第1部 第4章
(第4章の概要)
冒頭、テレビの教養番組で紹介された「サバナ気候の動物たちの棲み分け」に例えられるように、職場でも強者と弱者の間に淘汰の構図が存在する。課長からの非公式な依頼で、臨時のチラシ発送プロジェクトが立ち上がる。メンバーはムラシマ、桐原、タカスギを指名する。
表向きは単純な仕事だが、用紙の調達、経費折衝など内部調整が煩雑な厄介な案件であり、適任はほぼ必然的にタカスギだった。過去に上司とのトラブルで休職していた彼女は、その経歴をナベサワに利用され、暗黙の圧力のもとプロジェクトの中心に押し込まれていく。タカスギは懸命に業務をこなすが、次第に無表情となり、子育ても手が回らないなど心身ともに追い詰められていく。ある日、印刷されたチラシの誤字が発覚。桐原がキンキン声でそれを指摘し、職場全体の注目がタカスギに集中する。タカスギは、起案段階で原稿を係長(=語り手)に見せたと主張し、自らの責任だけでないことを訴える。だが語り手はそれを肯定も否定もできず、沈黙する。印刷をやり直す余裕はなく、1万2千枚の誤字修正を全員で手作業で行うことになる。
重苦しい沈黙の中、語り手への不信感が職場全体に広がっていく。ナベサワとタカスギが密かに会話する様子もあり、タカスギの視線は次第に冷たくなっていく。ムラシマと桐原もタカスギを中心に結束を強め、語り手は孤立を深める。
最後に語り手は「俺は誰も守れないし、守ろうともしなかった」と内省し、「自然淘汰」という言葉を再び思い出す。
(4章)
教養番組はサバナ気候の野生動物の生息を特集する。
水が枯渇する乾季では水飲み場で過酷な生存競争が繰り広げられる。力の強い生物が潤沢に水を得るかわりに、力の弱い生物は水飲み場から排斥される。追われた生物はようやくみつけた臭い汚い泥水でなんとか糊口をしのぐ。テレビのナレーションから野生動物の姿を「棲み分け」と無機質に紹介する。
強者生存を意味する棲み分けはやがて自然淘汰という何かとてつもなくでかいうねりとなる。
「タカスギさんよろしく」桐原がにこやかに声をかける。
「タカスギちゃん頑張んなきゃね」ムラシマもそれに続く。
課長のオーダーを実現するプロジェクトを組むのは容易かった。俺はタカスギを中心に桐原、ムラシマとメンバーを集める。
臨時の催促チラシを発送するというプロジェクトのミッションは単純だった。
ただ、用紙の調達、チラシ印刷の段取りや発送経費の捻出、単純だが年度途中の事業特有で内部調整が多く生じる厄介なもので課長からの直接の依頼でもないと誰も軽々には引き受けない。
印刷は据え置きの高速プリンタで対応する単純作業としても、用紙の手配には、予算部局との面倒で時間と神経を使う経費捻出の折衝が背後の事務として控えている。
単純作業の経験しかない中年のムラシマにはどうみても無理な事務で、特定部署の経験のため偏った知識しかない桐原はその役割に機能しない。
誰がどうみても必然的にかろうじて予算知識があるタカスギがプロジェクトの中心に巻き込まれている。容易で単純なミッションにはみえるが、調整等を細かく段どっていかないと思わぬトラブルを招きやすい。
タカスギはプロジェクトの選出に顔をこわばらせていた。
ムラシマと桐原に囲まれる中しきりに俺に救いを求める目配せをみせる。
ナベサワは満足そうだった。
タカスギが前の職場で上司とぶつかり長期の病気休暇をとっていた事実を俺に耳打ちしたのはこいつだった。2度と上司とトラブりたくないよう意識しているタカスギの防衛本能を巧妙に利用している。
タカスギは潤沢な水を飲みたがる弱い生物なのだろうか。
「いつ結果だせそうかな」ナベサワは俺に尋ねる。俺は引きつった表情でただタカスギとそれをとりまくプロジェクトメンバーの様子をただただみていた。
チラシ原稿の素案をタカスギは作成し、持ち回りで内容説明をする。
桐原は丁寧に校正する。
素案作成の一方、用紙購入の見積もりを事業者から何度も取得し経費計上の計算を繰り返すともに予算部局に相談時間の予約をして経費捻出の調整をする。
桐原は言った「タカスギさんすごい頑張ってるんです。ひとりで」
事実、職場の最終退庁簿はマニュアル作成をしているハジかタカスギの名前が交互に列記されている。
このころタカスギの顔から表情が消えた。
声をかけても生返事でただ黙々と事務をこなした。
部長にいい報告できそうだよ、ナベサワは満足そうにそう俺に告げて定時にゆうゆうと帰宅する。
「係長」
タカスギは書類をもって立っている「起案遅れてすいません、これで支出原義作成できました」無機質に報告するタカスギの背中に俺は声をかける「お子さんは大丈夫?」
えっとタカスギは一瞬なにを言われたか理解していなかった。
そうして、ああっという顔をみせる「息子の怪我はたいしたことありませんでした」
ただ、とタカスギは眉をひそめる「夕飯をつくってやれなくて」ちょっとその時間をつくれないんです。そう弱々しく言い残してタカスギはひとり自席に戻って残作業を継続する。
タカスギの作成した原稿をムラシマが高速印刷し、桐原と帳合していくなか事件はおこった。
桐原のキンキン声が響く「ここ文字間違ってる」何とか捻出したなけなしの経費で印刷したチラシの文字に致命的な誤字があった。
目ざとく発見した桐原のキンキン声は職場中に届いた。
タカスギに視線が集まる、強張ったタカスギは「自分だけじゃない係長にだってみせてる」
確かに起案には原稿が添付していた。「わたしはみせた」「ちゃんと係長にみてもらって確認したんだ」
俺は、俺は何も言えなかった。
肯定も否定もできなかった。
短時間のなか起案に添付された原稿の文言。職場ないでは何とも言えない雰囲気が充満する。
「タカスギさんミスしたの」ナベサワは何てことなく俺に尋ねる。
「本人は起案に添付していたと言ってます」起案は俺もそうだが課長であるナベサワもみている建前になっている。
「起案ね」
ナベサワは汚いものでもみるみたいにその添付資料の文言をみている「で、どうすんの?」はい、今から印刷はもう経費がないんで手作業で修正しようかと「手作業?何枚」1万2000枚、ふーんとナベサワは言った。どうでもいい感じだった。
「それ発送までに間に合うの?」
皆でやろうと思ってます俺の絞り出すような声に、ナベサワは面白くなさそうに反応してみせる。
手作業の修正には全員でとりかかった。ハジも例外ではない。
皆、作業は無言だった。黙々としている作業のなか俺に対する軋轢が積もっていたのは自覚していた。
遠くでタカスギとナベサワが声を潜めて話している姿がみえる。
起案、原稿とだけ聞こえてくる。その直後からタカスギの俺を見る目が遠く厳しくなっていた。
ムラシマも桐原もタカスギを労わるように囲み続け、明らかな溝と断絶が俺の周囲に生じていた。
すべてはもう起こってしまっていたことなのだ。
俺は誰も守れないし守ろうともしていなかった。
自然淘汰。
そんないつかの言葉が俺の頭に浮かんでは消えた。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




