2- 処刑まであと7日
「お嬢様。北部穀物協会のハロルド様がお見えです」
遅めの昼食を終えたセレナは、紅茶のカップを置いた。
「ハロルド様が?」
「はい。今年の収穫見込みについて、お話があるとのことです」
セレナはちらりと机を見る。
北部穀物協会から届いた書状が、昨日と同じ場所に置かれていた。
例年なら、届いたその日のうちに目を通し、気になる数字に印をつけ、必要なら追加の報告を求めている頃だ。
毎年この時期になると、ハロルドからセレナのもとへ書状が届いた。
今年も、それだけのことだ。
違うのは、セレナが返事をしていないことだけ。
「応接室へお通しして」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ていく。
セレナは立ち上がり、いつもの癖で机へ向かった。
協会からの書状に手を伸ばす。
昨年の収穫量。
王都へ回した量。
北部に残した備蓄。
確か、三年前は春先の価格が少し上がったはずだから、その年の記録もあった方が――
指先が紙に触れる前に止まった。
「……必要ありませんわね」
何をするつもりだったのだろう。
今日は何かを決めるために会うわけではない。
そもそも、今年の穀物をどうするか考える必要すらない。
セレナは伸ばしていた手を戻した。
机の上には何も触れず、そのまま応接室へ向かった。
◇
「突然の訪問をお許しください、アルヴェール様」
セレナが入ると、ハロルドはすぐに立ち上がって頭を下げた。
五十代半ばの、物腰の柔らかな男だ。
北部穀物協会の会頭として、農家や領主、商人たちの間を長年取りまとめている。
穏やかな顔に似合わず数字には細かく、一袋の行方まで把握しているのではないかと、以前セレナが冗談を言ったこともあった。
もう何年も、毎年この時期になると顔を合わせている。
「お待たせしました。どうぞお掛けになって」
「ありがとうございます」
二人が向かい合って座る。
ほどなくして紅茶が運ばれた。
いつもと同じ茶器。
いつもと同じ席。
けれど今日は、セレナの手元に書類が一枚もない。
ハロルドの視線が、一度だけテーブルの上を滑った。
何も言わなかったが、気づいたらしい。
侍女が下がると、ハロルドは革鞄から書類を取り出した。
「先日お送りした報告についてですが」
「拝見しました」
「それはよろしゅうございました」
その返事を聞いて、ハロルドの表情がわずかに緩んだ。
返事がなかったので、届いていない可能性まで考えていたのだろう。
「その後、各地から新しい見込みが上がってまいりまして」
一枚の紙がテーブルへ置かれた。
セレナは目を落とした。
見るつもりはなかった。
けれど、見慣れた地名と数字が並んでいれば、目が勝手に追ってしまう。
北東部はほぼ予測通り。
中央部も大きな変動はない。
けれど――
「……前回より下がっていますね」
口にしてから、セレナはほんの少し眉を寄せた。
ハロルドが小さく笑う。
「やはりお気づきになりますか」
「これだけ並んでいれば」
「そうおっしゃると思いました」
書類の端を、ハロルドの指が軽く押さえる。
「今のところ、北部全体で大きく不足するほどではございません。ただ、例年より余裕がないのは確かです」
「そうでしょうね」
答えながら、セレナの頭の中ではすでに数字が動き始めていた。
北部で消費する分を残す。
冬を越すための備蓄も必要だ。
そこから王都へ回せる量を引けば――
セレナはカップを持ち上げた。
考えない。
「ですので、王都へ回す量について、そろそろご相談しておいた方がよろしいかと」
ハロルドは当然のようにセレナを見ている。
例年なら、ここから話が始まる。
どこまでなら北部から出せるのか。
備蓄をどこまで残すのか。
前年の消費量は。
王都の在庫は。
必要なら、その場でいくつか数字を書き出していた。
けれど今年は。
「そのお話でしたら、王宮の財務局へお願いいたします」
ハロルドの手が止まった。
「……財務局へ、でございますか?」
「ええ」
ハロルドはしばらくセレナを見ていた。
冗談かどうかを確かめているようだった。
やがて、ゆっくりと書類から手を離す。
「失礼ながら、私どもに何か不手際がございましたでしょうか」
「いいえ」
セレナはすぐに否定した。
「ハロルド様にも、協会にも何もございません」
「では、なぜ」
「北部から王都へどれだけ穀物を回すのか。その不足をどう補うのか。それを決めるのは、本来王宮の仕事でしょう?」
ハロルドは口を閉じた。
間違ったことは言っていない。
むしろ、それが本来の形のはずだった。
それなのに、ハロルドはひどく困った顔をしている。
「確かに、その通りではございますが……」
「でしたら、今後は財務局と直接お話しいただくのがよろしいかと」
「しかし、例年ですと、こちらの数字をアルヴェール様にお渡しすれば、王都へ回す量も、備蓄へ残す量も、その後の調整も――」
