14- 処刑まであと4日
夜。
アルヴェール公爵邸の小さな書斎には、セレナとレオンだけが残っていた。
机の上には、父が集めた資料が所狭しと広げられている。
毒の入手経路。
事件の前後にリリアの周辺へ出入りした者。
セレナの部屋に証拠を置けた可能性のある人物。
その量を前にして、セレナはしばらく何も言えなかった。
「……お父様が、これをすべて?」
「ああ。婚約が破棄されたあとから、独自に調べていたらしい」
「わたくしには何も……」
「言えば、君も調べただろ?」
否定しかけて、口を閉じた。
今だって、話を聞くだけのつもりだった。
それなのに、すでに何枚もの資料を手元へ引き寄せている。
レオンが一枚の紙を抜き出した。
「調べていくうちに、毒を扱った可能性のある商人からヴァルディアにつながる取引が見つかった。それでオレも加わった」
「今回の灰穂病にも?」
「ああ。最初に被害が出た畑を回っていた交易業者にも、ヴァルディア側との接点がある」
セレナは二つの資料を見比べた。
毒事件と灰穂病。
何の関係もないはずだった。
「同じ方が?」
「まだ分からない」
レオンはすぐに否定した。
「証拠が足りない。ただ、もしオレの国の人間が君を陥れたのなら、知らないふりはできない」
セレナは顔を上げた。
青みがかった灰色の瞳に、いつもの揶揄うような色はなかった。
視線を落とす。
父が集めた資料。
自分の知らないところで、ずっと動いていた。
「……お父様ったら」
小さくこぼして、一枚を手に取った。
「こちらを見ても?」
「もちろん」
「では、この帳簿も」
「見るだけじゃなかった?」
「確認するだけですわ」
「もう書き込んでるけど」
セレナは聞こえなかったことにした。
日付を拾う。
商会名を書き出す。
取引先と場所を照合する。
一つでは何も分からない。
けれど、重ねれば見えてくるものがある。
いつの間にかレオンも隣へ椅子を移し、二人で一枚の帳簿を覗き込んでいた。
「そういえば」
不意にレオンが言った。
「何ですの?」
「さっきの、嬉しかった」
セレナのペン先が止まる。
「……何のお話ですの」
「袖」
一言で分かった。
昼間。
アルベルトと二人きりになるのが嫌で、無意識にレオンの袖をつかんだ。
「あれは……」
「頼ってくれたの、初めてだったから」
「頼ったわけではございません」
「そう?」
「未婚の女性が異性と二人きりになるのは、外聞が悪いでしょう」
「……そういうことにしておこうか」
セレナは眉を寄せた。
「何ですの、その言い方」
「別に」
レオンはもう資料へ目を戻している。
何が言いたいのだ。
そう思って――セレナは閉じた扉を見た。
夜。
書斎。
父も使用人もいない。
「…………」
今まさに二人きりだった。
しかも今夜ここへ入ってから、一度もそのことを気にしていなかった。
アルベルトとは、あれほど嫌だったのに。
気づいた途端、隣にいるレオンの存在がやけに近くなる。
紙をめくる指。
少し屈んだ肩。
すぐそばから聞こえる声。
セレナは椅子をわずかにずらした。
「何で離れるの」
「……少し近いですわ」
「さっきまで平気だったのに?」
「今、気になりましたの」
レオンが黙った。
それから、少しだけ笑う。
「それは困ったな」
「何がです?」
「オレは、もう少し近づきたいと思ってたから」
「――」
言うだけ言って、レオンは資料へ戻ってしまった。
セレナはしばらくその横顔を睨んだ。
ずるい。
自分だけ何でもない顔をして。
「こちら」
少し乱暴に資料を差し出す。
受け取ったレオンの指と触れた。
反射的に手を引く。
「……ヴァレン様」
「まだそれ?」
「では、何とお呼びすればよろしいのです」
「レオン」
セレナは黙った。
レオンが少し身を寄せる。
「セレナ」
低い声で名前を呼ばれた。
耳の奥がくすぐったい。
「ほら」
「……レ、オン」
「何?」
顔を上げる。
レオンが優しく笑っていた。
分かっていて言わせたのだ。
「なっ……」
「もっと呼んで、セレナ」
「……!」
セレナは逃げるように資料へ顔を落とした。
その拍子に、ある数字が目に入る。
「……待ってください」
もう一度、その行を追った。
「この取引日、おかしくありません?」
レオンもすぐに身を寄せる。
「どこ?」
「こちらです。それから、その下の帳簿も」
紙を並べる。
日付を拾い、別の記録と照合する。
「この荷、一度ヴァルディアへ入っていますわね」
「ああ。そのあと戻ってる」
「でしたら、こちらの商人も――」
次々と資料が増えていく。
どれほど経ったのか。
無意識に目元を押さえたところで、カップが差し出された。
「休憩」
「まだできますわ」
「知ってる」
「でしたら――」
「できるからって、やり続ける必要はないだろ」
手が止まった。
