第1部 第8章 兆
(第8章の概要)
ハジと連絡がつかなくなり、携帯も電源が入っていない状態が続く。マザキは係長(語り手)に対し、安否確認のためハジの自宅を訪問するよう指示する。もし連絡が取れなければ、警察への相談も辞さないという内容の「置手紙」を残すよう求める。この行為の正当性に語り手が疑問を呈すると、マザキは一瞬動揺し、背後で誰かと相談する様子を見せる。マザキの対応からは本当の心配よりも、予め決められた手続きを粛々と進める記号的な冷たさが感じられた。ナベサワもこの方針を支持し、機械的に同じ内容を繰り返す。その態度からは、自発的な判断を放棄してマザキの意向に従っている姿勢が透けて見える。
最終的に置手紙の役目は語り手に託され、その文面には「3日以内に連絡がなければ通報することを承認したとみなす」との警告が書かれていた。語り手は、この一連の流れが単なる安否確認ではなく、ハジを排除するための計画的な布石ではないかと不穏な気配を感じ取る。
(8章)
マザキが姿をみせてから、ハジから連絡が途絶える。
何度連絡してもハジの携帯の電源がはいっていないという、携帯キャリアの紋切り型のメッセージが流れるだけだった。
「どうしても連絡がつかないんですね」電話越しにマザキは当惑する俺に再三念押しする。
少し時間をおいてマザキは提案する「自宅に行ってください」自宅に?俺は思わず聞き返した。
マザキは「手短に」説明を始める
「連絡がつかないならば原因不明の突発的な発作で室内にひとり倒れてる可能性も否定できません」
「家族が気づくでしょ?」
「とにかく自宅に行くことは必須です。そうして速やかに職場に連絡しないと警察にも相談しますと置手紙をしてほしい」
マザキはここで一息ついた。俺は抑えきれず口にする
「個人宅に訪問して警察を示す置手紙で脅迫して、後で問題になりませんか」
マザキは一瞬動揺したように口をつぐむと背後の誰かとしきりに相談している様子が受話器越しに伝わった。
人事部では、脅迫、問題、責任とは組織に害をなす禁忌とみなされる。
そうした言葉のもたらす何かは、マザキにとって急所のひとつに他ならない。その数秒間俺のなかの何かがざわめいた。
マザキの片手間の対応にはハジの身を真剣に案じているとは到底思えなかった。
それは心配よりもむしろ予期していた事態に備えている段取りを報告するだけの記号だった。
「お、置手紙は用意します。とにかく訪問はするべきです。警察への相談についての警告も、判例のどこにも問題視されてません」
ナベサワは、マザキの意見をあらかじめ知っていたかのように、というよりはほぼおうむ返しのように、訪問と置手紙を口にして「直接、様子をみるしかないよ」と言う。
その言葉はどこまでも機械的でマザキの記号と似通った響きだった。判断を放棄して、どこまでも従順な様子にナベサワのむこうにマザキの意図が見え隠れしているようだった。
「必要なら僕もいくけどどうする?」そう嫌々ナベサワは提案している。
この面倒ごとを部下におしつける独特の間合い、提案の切り出しはいつものナベサワらしく、俺はなぜかほっとする。
マザキが準備していた置手紙は、結局、俺に託された。
その文面には、この文書を把握してから3日以内に連絡がない場合には通報することを承認したものとみなします、と下線付きで記されている。
今日の午後に自宅訪問して、夕方までに結果を聞かせてほしいとマザキは実験結果を聞く風に話すのみだった。携帯がつながらなければ訪問、訪問を果たせば置手紙、置手紙には警告、ルーティンめいた進行の先にはマザキの頭で何かを思い描く計画が明らかに不吉な姿で控えていた。
これは恐らくただの安否確認ではすまされない何かを孕んでいる。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




