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ノイズ- And I'm still breathing, I'm still breathing-  作者: 消しゴム星人


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第2部 9章 巡弥生 乾坤一擲

その日は朝からいつものように寒かった。

職場でカノウが独り言のように口にした。

私、昨日、電車でハジさんみかけたな。ハジさん誰ですかそれ?マツムラはなんとなく尋ねる。

カノウは何となく答えづらそうだ。もう過去の人になった、ハジ。そんなやりとりだった。

今日は職員の異動内示の日だった。

誰がどこにあの人はどこに、誰が来るのか自分はどうか。

浮き足立つセレモニー感のある職場でも特殊な一日だった。

午後に発表されるらしい。内示の日の予告は数日前から示されていた。

それは俺のXデーだった。



「何ですか?それ」イノウは興味を示した。「職場の異動発表の日です」

ふうーんって顔でふぅーんとだけもらした。「で、その日に私は待機してろと」

はい、俺はそう告げる。その日に俺はナベサワに署名を書かせるのだ。

イノウは携帯でカレンダーをチェックすると一言「わかりました」



午前中から様々な異動の憶測が流れるなか情報交換でやりとりが交錯していく。

その空気感がお祭り感を構成するイベントだった。

イベントの賑わいのなか楽し気にはしゃぐナベサワに近づいた。

 「課長」ナベサワはふと俺を目にすると、神妙ないつもの顔になった。

例の残念です・・の表情パターン実装、だ。

 「はい何でしょう」俺は何でもないように相談を伝える。このなんでもなさ感がとても重要だった。

 「後でご相談があります」ナベサワは後?「今でも大丈夫ですよ」無警戒にそう尋ねる。

 「いえ課長もお忙しいでしょうし」ふぅんって顔で「わかりました」とだけ回答するとまた周囲の

係員と談笑を再開する。俺はさっと姿を隠すように自席に戻る。最初の一手は予定通り完了する。


午後の早くイノウに連絡をいれる。でない。着信をばっくれる?え?

俺の動悸は早まる。内示の発表は俺の予想では17時前後、イノウと連絡がつかない。


俺は準備していた台詞を再読することで動揺を抑えようとする。

表情と言い回し、間合いの取り方。不自然は厳禁だった。切羽詰まった感もNGだった。

何となく聞いて何となく確認して、そうして書かせる。できれば録音は回避したかった。

ただイノウと連絡つかない事情のなか俺は判断を躊躇する。



 「そうですねぇ、ぶっちゃけ脅迫されたに対する回避手段は基本ないです。ま録音でもするしかないです・・・可能ならですけど」イノウはそう教えてくれた。ナベサワから署名をとった後、奴の反撃として想定される脅された脅迫されたを防御する手段を尋ねた際のレクチャーだった。

 「可能なら?」俺はイノウにふと聞いた。イノウは苦笑する「通常、行政の施設って録音禁止ですよ」



 準備した台詞はもうゲボがでるくらい反芻して頭に叩き込んだ。ターゲットの反応もあらゆる事態に備えた。ただ・・・イノウとは依然連絡がつかない。時間は刻々とすぎる。リスケするか?俺はうろたえた。妻の表情がみえる。嫌ありえない決行しかない。俺には次の機会なんてないんだ。

 手に汗がにじむ。ここはやりきるしかない。


 「異動がでたぞ」誰とはなく声が上がった。職場は一気に緊張する。


 異動内示の一覧表をもってナベサワは悠然と職場内を周遊する。異動者には温かく労いをしていく大きな課長像を演出し係員の尊敬をあつめる。希望通り異動できた者は感謝の面持ちで次の抱負を課長に誓い皆は称える。心温まる光景だ。次は俺だった。降格が決定している俺は異動が半強制的に義務づけられている。ナベサワは眉をひそめて大仰な態度で一覧をみる。俺だよ、わかってんだろお前には。そうして例の表情パターンを実装しつつ俺に近づいてくる。