「財務局がなさるでしょう」
あっさり答えると、ハロルドが黙った。
その顔にはまだ、何かが引っかかっている。
「……左様でございますか」
「ええ」
セレナは紅茶へ手を伸ばした。
「何か?」
「いえ」
ハロルドもカップを持ち上げる。
けれど、口をつける前に戻した。
「では……公爵家の方は、いかがいたしましょう」
セレナの指が止まった。
「父に直接お願いいたします」
今度こそ、ハロルドは明らかに驚いた。
「私どもから、公爵閣下へ?」
「ええ」
「アルヴェール様を通さずに、でございますか?」
同じようなことを二度聞かれ、セレナは少し可笑しくなった。
「今まで私を通していたことの方が、不思議ではありません?」
「それは……」
ハロルドは困ったように口元へ手をやった。
何か言おうとして、やめる。
それから、少し考えるようにセレナを見た。
「アルヴェール様にお話しすれば、すべて話がつながりましたので」
セレナは瞬いた。
「そうでした?」
「はい」
「私は、それぞれに必要なことを伝えていただけですわ」
数字が届けば、必要なところへ回す。
話が決まれば、次の相手へ伝える。
セレナにとっては、毎年してきたことにすぎない。
ハロルドはしばらく何も言わなかった。
「……左様でございますか」
なぜか返事が遅い。
「これからは財務局と父、それぞれにお話しください」
「承知いたしました」
そう答えたものの、ハロルドはまだ何か言いたげだった。
やがて声を落とす。
「何か、王宮でございましたか?」
セレナは紅茶へ視線を落とした。
リリアが毒を飲んだのは三日前。
前の人生と同じなら、今日このあと王宮へ呼び出される。
そこで婚約を破棄され、謹慎を命じられる。
けれど、それはまだ起きていない。
「いいえ」
セレナは答えた。
「何もございませんわ」
少なくとも、今は。
ハロルドはしばらくセレナを見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「承知いたしました。では、収穫見込みについては財務局へ報告いたします」
「お願いいたします」
「公爵閣下にも、改めてお話を」
「ええ」
ハロルドは書類を鞄へ戻し、立ち上がった。
それでも、まだ腑に落ちない様子だった。
「しかし、今年は随分と勝手が違いますな」
「そうでしょうか」
「ええ。毎年、まずアルヴェール様にご相談しておりましたから」
「これからは、それぞれ担当の方がなさればよいことですわ」
セレナは当然のように答えた。
「私は婚約者として、少しお手伝いしていただけですもの」
ハロルドが一瞬黙った。
「……少し、でございますか」
「ええ」
何かおかしなことを言っただろうか。
ハロルドはセレナを見たまま、わずかに口元を緩めた。
「いえ。では、そのようにいたします」
「よろしくお願いいたします」
ハロルドは深く一礼して、応接室を出ていった。
◇
扉が閉まる。
一人になった応接室で、セレナはしばらく紅茶を飲んでいた。
さっきまでハロルドが座っていた場所には、もう何もない。
話は終わった。
これでいい。
いつもなら、この後は父の執務室へ行く。
北部の収穫見込みを伝えて。
それから財務局へ――
セレナは立ち上がった。
そのまま二歩ほど扉へ向かう。
手を伸ばしかけて、止まった。
「……どこへ行くつもりなのかしら」
父の執務室だ。
あまりにも自然に身体が向かっていた。
セレナは扉を見つめる。
やがて小さく息を吐いて、元の椅子へ戻った。
何もしないというのは、思っていたより難しい。
北部の数字は財務局にも届く。
王都へ回す量も、備蓄へ残す量も、向こうで決めればいい。
父への話も、ハロルド自身がする。
セレナが間に入る必要はない。
それでも。
念のため、財務局の担当者に一言だけ――
「またですわね」
思わず声が漏れた。
セレナは冷めかけた紅茶を飲んだ。
今日は父の執務室へ行かない。
財務局にも手紙を書かない。
ハロルドには、行くべき場所を伝えた。
それで十分だ。
◇
午後。
セレナのもとに王宮から使者が来た。
「王太子殿下より、登城するようにとのご命令です」
やはり来た。
「承知しました」
使者が下がる。
侍女が心配そうにセレナを見た。
「お嬢様、王宮へ?」
「ええ」
「お支度を」
「お願い」
鏡の前に座り、銀色の髪を整えてもらう。
櫛が髪を滑っていく。
鏡の中には、いつもと変わらない自分がいた。
前の人生では、この呼び出しが何を意味するのか知らなかった。
リリアを害した覚えなどない。
きちんと説明すれば分かってもらえる。
そう信じて王宮へ向かった。
帰りの馬車では、涙が止まらなかった。
「お嬢様?」
侍女の声で、セレナは鏡を見る。
「何でもないわ」
今日は泣くだろうか。
自分でも分からない。
支度を終え、部屋を出る。
セレナはそのまま王宮へ向かう。
前の人生で、自分のすべてが終わったと思った場所へ。




