12- 処刑まであと4日
アルベルトはすでに応接室で待っていた。
セレナが父とレオンを伴って入ると、ソファに座ったまま微笑む。
「セレナ」
いつもと変わらない笑顔だった。
「急に来てしまってごめんね」
「……ごきげんよう、アルベルト殿下」
セレナは礼をした。
昨日、小麦会議で顔を合わせたばかりだ。
それなのに今日は、公爵邸まで訪ねてきた。
何のために。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
父の声は硬かった。
「セレナと話がしたくて」
「娘は現在、王家より謹慎を命じられております」
アルベルトは穏やかに笑う。
「だから僕が来たんです。外へ連れ出すわけではありませんから」
その視線が、セレナの後ろへ流れた。
「もっとも、昨日は随分と自由に街を歩いていたようだけど」
セレナが顔を上げる。
なぜ知っているのだろう。
父の眉がわずかに動いた。
「昨日の外出は、私が許可したものです」
「そうですか」
笑顔のまま頷く。
「公爵は寛大なんですね」
それ以上は何も言わず、アルベルトはセレナへ手を差し出した。
「じゃあ、少し二人で話そうか」
「それは認められません」
父が即座に遮った。
アルベルトは不思議そうに瞬く。
「娘は審問を控えております。嫌疑をかけている王家の方と二人きりにするつもりはございません」
「僕は王太子ですよ」
「存じております」
空気が張りつめた。
「お父様」
セレナは父を止めた。
「お話は伺います。わざわざ殿下がお越しになったのです。用件くらいは」
ただ、二人きりにはなりたくなかった。
そう思った途端。
気づけば、レオンの袖をつかんでいた。
レオンの目がわずかに見開かれる。
自分でも驚いて指を離しかけると、その手を上からそっと包まれた。
何も言わない。
ただ、とても優しい目でセレナを見る。
それだけで、指から余計な力が抜けた。
父は二人を見てから、アルベルトへ向き直った。
「ヴァレン殿の同席を認めていただけるのでしたら、私は退席いたしましょう」
「……」
「認められないのであれば、私もここで話を聞かせていただきます」
アルベルトは少しだけ黙った。
「分かりました」
やがて笑う。
「いてもらって構いませんよ」
父はセレナを見る。
大丈夫だと頷くと、ようやく部屋を出ていった。
◇
アルベルトは、セレナの手を見ていた。
レオンの袖をつかんでいる。
胸の奥に、昨夜と同じ熱が灯った。
――やっぱり。
自分に見せつけたいのだ。
リリアを選んだ自分に、同じ思いをさせようとしている。
こんなことまでするなんて。
かわいい。
もっと見たかった。
いつも澄ました顔をしていたセレナが、自分のためにどこまで乱れるのか。
やがてセレナがレオンから手を離し、ソファに腰掛けた。
レオンも隣へ座ろうとする。
「ヴァレン」
「はい?」
「たかが商人が、王太子の前で許しもなく座るのは無礼だよ」
レオンの動きが止まった。
「ヴァレン様には、わたくしが残っていただくようお願いしました」
セレナがすぐに口を挟む。
「うん。いてもいいよ」
アルベルトは笑顔で頷いた。
「でも、座っていいとは言っていないだろう?」
レオンは一瞬黙ったあと、どこか面白そうに口元を上げた。
「失礼いたしました」
椅子から手を離す。
アルベルトは満足して、セレナへ向き直った。
「そうだ、セレナ」
アルベルトが傍らに置いていた箱を取った。
「君に」
「わたくしに?」
「開けてみて」
蓋を開く。
手袋だった。
上質な白い生地に、花の刺繍。
昨日レオンに贈られたものとは違う。
けれど、似たものを選んだのだと一目で分かった。
「……なぜ?」
「昨日、見ていただろう?」
セレナの指が止まった。
「西通りの店。白地に月白草の刺繍が入ったもの」
顔を上げる。
アルベルトは笑っていた。