昨日のアルベルトなら、きっと逆だった。
できるならやればいい。
できない者の代わりに、できる者がやればいい。
レオンはセレナの前へカップを置いた。
「少し休め。続きはそのあとでいい」
「……いただきます」
「素直だ」
「返しますわよ」
「それは困る」
セレナはカップへ口をつけた。
ふと顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。
「何ですの」
「いや」
「でしたら、見ないでくださいませ」
「無理かな」
「なぜです?」
少し間があった。
「……その顔、ほかでは見せないで」
一瞬、意味を取りかねた。
けれど。
分かってしまった。
頬に熱が集まる。
セレナはカップで口元を隠した。
「……休憩は終わりですわ」
「早いな」
「終わりです」
レオンが小さく笑う。
今度こそ無視して、セレナは資料を引き寄せた。
◇
「……レオン」
しばらくして、自然に名前が出た。
レオンが顔を上げる。
呼んだセレナ自身は、それに気づいていなかった。
「どうした?」
「この名前です」
一人の商人を指す。
レオンが覗き込んだ。
「この方、灰穂病の資料にもいらっしゃいましたわよね?」
「ああ」
「少し待って」
毒の入手経路を追った記録を探す。
一枚。
違う。
もう一枚。
「あった」
同じ名前。
セレナとレオンの視線がぶつかった。
さらに小麦の取引記録を引き寄せる。
そこにも。
偶然にしては、重なりすぎていた。
「この方をご存じなの?」
レオンの表情が変わった。
しばらくその名を見つめる。
「……ああ」
声が低い。
「オレの国の人間だ」
セレナは息を呑んだ。
レオンは三枚の資料を重ねた。
「少し調べる必要があるな」
「ヴァルディアで?」
「ああ」
そして、迷いなく告げた。
「一度、国に戻る」
胸の奥がわずかに沈んだ。
「……いつ、お戻りになりますの?」
「分からない。できるだけ急ぐ」
セレナは唇を結んだ。
審問まで、あと四日。
口にはしなかった。
「でしたら、早くお発ちくださいませ」
「急に追い出すな」
「向こうで調べることがおありなのでしょう?」
「あるけど」
レオンはまだセレナを見ている。
先ほどから、その目が落ち着かない。
見られると、昼間とは別の意味で困る。
「早く」
「はいはい」
レオンが立ち上がった。
ようやく帰るらしい。
そう思った瞬間。
腕を引かれた。
「きゃ……」
身体が前へ傾く。
次の瞬間には、レオンの腕の中にいた。
「レオン……!」
背中へ回った腕に、ぐっと力がこもる。
「少しだけ」
耳元で言われた。
抗議しようとして。
やめた。
近い胸から、鼓動が聞こえる。
速かった。
驚くほど。
セレナはそっと目を伏せた。
「……レオン」
腕の力が少し強くなる。
押し返そうとは思わなかった。
「……お気をつけて」
「うん」
「それから」
言葉にするのが、少しだけ怖かった。
「必ず、戻ってきてくださいませ」
一度、抱きしめる力が強まった。
「ああ」
レオンの声が、髪のすぐそばで聞こえる。
「約束する」
やがて腕が解かれた。
けれど、まだ近い。
レオンがセレナを見下ろしている。
さっきまでとは違う沈黙。
視線が重なった。
それから。
レオンの目が、ゆっくりとセレナの唇へ落ちた。
気づいてしまった。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
レオンの顔が近づく。
セレナの睫毛が伏せられた。
あと少し。
けれど。
唇は重ならなかった。
代わりに、親指が下唇へ触れる。
「……っ」
柔らかく輪郭をなぞられた。
指先が端まで滑った瞬間。
「……ん」
自分でも思いがけない声が漏れた。
セレナは目を見開き、慌てて口元を押さえた。
レオンも動きを止めていた。
「……今の」
「何も言わないでくださいませ」
「でも」
「忘れてください」
「それは無理だな」
いつものように笑わなかった。
レオンは短く息を吐き、自分から一歩離れた。
「……行ってくる」
「ええ」
扉へ向かう。
手が取っ手にかかった。
このまま行ってしまう。
「レオン」
振り返る。
セレナは一瞬だけ迷ってから、口を開いた。
「……お待ちしております」
レオンの表情が柔らかくなる。
「ああ」
扉を開き。
最後にもう一度だけ振り返った。
「待ってて」
扉が閉じた。
急に書斎が静かになった。
セレナはしばらく、その扉を見つめていた。
やがて指先が、自分の唇へ伸びる。
キスはされていない。
ただ、指で触れられただけ。
それなのに。
『必ず、戻ってきてくださいませ』
『お待ちしております』
自分の言葉まで蘇ってくる。
「…………」
セレナは両手で顔を覆った。
頬の熱は、なかなか引かなかった。
処刑になるとしたら、あと四日。




