13- 処刑まであと4日
※本話には、ヤンデレ要素および相手の意思を尊重しないハードな描写があります。苦手な方はご注意ください。
数か月前。
王宮の大広間には、笑い声と音楽が絶え間なく満ちていた。
磨き上げられた床の上を、色鮮やかなドレスが行き交う。
誰もが当然のように相手の家名を知り、領地の話をし、外国から届いた品について語っていた。
リリアは、その輪の中で何度目か分からない笑顔を作った。
「まあ、そうなのですね」
何が「そう」なのか、自分でもよく分かっていない。
話題はいつの間にか北部の関税から、どこかの伯爵家の婚姻へ移っていた。
名前を聞いても、誰と誰が親戚なのかすら分からない。
やがて会話の輪が動き、気づけばリリアだけが残された。
ほっとした。
同時に、ひどく心細くなった。
壁際へ寄り、息を吐く。
帰りたい。
けれど、父からは王宮で恥をかかないようにと言われている。
もう少しだけ頑張らなければ。
「疲れました?」
突然声をかけられ、リリアは肩を跳ねさせた。
振り返った瞬間、息を呑む。
「アルベルト殿下……」
王太子が立っていた。
慌てて礼を取ろうとすると、アルベルトが笑う。
「そんなに緊張しなくてもいいよ」
「申し訳ございません」
「謝らなくていい」
優しい声だった。
それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。
「楽しんでる?」
問われて、リリアは迷った。
楽しいと言うべきなのだろう。
きっと、そういう場所だ。
けれど。
「……実は、こういう場所が苦手なんです」
言ってから、しまったと思った。
恐る恐る顔を上げる。
アルベルトは怒っていなかった。
むしろ、少し意外そうな顔をしている。
「苦手?」
「皆様のお話が難しくて。さっきも半分くらい分からないまま笑ってしまいました」
アルベルトが吹き出した。
「半分も?」
「もしかしたら、もう少し……」
「正直だね」
恥ずかしくなって俯く。
けれど、アルベルトはそのまま話してくれた。
難しい話はしなかった。
今日の料理は何が美味しかったとか。
楽団の演奏が少し速すぎるとか。
そんな他愛もない話だった。
気づけば、リリアは普通に笑っていた。
「アルベルト様がお話ししてくださって、ほっとしました」
「僕が?」
「はい」
リリアは素直に頷いた。
アルベルトの目が、わずかに細くなる。
「それならよかった」
遠くからアルベルトを呼ぶ声がした。
王太子なのだ。
いつまでも自分と話しているわけにはいかない。
分かっているのに。
「……あの」
「何?」
「もう少しだけ、ここにいていただいてもいいですか?」
言ってから、厚かましかったかもしれないと思った。
けれどアルベルトは、しばらくリリアを見たあとで笑った。
「いいよ」
その声が、どこか嬉しそうだった。
◇
それからだった。
夜会へ出るたび、アルベルトが声をかけてくれるようになった。
最初は偶然だと思っていた。
けれど二度、三度と続けば、期待するようになる。
「アルベルト様」
姿を見つけるだけで、嬉しくなった。
「これ、私には難しくて。教えていただけませんか?」
「どれ?」
「この方には、なんとご挨拶すれば失礼にならないでしょう」
「リリアなら普通に挨拶すれば大丈夫だよ」
「普通が一番難しいんです」
アルベルトはよく笑った。
「アルベルト様なら、どうなさいます?」
「僕?」
「はい。アルベルト様に聞けば間違いありませんもの」
そんなとき。
アルベルトはいつも少しだけ嬉しそうな顔をした。
だからリリアも、ますます彼を頼るようになった。
その頃のリリアは、セレナが好きだった。
遠くからでもすぐに分かる銀色の髪。
背筋を伸ばして歩く姿は美しく、誰に話しかけられても迷いなく応じる。
公爵令嬢。
王太子の婚約者。
いずれはこの国の妃になる女性。
リリアが必死になって覚えようとしていることを、セレナは最初からすべて知っているように見えた。
「セレナ様って、本当に素敵ですね」
ある日、隣にいたアルベルトへそう言った。
「そうかな」
意外な返事だった。
「そうですわ。とてもお綺麗ですし、何でもご存じで。皆様からも頼りにされていらして」
「昔からああだよ」
それだけだった。
リリアには到底届かない人なのに。
アルベルトにとっては、それが当たり前らしい。
婚約者だからだろうか。
少し羨ましいと思った。
◇
その気持ちが初めて変わったのは、別の夜会だった。
「殿下」