「ヴァレンが買って、その場で君につけた」
アルベルトが立ち上がった。
テーブルを回り込んでくる。
「それから菓子店へ行ったね」
一歩。
「君は随分時間をかけて菓子を選んでいた」
また一歩。
「二つ選んで」
セレナの前まで来る。
「分け合って食べた」
まるで、自分もそこにいたかのように話す。
昨日まで思い出せば頬が緩んだはずの光景に、アルベルトの声が入り込んでくる。
セレナは箱の中の手袋から目を逸らした。
「どうして手袋だったのかな」
アルベルトが隣に腰掛けた。
近い。
さっきまで二人の間にあったテーブルは、もうない。
箱から手袋を取り出す。
「随分、遠回りをしたね」
「……何のお話ですの?」
「最初から僕に言えばよかったのに」
「何をです?」
アルベルトは答えなかった。
代わりに、セレナの手を取る。
「――っ」
人差し指が、手の甲をゆっくりとなぞった。
骨の形を確かめるように辿って、指の付け根へ。
「こうしてほしかったんだろう?」
ぞわり。
腕に鳥肌が立った。
「違――」
「僕なら、もっと丁寧にするよ」
言葉を重ねられた。
指を一本取られる。
指先までなぞってから、また戻る。
まるで手袋をはめる順番を確かめるように。
「昨日も、こんなふうにしてもらった?」
声が近い。
「それとも、もっと?」
「殿下、離してくださ――」
「大丈夫」
甘く遮られる。
アルベルトは嬉しそうだった。
「もう分かったから」
指先が、掌へ滑り込む。
「次からは、僕に言って」
その目は本気だった。
セレナが欲しかったものを、ようやく理解してやれた。
そんな顔をしている。
「殿下」
レオンの声が落ちた。
次の瞬間。
アルベルトの手首が掴まれていた。
「彼女から手を離してください」
先ほどまでの笑みはなかった。
「……何?」
「嫌がっています」
アルベルトがセレナを見る。
強張った肩。
浅い呼吸。
逃れようとわずかに引かれた手。
それを見て。
アルベルトの瞳が、熱を帯びた。
「こんなに僕を意識しているのに?」
空いている手が伸びてくる。
頬に触れた。
指の背で、ゆっくりとなぞられる。
「顔まで赤い」
違う。
恥ずかしいのではない。
怖い。
なのにアルベルトは、愛おしむようにもう一度頬を撫でた。
「かわいいな、セレナ」
「――触るな」
低い声だった。
レオンがアルベルトの手をセレナから引き離す。
「彼女は嫌がっている」
アルベルトは掴まれた手首を見た。
それから、レオンを見る。
「……随分と無礼な商人だね」
「それは失礼」
口では謝っている。
けれど、レオンの手は離れない。
「ヴァレン様」
セレナが呼ぶと、ようやくレオンが手を離した。
アルベルトは自分の手首を一瞥する。
怒るかと思った。
けれど。
「ああ」
小さく息を漏らした。
また、セレナを見ている。
嬉しそうに。
「いいよ、セレナ。分かっているから」
「……何を」
「続きは今度、ゆっくり二人のときにしよう」
ぞっとした。
何も分かっていない。
嫌がっている。
怖がっている。
それなのに、この人の中ではすべて別のものに変わってしまう。
アルベルトは乱れた袖を整えると、何事もなかったように元の席へ戻った。
「それで、本題なんだけど」
あまりにも何もなかったように話を変えられて、セレナは一瞬ついていけなかった。
「南部の灰穂病。それから国外小麦の追加値上げ」
セレナの表情が引き締まる。
「どの程度ですの?」
「昨日の提示額から、さらに一割から二割」
「そんなに……」
資料を見る。
先ほど父の執務室で確認していた数字より、さらに悪い。
「このままでは、民はパンも買えなくなります。国外からこの価格で仕入れれば、国内価格にも跳ね返ります。南部の収穫まで落ちれば――」
数字を追う。
「この国からパンが消えてしまいますわ」
アルベルトが笑った。
「大げさだな、セレナは」
「大げさではございません」
