17- 処刑まであと3日
朝食を終えた。
そして、何もすることがなくなった。
灰穂病は農務院へ。
毒事件の調査は父へ。
ヴァルディアにつながった記録は、レオンが持ち帰った。
セレナの手元には、本当に何も残っていない。
「……これこそ望んでいた時間ですわ」
誰に言うでもなく呟いた。
何もしない。
好きなものを食べて、読みたい本を読んで、眠くなったら眠る。
そう決めたではないか。
セレナは紅茶を一口飲んだ。
壁の時計を見る。
朝食を終えてから、まだ十五分しか経っていない。
「…………」
こんなに長かっただろうか。
一日というものは。
◇
◇
◇
「セレナ様」
侍女が新しい紅茶を運んできた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ。ありがとう。レオンは――」
そこで止まった。
侍女が顔を上げる。
「レオン様が何か?」
「……何でもありませんわ」
昨日、自分で見送ったではないか。
今頃はもうヴァルディアへ向かっている。
セレナはカップを取った。
一口飲む。
時計を見る。
「…………」
ほとんど進んでいない。
今度こそ時計から顔を背けた。
◇
◇
◇
本を読むことにした。
以前から読みたかった小説がある。
政務にも外交にも関係のない、ただの恋愛小説だ。
ソファへ座り、頁を開く。
一頁。
二頁。
三頁。
主人公の令嬢が、身分を隠した騎士と馬車に乗って湖へ向かっている。
「……この輸送日数ですと」
セレナは止まった。
もう一度、頁を見る。
馬車は走っている。
ただし、湖へ向かっているだけだ。
小麦は積んでいない。
交易業者も出てこない。
「…………」
本を閉じた。
紅茶にしよう。
カップへ手を伸ばす。
『休憩』
昨夜の声が蘇った。
勝手に目の前へ置かれたカップ。
『まだできますわ』
『知ってる』
そして。
『できるからって、やり続ける必要はないだろ』
セレナの手が止まった。
「……静かですわね」
庭から鳥の声が聞こえる。
廊下では使用人が行き来している。
食器の触れ合う音もする。
いつもと同じ朝だ。
それなのに。
妙に静かだった。
◇
◇
◇
気分を変えようと立ち上がる。
少し庭でも歩こう。
そう思ったところで、棚の上に置かれた箱が目に入った。
アルベルトが持ってきた手袋だ。
返そうとしたが、受け取らなかった。
だから箱に戻したまま、そこに置いてある。
セレナの視線はすぐに隣へ移った。
もう一組の手袋。
レオンから贈られたものだ。
こちらを手に取る。
片方だけはめてみた。
やわらかな生地が指に馴染む。
あの日も。
レオンが手を取って、こうして――。
そこから別の記憶までついてきた。
『少しだけ』
突然引き寄せられた身体。
背中へ回った腕。
耳を寄せた胸から聞こえた、思っていたより速い鼓動。
それから昨夜。
すぐ近くにあった顔。
唇に触れた親指。
ゆっくりと輪郭をなぞられて。
思わず――。
「……っ」
セレナは勢いよく手袋を外した。
「なぜそこまで思い出しますの」
当然、返事はない。
誰もいないのだから。
それが余計に恥ずかしい。
しばらく手袋を睨んでいたが。
結局、もう一度手に取った。
今度は両方ともはめる。
「……外へ出るのですから」
誰に対する言い訳なのかは、考えないことにした。
◇
◇
◇
庭へ出た。
けれど、行き先がない。
いつもなら、次に何をするか考える必要すらなかった。
幼い頃から、王太子の婚約者として過ごしてきた。
歴史。
語学。
礼法。
外交。
領地経営。
王宮へ上がるようになってからは、そこへ実務も加わった。
何かあれば調べた。
頼まれれば片づけた。
時間が空けば、次に必要になることを先に済ませた。
そうしていれば、一日は勝手に終わった。
だから。
もう何もしなくていい。
そう思ったときは、嬉しかった。
全部放り出してしまいたかった。
なのに。
レオンと街へ出た。
店を覗いて。
菓子を選んで。
くだらない話をした。
何の役にも立たないことばかりだった。
それなのに、楽しかった。
昨夜だって。
資料を調べていたことより、妙なところばかり思い出す。
からかわれたこと。
腹が立ったこと。
名前を呼んだこと。
抱きしめられたこと。
「……」
セレナは足を止めた。
何もしない時間が欲しかった。
ずっと、そう思っていた。
なのに今は。
「……戻ってきたら」
声に出してから、少し考える。
今度はどこへ行こう。
あの菓子店でもいい。
まだ歩いていない通りもある。
今度はレオンに店を選んでもらって――。
そこまで考えて。
セレナは瞬いた。
戻ってきたら。
あまりにも自然に、その先を考えていた。
審問まで、あと三日。
少し前までなら、その先の予定など考えなかった。
考えれば、欲しくなるから。
なのに今、自分はレオンが戻ってくる日のことを考えている。
「……約束しましたものね」
『約束する』
戻ると、レオンは言った。
セレナは手袋をした指を、そっと握った。
「セレナ様」
背後から声がした。
振り返ると、侍女がこちらへ歩いてくる。
「お客様がお見えです」
「わたくしに?」
一瞬だけ。
胸が跳ねた。
――レオン?
いや。
早すぎる。
昨日出たばかりではないか。
それでも。
「どなた?」
答えを待つわずかな間。
期待している自分がいた。
「リリア男爵令嬢でございます」
セレナの表情が変わった。
「……リリア様が?」