セレナが二人のところへやって来た。
「そろそろルヴェールの使節の方々へご挨拶を」
「ああ」
アルベルトが頷く。
リリアは胸の前で手を握った。
行ってしまう。
当たり前なのに、寂しかった。
「アルベルト様」
気づけば呼んでいた。
「もう少しだけ、そばにいていただけませんか?」
セレナがリリアを見る。
責めるような目ではなかった。
それが余計に恥ずかしくて、リリアは俯いた。
「……申し訳ありません。やはり――」
「いいよ」
顔を上げる。
アルベルトはセレナを見た。
「セレナ、一人でお願いできる?」
「承知いたしました」
それだけ。
セレナは一礼すると、使節団の方へ歩いていった。
アルベルトは残った。
自分の隣に。
胸が高鳴った。
遠ざかる銀色の髪を見る。
セレナは一人でも堂々としていた。
使節へ挨拶し、すぐに会話の輪へ入っていく。
いつも通り、完璧だった。
なのに。
リリアは初めて、セレナを見ながら嬉しいと思った。
――私を選んでくれた。
セレナ様ではなく。
私を。
◇
それから、少しずつ変わっていった。
アルベルトが好きだった。
会えると嬉しい。
名前を呼ばれるだけで胸が弾んだ。
けれど、いつの間にか。
セレナがいるところで自分に声をかけてくれると、もっと嬉しくなった。
セレナとの予定より自分を優先してくれると、その日はいつまでも気分がよかった。
私は特別なのだと思えた。
なのに。
セレナは何も言わない。
アルベルトがリリアと長く話していても。
予定を変えても。
怒らない。
睨みもしない。
いつもと変わらない顔で、自分の役目をこなしている。
それが、だんだん嫌になった。
どうして?
アルベルト様は、私を選んでいるのに。
どうしてあなたは、そんな顔をしていられるの?
そして夜会が終われば、アルベルトの婚約者として彼の隣に立つのは、やはりセレナだった。
何度アルベルトに選ばれても。
最後の一つだけは、どうしても自分のものにならなかった。
◇
その商人と知り合ったのは、王都の小さな通りだった。
夜会の翌日。
リリアは侍女を連れて、露店を眺めながら歩いていた。
色鮮やかな布に、香油、菓子、異国の装飾品。
その中でもひときわ華やかな髪飾りに目を奪われ、足を止める。
「お嬢様」
店の奥にいた男が、ふいに声をかけてきた。
「失礼ですが、王太子殿下のご婚約者の方ですよね?」
リリアは目を瞬いた。
「……え?」
男はすぐに表情を曇らせた。
「違いましたか?」
「え、ええ。違いますけれど……」
「これは失礼いたしました」
男は申し訳なさそうに頭を下げる。
「先日の夜会で、殿下のおそばにいらっしゃるところをお見かけしたものですから」
リリアの胸が、くすぐったくなる。
「とてもお似合いでしたので、印象に残っていたのです」
「……そう?」
思わず聞き返した。
男は、何を不思議がっているのか分からないという顔をした。
「ええ。殿下のお隣で、とても華やかに輝いていらっしゃった。あまりにお美しかったので、てっきりご婚約者なのだと」
胸の奥が、ふわりと浮いた。
「でも、殿下のご婚約者は別の方よ」
そう言いながら、口元が緩む。
「それは失礼いたしました」
男は頭を下げたあと、もう一度リリアを見た。
「ですが、私にはお嬢様の方がずっと――」
そこで言葉を切る。
「いえ。余計なことを申しました」
「……何?」
「お気になさらず」
そう言われると、余計に気になった。
「途中でやめないで。何を言おうとしたの?」
男は困ったように笑ってから、声を落とした。
「お嬢様の方が、殿下のお隣によくお似合いだと思っただけでございます」
心臓が跳ねた。
セレナではなく、自分を見て。
王太子の婚約者だと。
リリアは店先に置かれた小さな鏡を覗いた。
そこには、いつもと同じ自分が映っている。
けれど今日は、少し違って見えた。
――私だって。
王太子の隣に立っても、見劣りしないのかもしれない。
その日は、いつもより高価な髪飾りを一つ買った。
気づいたら頻繁に通うようになっていた。
「ですが」
ある日、商人は残念そうに言った。
「お気の毒です」
「何が?」
「どれほど想い合っていても、殿下には婚約者がおられる」
胸の奥を刺された。
「それは……」
分かっている。
最初から。
「もしセレナ様がいなければ」
商人が笑う。
その夜。
リリアは眠れなかった。
◇
「……どうすれば」
何度目かに会ったとき。
口にしたのは、リリアの方だった。
「アルベルト様に、本当に選んでいただけるのでしょう」