「小麦が足りないなら国外から買えばいい」
「ですから、その価格が上がっているのです」
「高いなら商人に交渉させる。予算が足りないなら財務局が考える。病害なら農務院に任せればいい」
「それでも、うまくいかなければ?」
「できる者に代えればいい」
即答だった。
「任された仕事ができないなら、その役目にいる意味がないだろう?」
あまりにも当然のように言う。
セレナは返す言葉を失った。
この人にとって、問題とは誰かが片づけるものなのだ。
昨日まで、それが自分だっただけで。
「だから、今回も君に任せるよ」
「……わたくしに?」
「うん」
何を言っているのだろう。
アルベルトは柔らかく微笑んでいる。
「……婚約は、殿下ご自身が破棄なさったではありませんか」
「ああ」
ようやく意味が分かったように、アルベルトが笑った。
「大丈夫。もう気にしなくていい」
「何を――」
「僕も悪かったんだ」
声が妙に甘い。
「君の気持ちに、やっと気づけた」
「わたくしの気持ち?」
「うん」
アルベルトはゆっくり目を細めた。
「もう分かっているから」
背筋が強張る。
「……何を仰っているのです?」
「リリアを殺してまで、僕のそばにいたかったんだね」
「わたくしは、リリア様に毒など盛っておりません」
「いいんだよ」
「何がですの?」
「もう隠さなくていい」
責めていない。
むしろ、嬉しそうだった。
「僕が受け入れてあげるから」
セレナは言葉を失った。
「君の嫉妬は、とても綺麗だよ」
アルベルトの目が熱を帯びる。
「もっと嫉妬してくれていい」
この人は。
自分がリリアを殺そうとしたと、本気で思っている。
それなのに、喜んでいる。
自分のために人を殺そうとするほど嫉妬した。
それが、嬉しいのだ。
先ほど触れられた手の甲が、また粟立った。
怖い。
はっきりと、そう思った。
無意識に身を引く。
後頭部が、後ろに立つレオンに触れた。
肩にそっと手が置かれる。
浅くなっていた息が少し落ち着いた。
セレナは一度だけ息を吐いた。
「審問のことも心配しなくていいよ」
アルベルトは続ける。
「君が戻るなら、父上には僕から話す」
「戻るとは?」
「僕の婚約者に」
当たり前のように。
「今まで通り僕の隣にいればいい。いずれ妃になるための仕事も続ける」
机の上の資料を指す。
「そうすれば小麦のことも片づく。君の嫌疑についても僕から父上に話せる」
そして笑う。
「全部元に戻せばいいんだよ」
セレナはアルベルトを見つめた。
「何も問題ないだろう?」
「お断りいたします」
笑みが止まった。
「……どうして?」
「戻りたくありません」
「?」
レオンはキョトンとした顔でセレナをみている。
本当に分からないらしい。
「僕が助けてあげると言っているのに?」
「殿下」
レオンの声が割って入った。
「彼女は戻りたくないと言っているんですよ」
「君には関係ないよ」
「ありますよ」
レオンがセレナを見る。
「セレナはオレのものですから」
「…………は?」
セレナもアルベルトも黙った。
「ヴァレン様」
「はい」
「わたくしは、あなたのものでもございません」
「……それはごもっともですね」
あっさり頷いた。
あまりにもあっさり引かれて、セレナはなぜか少しだけ腹が立った。
「でしたら、最初から仰らないでくださいませ」
「牽制になるかと思いまして」
「わたくしを使わないでください」
「以後、気をつけます」
アルベルトが二人を見ていた。
「随分と大胆な商人だね」
穏やかに笑う。
「もういいよ。下がって」
「それはできません」
「……何?」
「セレナ嬢に、そばにいてほしいと頼まれましたので」
「王太子として命じているんだよ」
「それでもです」
アルベルトの眉が初めてはっきり寄った。
「君は――」
「そうですね」
レオンが遮る。
「そろそろ名乗っておいた方がよさそうです」