 シミュレーション通りだ。「タカシ係長は情報システム課です」ざわめきとヒソヒソした声がする。喧騒が一瞬やむ。微妙な空気。ナベサワは実装した表情を崩さずに「大変・・・残念です」と言い残しては、さっさと次に向かう瞬間、俺は課長に耳打ちする「課長あとでお時間大丈夫ですか?」課長は虚を突かれ一瞬素の表情になるが「あ、ああさっきの相談ね」うんうんわかっていますよ、と実装表情を再装備する。皆の視線のなか悠然と去っていく。

 俺はその後ろ姿を見送りながら、案の定忘れていやがったと舌打ちをする。最後の一手はとりあえず完了する。


携帯。メール。SNS。俺はすがる思いでイノウへの連絡を取り続け・・・やがて諦めた。

異動内示の発表もひと段落しナベサワは数名の係員とのご歓談の様子だ。職場には俺を含め数人しか残っていない。もう時間はない。不自然な動きはどうしても回避したい。ナベサワが俺にちらちら視線を送っているのは分かっている。

 俺はやむを得ないとイノウというカードを無理くり捨てた。胃が軋み始める。息が途切れがちになる。

シミュレーション通り息をひそめて自席で待った。ただ待つのが一番無難だ。急かしても催促してもならない。奴に不自然感をあたえてはならない。すべてがおジャンになる。

 「係長」遠くから声がした。ナベサワだった。手招きしている。「時間大丈夫?」無警戒モード確認。OK。

 「大丈夫です。課長はお疲れですか」大丈夫だと微笑みをだす。こいつは係員から集めた敬意で満腹モード。確認、OK。

 「相談って?」はい、あのちょっとあちらで。パーテーションを示すと、ナベサワは少し怪訝な表情だが。俺は間髪入れず。「そんなにお時間はかかりませんが」ああうん、とナベサワは了承する。誘い出しモード確認。OK。

 ナベサワはよっこらせと立ち上がる。ゆっくり歩きはじめる、俺は後ろから慎重に着いていく、奴の背中から表情を探る。無警戒モード、レベル2確認。OK。

 俺はシミュレーションどおり、そっと話題をだす。警戒をさせないためだ。

 「ハジさんの件、大変でしたね・・・」ソフトに何気なく話題を口にする。ハジさん・・・ああいたね。ナベサワは少し反応を強める。「災難でしたね・・・課長も」うんうん参ったよ。パーテーションは目の前だ。足を踏み入れて次の準備した台詞だ。右足がはいった。確認、OK。


 「実は私、審査請求をしていまして」うんうんナベサワは日常会話の体で聞いている。全身が少し緊張を始める。よいっしっと腰を下ろす。ナベサワは俺に眼を向ける「大変なんだって?」寛容な課長の像・・・まだ続けてやがる。計算通りだ。俺はもじもじと座る。


 奴との真剣勝負がいま始まる。俺は資料を探すふりをしながらこともなげに決められた台詞を口にする。「ハジさんのマニュアルあるじゃないですか」ああ、あったよねナベサワから仮面が少しづつ剝がれていく「実は、弁護士、・・・さんと相談していて課長が」俺は台詞のピッチと資料をだすタイミングをカウントしながら奴に差し出した。

 例の×印のマニュアルだった。「課長が知らないって証言しているからそこは証明してもらえって」俺はちらりを奴をみる。奴は×印をじっとみている。そうして万年筆もみている。「きちんとみていたって証明してもらった方がいいって・・・」


 俺は言葉をゆっくり切る。ここだここがヤマだ。心がざわつく焦るな、憤るな。「証明?」はい・・・課長はみていましたとご一筆を・・・「お願いしたいなと・・・」俺は必死に感情を抑えて謙った穏やかな笑顔をつくり奴にみせる。奴の警戒感MAX。