商人はすぐには答えなかった。
やがて、小さな包みをテーブルへ置いた。
「少し、殿下を心配させてみてはいかがです?」
「心配?」
「ええ」
包みの中には、白い粉が入っていた。
「ほんの少し気分が悪くなる程度です」
リリアは息を呑んだ。
「毒……?」
「そのような大層なものではありませんよ」
商人は笑った。
「あなたがこれを口にする。そして、セレナ様にされたと言う」
「そんな……」
「誰かを殺すわけでもない」
リリアは首を振った。
できない。
そんなこと。
「殿下があなたを心配してくださるには、それで十分です」
アルベルトの顔が浮かんだ。
倒れた自分を抱き起こす。
自分の名前を呼ぶ。
セレナではなく、自分を選ぶ。
「……本当に、少しだけ?」
「ええ」
商人は微笑んだ。
「少しだけです」
◇
嘘だった。
苦しい。
息ができない。
喉が焼ける。
床へ倒れた身体が痙攣する。
怖い。
死ぬ。
こんなはずではなかった。
少し気分が悪くなるだけだと言ったのに。
「リリア!」
声がした。
アルベルト。
視界が滲む。
必死な顔で自分を抱き起こしている。
「誰か! 医師を呼んで!」
アルベルト様。
私を見ている。
私だけを。
「リリア、しっかりして」
嬉しい。
怖い。
苦しい。
後悔している。
全部がぐちゃぐちゃになった。
「誰にされた?」
聞かれた。
答えなければ。
ここまでしたのだから。
唇を震わせる。
「セレナ……様が……」
◇
セレナがいなくなれば、全部うまくいくと思っていた。
婚約は破棄された。
アルベルトは自分を選んだ。
なのに、王宮では相変わらずセレナの名前を聞く。
アルベルトまで、以前より彼女を気にしているように見えた。
こんなはずではなかった。
だからリリアは、再びあの露店へ向かった。
もう一度、薬をもらおうと思ったのだ。
前のものは聞いていたよりずっと苦しかった。文句も言いたかった。
それでも、少し弱いものなら。
またアルベルトは自分だけを心配してくれる。
見慣れた通りへ曲がる。
そして、足が止まった。
「……え?」
店がない。
香油も、髪飾りも。
いつも笑顔で迎えてくれた男の姿もなかった。
そこだけ、ぽっかりと空いている。
「あの」
隣の露店へ駆け寄った。
「ここにいた商人は?」
「ああ、旅商人の?」
「そうです。どちらへ?」
「さあねえ。三、四日前から見てないよ」
「いつ戻りますの?」
「旅商人なんて、そんなもんさ」
リリアは空っぽの場所を見つめた。
何度も通った。
アルベルトのことも、セレナのことも話した。
あんなに親身になってくれたのに。
「……何よ」
いなくなるなら、一言くらいあってもよかったのに。
けれど、困ったのはそれだけではない。
薬が手に入らない。
なら。
自分でやるしかない。
アルベルトに心配してもらえれば、それでいいのだから。
その夜。
リリアは自室の花瓶を床へ落とした。
◇
その夜。
アルベルトはリリアを求めた。
初めてだったからか、アルベルトの手は震えていた。
かわいい人だ、とリリアは思った。
よほど恥ずかしいのだろう。
自分の顔を隠してしまうくらい、顔も見られないほど緊張しているのだと。
嬉しかった。
やっと。
本当に。
自分が選ばれた。
セレナとは長い間婚約していたのに、二人はそこまでの関係にはなっていない。
自分は違う。
セレナより先に。
もっと近くへ。
ようやく届いたのだと思った。
リリアはとても満たされた。
◇
翌日もアルベルトは私を求めてきた。
一日しか経っていないのに、二日前とは何かが違っていた。
顔はまた隠された。
昨日よりも荒々しい。
そんなに私を求めてくれているのか、と嬉しくなった瞬間、息ができなくなった。
何かに締め付けられている。
頭がチカチカする。
必死に抵抗するが、力の意味が分からない。
愛おしまれているのか、拒まれているのか。
どちらとも取れる強さで、それは続いた。
一瞬、楽になった。
そう感じた次の瞬間、アルベルトが必死にしがみついてきた。
必死に縋り付くように。
耳元でアルベルトの声がした。
消え入りそうな、それでいて甘い声だ。
身体が満たされていく感覚が同時に広がっていく。
ーー暖かい。
そのまま、アルベルトは気を失うように眠りについた。
頭にかかっていた布を外すと、アルベルトの寝顔が見える。
瞼が湿っている。
グッと胸が締めつけられる。
うれしさだとリリアは思おうとした。
けれど。
耳に残ったアルベルトの声が消えない。