セレナも顔を上げた。
「レオン・ヴァレンは、この国で使っている名です」
アルベルトの表情が変わった。
「本名は、レオン・ヴァルディア」
沈黙が落ちる。
「ヴァルディア帝国皇太子です」
「…………皇太子?」
セレナの声だけが響いた。
「はい」
「……」
セレナは思わず口をポカンと開けたまま固まっている。
何を言われているのか分からない。
レオンはそんなセレナを置いて、先ほどアルベルトに止められた椅子へ手をかけた。
「ところで」
アルベルトを見る。
「座っても?」
返事はない。
レオンは少し待った。
それから。
「では、失礼します」
何食わぬ顔でセレナの隣へ腰掛けた。
「それから、セレナ嬢」
セレナは目をパチパチと瞬くだけしかできない。
「先ほどの発言は訂正します」
「……」
「あなたは私のものではありません」
「…ええ」
セレナは声を絞り出した。
レオンは頷いた。
それから少し考える。
「では、逆にしましょう」
「……逆?」
青みがかった灰色の瞳が、まっすぐセレナを捉えた。
「私が、あなたのものになります」
「…………」
「私と結婚してください」
「…………はい?」
レオンがにっこりと笑う。
びっくりするくらい爽やかだった。
「こんなときに何を仰っていますの!?」
「こんなときだからです」
その一言で、レオンの表情から軽さが消えた。
「あなたの冤罪は晴らします」
セレナの表情が変わった。
父の執務室。
朝からレオンが見ていた資料。
父が言いかけた、毒事件の話。
レオンはまっすぐにセレナを見ている。
「その上で、あなたがこの国に残る理由がなくなったなら」
一拍。
「私の国へ来ませんか」
すぐには答えられなかった。
ついさっきまで商人だと思っていた男が、隣国の皇太子だった。
その男から今度は求婚されている。
「……今、お返事できるとお思いですの?」
「いいえ」
レオンは笑った。
「ですから、予約です」
「何のです?」
「あなたの処刑がなくなったあとの人生の」
「人生は予約するものではございません」
「では、候補に」
「勝手に変えないでくださいませ」
「難しいですね」
セレナは額へ手を当てた。
今日はもう、頭が追いつかない。
「ほら」
アルベルトの声がした。
二人が振り返る。
アルベルトは笑っていた。
「断った」
「まだお返事しておりません」
「同じことだよ」
「違いますわ」
アルベルトはレオンを見る。
「残念だったね」
そして、満足そうに。
「セレナは僕が好きなんだ」
レオンは何も返さなかった。
セレナが嫌だと言っても。
違うと言っても。
触るなと言っても。
アルベルトは一度も、そのまま受け取らなかった。
レオンの目から、笑みが消えた。
◇
レオン・ヴァルディア。
その名を、アルベルトが知らないはずがない。
ヴァルディア帝国皇太子。
商人ならよかった。
セレナがどれほど近づいても、最後には自分のところへ戻るしかない。
そう思えた。
けれど。
皇太子なら。
本当にセレナを妻にできる。
本当に、この国から連れ出せる。
自分の手の届かないところへ。
もし。
セレナが本当にいなくなったら。
腹の底が、ひどく冷えた。
嫌だ。
アルベルトは眉を寄せる。
なぜ、そんなことを考える必要がある?
セレナは自分が好きなのに。
今日だって、レオンの求婚を受けなかった。
なら、大丈夫だ。
それに。
審問がある。
もし、有罪になれば。
死刑を言い渡されたら
セレナだって
そのとき自分が手を差し出せばいい。
――助けてあげる。
――僕のところへ戻っておいで。
きっと、今度は拒まない。
ほかに道がないのだから。
想像すると、不思議なくらい胸が落ち着いた。
泣いているセレナ。
震える手で、自分の手を取るセレナ。
アルベルトは小さく笑った。
――処刑が決まればいい。
そうすれば。
セレナは僕の手を取るしかなくなる。




