレナはアルベルトに信じてもらうことばかり考えていた。父が自分を疑ったことがあったのかさえ、今となっては思い出せない。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「信じてくださって」
父は怪訝そうな顔をした。
「当たり前だろう」
それだけ言うと、机の上の書類に目を落とした。
「審問は七日後だ。それまでは、お前の身柄は公爵家で預かることになった」
「分かりました」
「屋敷から出るなとは言わん。ただ、今は余計な騒ぎを起こすな」
「はい」
父が何か言おうとしたところで、扉が叩かれた。
入ってきた執事が一礼する。
「旦那様、お客様がお見えです」
「誰だ」
「ヴァレン商会の会長、レオン・ヴァレン様です」
その名前を聞いて、セレナは顔を上げた。
ヴァレン商会。
隣国の穀物を扱う大商会で、この国が輸入する小麦の多くを取引している。
そしてレオン・ヴァレンは、何年も書簡を交わしてきた相手だった。
こちらが価格を下げようとすれば、別の条件を持ち出してくる。少し譲歩を求めれば、その分を別のところできっちり取り返そうとする。
顔を見たことはない。けれど、名前だけならよく知っている。
「私に?」
「お嬢様にお会いしたいとのことです」
父の表情がわずかに変わった。
「分かった。応接室へ通してくれ」
執事が退室する。
セレナも立ち上がろうとしたが、父に止められた。
「お前はここにいなさい」
「私に会いにいらしたのでしょう?」
「先に私が話す」
いつもより少し低い声だった。
「……分かりました」
父はそれ以上説明せず、執務室を出ていった。
◇
応接室では、レオンが窓際に立っていた。
公爵が入ると、レオンは振り返って一礼した。
「突然押しかけて申し訳ありません」
「先触れくらい寄越してくださればよかったものを」
「寄越したら断られそうでしたので」
悪びれた様子はない。
公爵は向かいの椅子に腰を下ろした。
「今回は、いつまでこちらに?」
「一週間ほどです」
「随分と長いですね」
「王宮との交渉もありますから」
使用人が茶を置き、部屋から下がっていく。
扉が閉まるのを待って、公爵はレオンを見た。
「それで、今日は商会会長としてですか。それとも」
「今日は商会の方です」
レオンも腰を下ろした。
「セレナ嬢が今年の交渉から外れたと聞きました」
「耳が早いですね」
「何年もやり取りしてきた相手から返事が来なくなれば、こちらも気になります」
公爵はすぐには答えなかった。
「その件なら、事情が変わりましてね」
「事情?」
「娘と王太子殿下の婚約が破棄されました」
レオンの表情から笑みが消えた。
「婚約を?」
「昨日のことです。娘はリリア・エヴァンス嬢への殺害未遂を疑われています」
レオンは眉を寄せた。
「それは知りませんでした」
「今はこの屋敷で謹慎中です」
「それなら、交渉から外れたのも無理はない」
「娘自身が決めたことです」
レオンは少し考えてから、公爵を見る。
「セレナ嬢に会えますか」
「そのために来たのでしょう」
公爵はベルを鳴らした。
◇
セレナが応接室へ入ると、窓際にいた男が立ち上がった。
思っていたより若い。商会の会長と聞いていたから、父と同じくらいの年齢を勝手に想像していた。けれど、目の前の男は二十代半ばほどに見える。
艶のある黒色の髪に、青みがかった灰色の瞳。背が高く、立ち上がると余計にそれが目についた。
何年も書簡でやり合ってきた相手が、こんなに整った顔をしていたとは思わなかった。
もっと気難しそうな男を想像していたのだ。
「セレナ。こちらがヴァレン商会会長のレオン・ヴァレン殿だ」
「初めまして」
セレナは一礼した。
「セレナ・アルヴェールです」
「レオン・ヴァレンです」
声は思っていたより低かった。
セレナは顔を上げ、改めて彼を見る。
「あなたが、あの書簡を書いていらしたのですね」
「ええ。ようやくお会いできました」
「お会いすることになるとは思っていませんでしたわ」
これは本心だった。
少なくとも前の人生では、一度も会っていない。
婚約を破棄されたあとも、セレナはヴァレン商会とのやり取りを続けていた。けれど最後まで、レオン本人が王都へやって来ることはなかった。
今回は違う。
自分が返事を書かなかったからだろうか。
それだけで、わざわざ会長本人が来るものなのか。
「私は一度、お会いしてみたいと思っていましたよ」
レオンの声で、セレナは考えるのをやめた。
「なぜです?」
「毎年、ずいぶん厳しい条件を出されますから。どんな方なのかと」
「それはヴァレン様も同じでしょう」
「私は商人ですから」
「私も必要なものを、必要な価格で買おうとしただけですわ」
レオンが笑った。
「やはり、あなたで間違いないようですね」
セレナは眉を寄せた。
会ってまだいくらも経っていないのに、どうも調子を乱される。
書簡なら、相手の文章を何度でも読み返せた。返事を書く前に考える時間もある。
顔を合わせて話すのは、思っていたよりやりにくい。
セレナは父の隣へ腰を下ろした。
「それで、今日は?」
「今年の交渉から外れたと聞きまして」
やはり、その話だった。
「事情はお父様から?」
「伺いました」
「でしたら、その通りです。今年からは王宮と直接お話しください」
これで終わり。そのつもりだった。
ところがレオンはすぐには返事をせず、セレナを見ている。
「戻る予定は?」
「ありません」
「これまでのあなたなら、そう簡単には手放さなかった気がしますが」
セレナは眉を寄せた。
「私をご存じないでしょう」
「そうでしょうか」
思いがけない返事だった。
