第1部 第6章
(第6章の概要)
ナベサワ課長は、ハジが作成した膨大なマニュアルに興味を示さず、部下たちの不満も軽視している。一方、俺はタカスギからの批判や職場の混乱を受けて、ハジに直接マニュアル作成の意図を尋ねる。ハジは業務の流れを統一し、人の行動を通して意味づけた体系的な資料を目指していたと静かに語る。「情報は人間を背景にして生きるものです」というその説明を受けて俺は感銘を受けるが、ナベサワはそれを理解しようとせず、あざ笑うかのようハジのマニュアルに万年筆で×印を書き込む。やがてナベサワは場を去り、俺はハジと二人きりで対話を続けることになる。
その後、副係長スギタから「タカスギが人事部に行った」と聞かされる。これはハジに対する告発であることが暗に示されていた。翌日、人事部のマザキから俺に連絡が入り、「ハジについて話がある」と告げられる。職場内の空気は明確にハジを排除しようと動き出していた。
(6章)
「これ何が書いてあるの」
ナベサワはハジのつくったマニュアルの最初の2枚ほどをパラりとめくっていつもの感想をもらした。
窓口での申請書の入力マニュアルという説明してました、と俺は伝える。
「ふーん」ナベサワは何の関心も持っていないことを隠そうともせず生返事をする。
「で、それでハジさんがこれ作ってんのが何でタカスギさんが気に入らないの?」
「もっと他のやり方を指導したほうがいい、という指摘みたいです」
ふーん、とナベサワは興味なく返事した。
俺は尋ねる「タカスギさんは課長には何て言ってました?」
うん何かこのマニュアル作成についてもっと係長と方向性を整理してほしい、とかなんとか
「ごめん正直覚えてないんだ、いやはやえらい剣幕でさ」ナベサワはははっと軽快に笑う。
こいつは俺がタカスギに詰め寄られているのをみていたにも関わらず、だ。
「どうします?」
ナベサワは少し考えた様子で答える「ちょっとハジさんに何考えているのか、聞いてみるとする?」
そうですね、俺はナベサワの意見にとりあえず賛成した。
「僕いた方がいいかな」ナベサワは呟くように逃げようとする。
俺は無視する。
ハジの考えを聞かないことには何も検討しようがない状況なのは確かだ。
ハジをパーテンションの区画に呼ぶと、ナベサワと俺の姿と机に整然と並んだマニュアルを交互にみながら少し状況を整理している。
ナベサワは明るく切り出した「最近、体調どう」ナベサワは耳を指さした、ここ、ここ。
ハジはじっとナベサワをみながら悠然と回答する「お陰様でボチボチです」そうなんだ、ナベサワはぎこちなく笑顔をみせる。
そうだった、前の職場ではハジに助けられ続けてたんだよな、俺はナベサワの謙った様子にそんな感想をふと覚える。
「病院とかは診察しているの?」
「いえその節はご迷惑をおかけしましたが」そうなんだ良かったよと、お茶を濁すやりとりに終始するナベサワの態度に構わず俺は質問する「最近、時間外増えてるよね」はい、ハジは俺に向き直す。
いつものようにその表情からは何も読み取れない。
「マニュアル作成は捗ってるの?」ボチボチです、とハジは俺の発言の意図を探り始める。
ナベサワが口を挟む「ちょっとマニュアルについて教えてくれないかな」ハジはじっと沈黙する。
そうして「何をですか?」と尋ねる。
ナベサワは、何をどう考えて作っているのかなって思ってねと軽い調子で受け流す。
俺はおもむろにハジにマニュアルを差し出す。
「これって窓口での申請マニュアルだよね」はい、そうですけど。ハジは答える。
「どうしてシステム入力の操作以外に申請書の記載例パターンとか色んな情報をあえて載せるの?」ハジは俺をじっとみる。
俺はその様子が読み取れず続ける「まぎらわしくなるよ、内容が。もっとシンプルに」
ハジは少し笑いやがて眼をあげる。
ハジは説明した。
窓口業務では申請書入力するシステム操作を軸にマニュアルを構成した方が効率的です。
職場の多くの業務資料はただ一部の情報しか掲載していませんでした。
そのどれもが業務の断片だらけで、どれもバラバラな記載のなか、情報が統一されていない。
情報は人間を背景にして生きるものです。実際に職員がシステムを活用し業務運用しているその動く姿を頭のなかでシュミレーションしながら、その行動パターンをシステム入力までする完結した流れで系統づけ、順番に整理していくと作業の手順は整理されマニュアルのもつ情報は意味をもつことになります。
「全部?全部業務資料読んだの」俺は驚く「はい」ハジはこともなげに答える。
俺はもう一度マニュアルを見返す。
本当だ、俺の頭にある情報の断片がそれぞれ網羅され、受付からシステム入力までの流れに組み込まれ、人間の動き全体を系統だてて意味づけている「まじかよ」俺は本音を漏らす。
ハジはそんな俺をじっと見ていた。
ハジのマニュアルにはハジの意味する言葉が情報として踊っているようだった。
俺とハジとの同調するような空気圧にきょろきょろしていたナベサワは。
少しの時間キョドっていた。
小さな沈黙、やがて苛立ちを膨らませ始める。
そこにはハジのマニュアルからしみ出てきていた何かがじわりと俺の胸に届く一方で、ナベサワには拒絶されていた。
「ハジさん、こういうの、皆、困ってるみたいだよ」ナベサワは懐から自慢の高級万年筆をふいに取り出し、キャップをくるくる回して刻印つきの自慢のペンをだした。
「マニュアルなんてちゃちゃって作るもんだよ」ナベサワはマニュアルをつかんで首を振る「だめだめ」ナベサワは俺の眼前でマニュアルに大きくバツを描いた「ここ」さらに「こんなのも、いらないんだよ」「無駄無駄」ハジはナベサワがマニュアルを汚していく様を無感動にみていた。
ナベサワはマニュアルの残りページに黙々と万年筆をはしらせる。
筆跡の音は無機質に響いた。
「ハジさん窓口対応してないって皆言ってるよ」ナベサワはハジに無遠慮に問いかける。
ハジは首を振って再び沈黙モードになる。
「課長」俺は声をかける、ナベサワは俺を振り向く
「ここはちょっと二人で話させてもらってもいいですか」ああいいよ、ナベサワはそう言ってだから最初から来たくなかったんだと零しながら、あっけなく区画からでていった。
「タカスギさん人事部にいってるみたいです」いるのかいないのかよくわからない副係長のスギタはなにかの業務報告のように話した。
人事部?スギタは俺の反応をじっとみている。
そうして諦めたように付け足した「ハジさんのことですね」スギタは傍観者であり続けようと常に気配を消し関わり合いになることを避けようと努めていた。
職場の多くのことから距離をおいているにも関わらず、蔓延する空気はスギタのことも浸食しているようだ。
俺に警告をほどこしたいのは、スギタの背後にいるムラシマと桐原なのだろう、やつらの眼が抜け目なく光っていた。
翌日、人事部のマザキから俺に連絡があった。ハジさんについて聞かせてもらいたいことがあるとそう告げられた。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