 ここだここだ、俺は自分の内心の声を一生懸命押さえつける。声を荒げてはならない。すぐ誰かが聞き咎め下手をすると脅迫を擦り付けられる。心臓の動悸が早まる。


 ナベサワは沈黙していた。長い沈黙だった、俺は奴を睨みつける衝動を必死に抑えるために俯いた。長い沈黙のなか。キュルキュルと万年筆のキャップを開ける音がする。かかった、俺は直感した。

 「・・・まタカシ係長の処分が少しでも軽くなるならば」とぶつくさ言いながら

ナベサワはマニュアルに記載を始める。俺は胸の高鳴りを抑えきれず必死に表情を装った。奴は「印も?」と聞くのでははいっと肯いた。


 ミッション、コンプリート・・・俺は胸を撫でおろしパーテーションをでた。ナベサワは俺を寛容にみて例の表情モード、THE残念。「弁護士費用大変でしょうもし金銭面で必要なら相談して」こんなことを口にした。いえいえ課長そこまでご配慮いただけません。

 俺は慇懃に頭をさげた。お前から金の貸し借りしたら地獄いきだろ、そんな思いをひた隠した。課長はまだ何かあるんですか?「うう~ん少し資料整理がね」ナベサワは席に悠然と戻っていった。ふとみるとイノウからメール着信があった。


 これ・・・OUTです。ナベサワの署名PDFを送信してイノウはそうSNSしてきた。何故?・・・日付、これハジさんの処分日になってますよ。ナベサワは署名の日付を過去日にあえてしていた。イノウはSNSで指摘する。普通に偽造でドボンです。やばいっすよ、これ。書き直させてください。例文送ります。まじかよ・・・あのカスここにきてやってくれるぜ。

 ナベサワはまだ席にいた。イノウは例文を送信してくる。

 どうする?奴へのもってきかた間違えると事件にされるな・・・。だめかミッション・・アンコンプリート・・・かな。その時妻の表情が浮かんだ。肩の手の震えが蘇ってくる。・・・俺は半泣きだった。まだだまだまだ、そうだよ俺には次なんてない。退路なんてない。明日なんて捨てた。

 ナベサワにゆっくりと歩みを進めた。最後の切り札だ。THE・弁護士カード。

 「課長・・・」俺はナベサワの席に仁王立ちする。「弁護士の先生、これじゃおかしいって怒られちゃいました」ナベサワは俺の雰囲気に度肝を抜かれたようだった。勢いを止めるな俺は自分を必死におした。署名をさしだす。「日付ちがってるから偽造になるって怒られちゃいましたよ」弁護士、偽造、奴は咄嗟に頭がショートしたのか、ごごめんごめん、と書き直しモードだった。

 もう一押し乾坤一擲。

 俺はイノウのメール文書を奴に示した。ちゃんと記載してほしいって弁護士さん大変ですよ・・・。


 俺は自席で息を切らした。途方もなく徒労感があった。ナベサワは課長席で署名の再作成中だ。完成するまで見張るつもりだった。ここで逃がすかこのクソ野郎。俺は悲しみと憤りと苦しみがこみあげてくる心情を必死に抑え込んでナベサワを見張った。


 やがて奴は手招きした。神妙に改めて書き終えた資料を俺にだした。俺は有無を言わさずさっと取り上げPDFをイノウに送信した。イノウはOKとだけ返信してきた。ナベサワが何か言いたそうにしているが頭をさげて職場を後にする。どうしようもない疲労と悲しみと虚しさと解放感と絶望感とが押し寄せてきていた。

 

 異動内示のそんな夜だった。


 俺は扉をあけた。妻が待ちかねた様子で俺の表情を全身をくまなくみた。

 その姿を見届けた彼女は「お疲れ」それだけ言った。そうして満面の笑みだった。

 これが俺のミッションの真のコンプリートだとじわじわ感じた。


本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。

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