「お会いするのは今日が初めてですわ」
「ええ。ですが、何年もあなたの書簡を読んできました。少しくらいは知っているつもりですよ」
初対面の男に自分を知っていると言われるのは、妙な気分だった。
けれど、互いの顔を知らないだけで、付き合いそのものは短くない。何年も、何通もの書簡を交わしてきた。レオンの名前を見ただけで、今度は何を言ってくるつもりなのかと身構えたことさえある。
もしかすると、向こうにとっても同じなのだろうか。
「こちらが値を上げれば、すぐに理由を聞いてくる。条件を変えれば、必ず別案が返ってきた」
「仕事ですもの」
「ええ。だから少し意外でした」
「何がです?」
「その仕事を、こんなに簡単に手放したことが」
簡単に。
その言葉が少しだけ引っかかった。
簡単だったわけではない。前の人生では、手放せなかった。婚約を破棄されても、屋敷に閉じ込められても、まだ自分にできることがあるのならと書類を読み続けた。
処刑されると決まってからも。今朝だって、商会から届いた書状を前にペンを取った。手を止めるだけのことが、あんなにも難しかった。けれど、それをレオンに話す理由はない。
「王太子妃になる予定がなくなりましたから」
「それだけですか?」
「十分ではありませんか?」
レオンは何か言いたそうに見えた。
セレナはその視線を受け止める。
やがて彼の方が先に引いた。
「そうですね」
あっさりした返事だった。なぜか少しだけ拍子抜けする。もっと食い下がってくると思っていた。
書簡では、こちらが断った程度で諦める男ではなかったからだ。
「では、今年は王宮と直接交渉します」
「お願いいたします」
本当に、自分を通さずに交渉が始まる。それを望んだのは自分なのに、長年握っていたものを急に手から離したような心許なさがあった。
セレナは膝の上で指を組んだ。それでも、口を出すつもりはなかった。
これで話は終わった。
そう思って立ち上がろうとしたときだった。
「そういえば、今年は東部の雨が多いそうですね」
セレナは反射的に頷きかけて、やめた。
東部の雨が多いなら、収穫量は少し落ちるかもしれない。
それなら南部から回せばいい。
ただ、それだと輸送に時間がかかる。
今からなら十分間に合う。けれど王宮が商会との交渉を始め、それから各地の収穫量を調べて判断するとなれば、少し遅い。
先に輸送枠だけでも押さえておけば。
そこまで考えて、セレナははっとした。
何を考えているのだろう。もう自分の仕事ではない。
顔を上げる。
レオンと目が合った。
彼は何も言わない。ただ、少しだけ楽しそうだった。
「……今、私に考えさせましたね」
「私は雨の話をしただけですが」
「でしたら、私に話す必要はなかったでしょう」
「世間話ですよ」
絶対に違う。
書簡でもそうだった。
こちらが不用意に一つ答えれば、そこから必要な情報を拾っていく。
顔を合わせても同じらしい。
「何も申し上げませんから」
「まだ何も聞いていませんよ」
「これから聞くおつもりでしょう」
レオンの口元が緩んだ。やっぱり、この男は苦手だ。
書簡のままの方がよかったかもしれない。
「失礼いたします」
セレナは立ち上がった。
「セレナ嬢」
また何か聞かれるのかと思いながら振り返る。
「何でしょう」
「今年は王宮と話します。あなたの希望通りに」
「ええ」
「助言もなし?」
「いたしません」
「一言も?」
「一言も」
今度は、はっきりと笑った。
「分かりました」
何がそんなにおかしいのか。セレナには分からなかった。
ただ、部屋を出る直前まで、レオンの視線が自分に向けられているのを感じていた。
◇
扉が閉じる。
レオンはしばらく、セレナが出ていった扉を見ていた。
「楽しそうですね」
公爵の声に振り返る。
「そう見えましたか?」
「見えました」
レオンは否定せず、冷めかけた茶に口をつけた。
書簡では、もっと怖い女だと思っていた。
こちらが何を書いても、返ってくるのは数字と条件ばかり。少しでも曖昧なことを書けば、次の手紙ではそこを突かれた。
実際に会ってみれば、思っていたより分かりやすい。
雨の話をした途端、黙り込んだ。
それなのに、こちらの意図に気づくと何も教えようとしない。
レオンは思い出して笑った。
「面白い方ですね」
公爵の眉が動いた。
「私の娘ですが」
「存じています」
「あまり面白がらないでいただきたい」
「失礼しました」
そう答えたものの、公爵の目はまだ疑わしそうだった。
レオンはカップを置いた。
「そういえば、客室は空いていますか」
「空いていますが」
「では、一週間ほどお借りしても?」
公爵が怪訝な顔をした。
「宿を取っているのでしょう」
「ええ」
「なら、そこへ泊まればいい」
もっともな話だった。王都には一週間滞在する予定で、宿もすでに用意してある。
今朝までは、そこに泊まるつもりだった。
「明日から王宮との交渉を始めます」
「それで?」
「今年はセレナ嬢が間に入らない。これまでと同じようにはいかないでしょう」
「それは王宮の問題です」
「公爵家にも無関係ではないのでは?」
公爵の表情がわずかに変わった。
「何かお考えのようですね」
「商人は勘がよすぎて困る」
「褒め言葉として受け取っておきます」
公爵はしばらく黙っていた。
「一週間だけです」
「ありがとうございます」
「ただ、娘は今、面倒な立場にあります。あまり振り回さないでいただきたい」
「そのつもりはありませんよ」
返事が早い。
公爵はレオンをじっと見た。
「何です?」
「いえ」
公爵はため息をついた。
「ずいぶん楽しそうだと思いまして」
レオンは否定しなかった。




